b.深紅の箱庭



 娘の私室から覗く庭の木々、草、花までもが赤く染め上げられていた。土も池の水面も、全てが赤い。そこは深紅の箱庭と化していた。
 庭先にはひとりのおとこが、その深緑の髪を、全身を、西日に縁取られて佇んでいる。
『そんなにひとが嫌いでありますか』
 思い詰めたような、それでいて冷静とも取れる声色。影になり表情は読めない。
『嫌いなんじゃない』
 縁側の床板が軋む。おとこが娘との距離を詰め、やがて娘の視界に影が差した。
『―――もう、どうでもいいんだ』
 娘は気が付かなかった。そのとき、その瞬間まで、おとこの右手に握られた鈍く煌めく銀色の凶器に。
 吐き出した言葉が、どれほどおとこの胸を抉ったか、娘は気が付かなかった。

 夕刻。茜空。差し込む西日。赤、赤、赤。傷が、左目が、疼く。
 狂いそうなほどの熱が、ぬるりと滑る指先が、鼻を刺す血腥さが、じわじわと襲い来る痛みが、どくどくと早鐘を打つ心臓が、ぱたぱたと降り始めの雨のように畳を汚す血が、今もまだ苛烈なほど鮮明で―――。
 幾らか水気をなくした深緑の髪が頬を撫で、その感触に目を細める。娘とおとこの体格差は歴然で、ぎちりと身体に巻き付く腕に骨が軋んで息苦しい。それでも身動ぎ一つしないのは、娘がおとこに対して少なからず負い目を感じているからだ。
「責任を取る、などと吐かしてみろ。二度と貴様とは会わんからな」
 娘は静かな声でおとこに告げた。ひくりと微かにおとこの身体が震える。震えは娘にも伝わり、ちくりと胸を刺す。
 娘がおとこと顔を合わせるのは実にひと月振りだ。おとこは娘に会いに来なかった。娘がおとこを訪ねても姿を見せなかった。ひと月の間一度も顔を合わせないなど、生まれてこの方初めての経験だった。ひと月は長い。幼馴染みであるふたりにとってひと月は長過ぎた。
 ひと月振りに会ったおとこは臆病になっていた。
 無理にでも会うべきだったのだ。閉ざされた戸を破ってでもおとこの家に乗り込むべきだった。今更、今更だ。後悔先に立たず。悔いるには遅過ぎる。
 娘が、おとこを臆病にした。
 ―――ミエナクナレバイイ。
 そう振り翳され、振り下ろされた銀色。鈍く煌めくその切っ先に皮膚と肉を切り裂かれる衝撃。額から頬、輪郭に至るまで刻まれた生涯消えることのない傷痕。
「――酷ぇ、の」
 肩口から響いた、ひと月振りに耳にしたおとこの声は泣いているかのように掠れていた。ひくりと微かに震えたのは娘の身体だ。どうやら臆病になったのはおとこだけではなかったらしい。
「罵られる覚悟はして来たけど、求婚する前に釘差される覚悟はして来なかったであります」
「貴様の嫁なんぞお断りだ」
 うわぁ、と情けない声が上がる。ずるりと娘の身体に巻き付いていた腕が外れた。顔だけは肩口に埋まった儘だ。
「死ねって言われたがまだ良かった」
「甘えるな、馬鹿者」
 娘は肩口の深緑に手を伸ばした。撫でる。やはり幾らか水気をなくした髪はぱさついていた。
「…見えなくなればいいと思ったんであります。視えなくなればいいって。そしたら、また…ひとの世界を、見てくれるんじゃないかと…思って…」
「―――悪かった」
 おとこが跳ねるように顔を上げた。今にも泣いてしまいそうな顔がそこにはあった。
「な…んで、何で謝るんでありますか…っ!」
 きつく肩を掴まれ、娘は痛みに顔を顰める。
「我が輩の、俺の、」
 怒気すら孕んでいた声が徐々に弱くなる。連れて肩を掴む力も弱まった。悲愴に歪む顔が俯く。
「台詞…取らないで、よ」
 縋るような声だった。
「ごめん、ご…めん、」
 傷付けたかった訳じゃないんだ。
「ああ、知ってるよ」
 傷付けさせてごめんな。



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