d.永久の刹那



「何」
 やんわりとおとこの指先が頬の皮膚に食い込み、走る傷痕を引っ掻くように撫で下ろされる。責めるようになぞられる。痛みこそないが、ちりちりと焼けるようなこそばゆさに娘は微かに肩を竦ませた。
「やってんだ、アンタ」
 少しばかり眩過ぎる金糸が打つ緩やかな波に手招かれ、しかし、誘われる儘手を伸ばすことをおとこがよしとしない。細められた双眸が孕む、呆れにも似た怒りの色に娘は少なからず居た堪れなさを感じながらも、引き付けられる意識を、絡む視線を、自ら逸らすことが出来ずにいた。
 傷痕を這う指先が輪郭まで至り、次いで輪郭に沿って迫り上がった指先に耳裏を撫でられ、肌が粟立つ。息を、詰める。
 耳裏を擽る傍若無人な指先を阻もうと伸ばした娘の手を躱し、おとこの骨張った手が視界を遮るように迫った。白い、と言うよりも青白い手のひらが左目に覆い被さる。白から黒へ視界を塗り潰され、娘は微かに肩を震わせた。胸を漠然たる不安が占める。
 ―――ミエナイ。
 触れ合う部分が孕む熱がおとこの存在を娘に教えた。だが、右目が映す世界にはおとこは存在しない。漠然とした不安が恐れへと姿を明瞭にし、娘は自身を宥めるように深く息を吸う。肺を擽る酸素がやけに冷たく感じられ、身体の火照りを自覚する。身体の火照りに反して、背筋が凍る。悪寒がした。
 恐い。視えないことが、おとこが視えないことが、堪らなく恐い。
「徒でさえ直ぐくたばっちまう癖して、ちょっとばかし短絡的過ぎるんじゃねぇの」
 おとこの声色が耳朶を撫で、徐に左の視界が開ける。孕んだ熱が離散し、再び娘の左目に飛び込んだ金糸の眩さに眩暈がした。恐れが霽れる。安堵で目頭が熱い。
「俺は、」
 上擦りそうになるのを堪えて絞った声は、僅かに掠れてしまう。咄嗟に口を噤むが出てしまったものは戻らない。おとこは器用に片眉を吊り上げて先を促す。娘は唾液を嚥下し、意を決したように一度伏せた眼差しでおとこを捉えた。視線と声色に揺るぎない想いを落とす。
「どう足掻いても、それを否とされても、結局俺はひとでしかない」
 苛烈なまでの赤が忌み嫌われても、不吉だと罵られようとも、覆ることのない事実。愛せも、愛されることもない、それでも娘の世界はひとの世なのだ。
「お前にとってはひとの命など余りに短いんだろう。だが、俺にとっては長過ぎる。…長過ぎるんだ」
 そこにお前が存在しないのなら、尚更。
「だから、俺はお前が視えない儘長い余生を送るより」
 左目が、疼く。
 しかし、これは左目が主を求めるものではない。
「喩え短くとも、お前がいる世界で生きたいと思った」
 ―――これは、娘がおとこに焦がれる疼きだ。
 おとこは目を見張り、それを受けて娘もまた目を見張る。出会ったときから揺らぐことのなかったものが揺らぐ。傾ぐ。崩れる。
 彼が瞠目する様など娘は知らない。飄々とした態度が崩れた事実を瞬きすら忘れて見詰めていると、瞠目が徐々に薄れ、おとこはつい先ほど娘の視界を遮っていた青白い手のひらで金糸をくしゃりと乱した。
「本当、馬鹿だよアンタ」
 溜め息混じりの声色と同時に、青白い手のひらが金糸に次いで娘の髪を乱す。おとこの手のひらが後頭部に滑り、もう一方の手が頤を掬う。寄せられた唇が眉間に押し当てられ、反射で閉ざした瞼にもそれと同じ感触が落ちた。困惑が渦巻く。瞼越しに口付けられた左目が、熱い。
 開いた瞼の先で、おとこが苦く笑った。
「アンタに俺が視えなくなったとしても、アンタが誰かと夫婦になって、子供産んで、孫が出来て、其奴等に見守られながら大往生してくれりゃ、それで良かったんだ」
 それで良かったのに―。
 娘の困惑を後目に再び落とされた唇が、娘の唇に痺れを残して、離れる。
「そんなん言われたら、」
 ただ、茫然と、おとこを見詰めた。
「―――アンタを誰かにくれてやる気が失せちまったよ」
 ただ、茫然と、その酷く柔らかな笑みを左目に焼き付けた。



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