c.楽園の代償



 恐る恐る、おとこの指先が娘の左の眦に触れた。その感触は日が替わって尚、そこに残る。
『視える、の?』
 今にも消えてしまいそうな声が鼓膜を撫で、娘は首を縦に振った。それだけでは伝え足りない気がして、ああ、と肯定を音でも示す。おとこは考え倦むように顔を歪ませ、結局は眉尻を下げて笑った。
『馬鹿だなぁ、俺』
 ぽつりと独り言のように零し、おとこは指先をゆるりと滑らせる。ありもしない涙を拭う指先に娘は目を細めた。
 おとこの深緑が西日に縁取られて美しいと思った。美しく、そして哀しい。
『視えなくなればいいと思ったのに、』
 傷が、左目が、疼く。―――主の許へ還りたい、と咽び泣く。
『視えててほっとしてる』
 震えを堪えるように掠れた声が耳朶を撫で、おとこは俯いた。泣いて、いたのかも知れない。
 酷い嘘を吐いている気分になった。

 ひと月前、深緑の彼が望んだ通りに娘は左目の視力を失った。ひとならざるものどころか光さえ認識することは出来なくなった。
 どうしても、と娘はもうひとりの幼馴染みにせがんだ。おとこは空を模した双眸を哀しげに細めて首を横に振った。だが、娘は引かなかった。
 ―――ミエナクナルワケ二ハイナカインダ。
 おとこが目を見張り、息を詰めたのが伝わる。娘は動揺に揺らいだ空色に映り込む自らと対峙した。目に痛いほどの包帯の白が顔の左半分を覆い、右目からはらりと滴が落ちて頬を濡らす。
 ああ、自分は泣いているのだ、と娘は他人事のように思った。何と無様なのだろう、と。それでも、喩えどれほど無様であろうとこの願いだけは譲れない。
『頼む、どんな犠牲を払おうと構わない―――俺から彼奴を奪わないでくれ…っ』
 後は恥も外聞もなかった。おとこに縋り、涙が枯れるまで泣き続けた。どれだけの時間が過ぎたのかも認識出来ぬ儘、やがて声すらまともに発せず、無様に喉を鳴らした娘の髪を指先で梳き、おとこは静かに告げた。
『幾らか寿命を削ることになる。それから―――君の左目を僕に頂戴』
 子供がものを強請るような幼さが、そこにあったならどれほど良かっただろう。おとこは苦汁を舐めるかのように顔を歪ませていた。
 ―――左目は既に娘のものではない。ひと月前の、あのとき、あの瞬間から眼前のおとこのものだ。
 一度失われた視力を取り戻す代償に娘は寿命を削り、左目をおとこのものとすることで視力を取り戻した。多大なる犠牲の上に成り立つ、謂わば禁術を紐解いたおとこは、その空を模した双眸を細め、眉尻を下げる。
「不便で仕方ないでしょう?僕から離れられないなんて」
 おとこの指先が左目に瞼越しに触れるだけで、嘘のように疼きが止まる。娘は生涯、おとこから離れることは出来ない。左目がそれを許さない。
 自らの支配下に入れたものだけに禁術は有効となる。娘は主を求めて咽び泣く左目を宥める為、定期的におとこの許へ通う日常を送っていた。不便なことなど何もない。幼い頃からずっと傍にいる相手で、増してや無理を言っておとこを巻き込んだのは娘の方だ。だと言うのにおとこは申し訳なさそうな顔をする。
「不便なのは寧ろお前の方じゃないのか?死ぬまで俺はお前に付き纏うんだぞ」
 哀しげな指先が娘の左の眦に滑る。そこに残る感触を上塗りされ、娘は僅かに戸惑った。
「不便だなんて思う筈ないよ。だって、―――僕はとても卑怯だから」
 ごめんね、と空は今にも泣き出しそうに笑った。



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