スープの冷めない距離では遠い



少しずつ臆病になってゆくのを感じる度に臆病に拍車をかける悪循環が、自分には心底似合いだと思った。そんな自身を嘲るのが自らに宛行われた役目だとでも言わんばかりに笑えば、彼はその低音で名前を呼んでは繋ぎ止めてくれる。触れるか触れないかの距離を保ち、流れる時間にただ身を委ねることで熱を分かち合う術から目を背けて来た。崩れそうで崩れない均衡が心地好く、直接的な接触とは違った緩やかな侵食が境界線を曖昧に濁す。気付いたときには恐れていた筈の依存が傍らに佇み、寄り添うふたつの体温は見えない鎖で雁字搦めにされていた。指先を絡め合うことすら出来ずにいるのに、何処までが自分の領域で何処からが相手の領域なのか判らない。とんだ皮肉だ。

担った家事を終えた頃には、仕切りに沿って敷地内だけが世界から切り離されたような静寂が家内を包む。リビングルームのドアを開くと、照明灯代わりの陽光が窓枠に四角く切り取られ、その中に彼は存在した。静けさに息衝く苛烈な赤に目を細め、濃影を落とす背中に歩み寄る。
「良い天気でありますな。お陰で洗濯物の乾きが早いでありますよ」
「ああ、確かにこの天気なら良く乾きそうだ」
言葉を降らせた背中は振り返らない。左斜め後ろから見下ろすと、庭先に足を降ろす形で腰かけている彼の膝上で白い毛並みの猫がその身を丸くしていた。陽に縁取られた和毛を撫でる手のひらは不器用ながらも優しい。慈しむような手付きに猫が喉を鳴らし、手のひらに顔を擦り寄せる。心地好さげに目を細める様は微笑ましい。
「めろめろだね」
そう零すと、ふ、と微かに空気が揺らぐ。何だそれは、と彼が吐息を零すように笑みを湛えたのが知れた。気配だけで彼がどんな表情を浮かべているか確信を得られる。それだけ長い時間を共にして来て、それでも自分は彼の膝上の白い彼女より彼の温もりを知らない。歯痒さが頭を擡げ、その事実を振り払うように緩く頭を振る。ずっと続けて来た付かず離れずな関係を、この心地好さを、一時の衝動で壊してしまうのは余りに惜しい。
(ああ、でも、もう一時的なものでもないか)
衝動の波の間隔は徐々に短くなり、臆病で塗り固めた保身的な理性を揺るがす。長らく目を背けていた熱を分かち合う術が思考をちらつき、知らず彼の体温に誘われる手を叱咤したこともあった。潮時なのかも知れない。ただ、そうは言っても、どうしたものかと考え倦む自分がいた。臆病風に吹かれ、彼の手を握る勇気すらない。
「やになっちゃうな、もう」
無意識に口に吐いた呟きに苦笑する。手も握れないとは、とんだ純愛振りである。額に手のひらを当ててしゃがみ込み、ぐしゃりと前髪を乱す。本能と理性の狭間を行き来している自分が滑稽ですらあって、本当に「やになっちゃうな、もう」だ。
「何が、やになっちゃうなんだ?」
「うーん、後れ馳せながら青春してる自分が?」
首を捻り、こちらを捉えた視線に戯けるように肩を竦めてみせた。視線に怪訝な色が灯る。
「青春?お前、今自分が幾つだと…」
「判ってるでありますよ、自分の歳くらい」
故に余計頭を悩ませていると言うのに、その根源である彼には伝わらない。当然ではあるが、何とも複雑な気分だ。粗雑に頭を掻き、嘆息を零す。脳のキャパシティが限界を訴え、思考が働くのを放棄しつつある。正直もう面倒臭い。今日は悩むのはやめにして明日に持ち越しにしてしまおう、そうしよう。そう結論付けて腰を落ち着かせる。重心をずらすと、彼の左腕の付け根の部分に額を押し当てた。手は握れずともこれくらいは出来る。否、これくらいしか出来ないと言うのが正しい。それでも、積み重ねて来た年月の重みを思えば上出来だ。
「…重い」
「これくらいで文句言わないの」

どうせ雁字搦めで逃げられはしないのだから(ゆっくりやって行きますかね)



人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -