a.杞憂の羽音



 ああ、と娘は嘆息した。
 左目が焼けるように熱い。瞼の上から手のひらで眼球を押さえ付け、抉り出してしまいたいほどの痛みに耐える。左目は既に娘のものではない。ただ、以前と同じように眼窩に収まっているに過ぎない。いつの日か独りでに飛び立つこともあるやも知れない。そんな杞憂を巡らせながら、娘は奥歯を噛み締めて静かに笑った。
 眉根を寄せて苦しげであるそれが、酷く穏やかであるかのような静けさが闇に溶ける。
「逃げてくれるなよ」
 語りかけ、瞼越しに触れる。愛撫のような労りを持って、娘は指先で左目を撫でた。
「お前にはここにいて貰わなくては」
 母が子を諭すような口振りに応える者はなく、静寂が肌を刺す。
 ――ああ、と娘は再度嘆息した。
 眼球が口を利く筈もない。眼球には口がないのだ。応えがなくて当然だと言うのに、何故こんなにももどかしい気分させられるのか。
 では、と娘は思う。
 口がないならば、耳はどうだ。ある筈もない。娘がどんなに語りかけたところで先ず届かない。言葉などでは、眼窩に収まる眼球を戒めることは出来ないのだ。
 ならば、と娘は思考を巡らせる。
 眼窩を塞いでしまう他ないだろうか。瞼を糸と針で縫い付けてしまうしかないのだろうか。
 否、それでは意味がない。塞いでは見えなくなってしまう。見えなくては意味がないのだ。左目は既に娘のものではないが、娘にはなくてはならないものだ。
 自分の左目が映し出す世界が常人とは異なるのだと娘が気付いたのは、娘がひとの世を儚むより前のことだ。娘はひとの世に馴染めない。苛烈なまでに赤い髪はひとに畏怖を与え、同じひとであることを否とする。
 故に娘はひととの関わりを最低限断った。ひとの世に未練はない。愛着を持つ前に娘の方が拒まれてしまった。傷付かなかった、と言えは嘘になるが涙はなかった。もの好きなふたりの幼馴染が変わらず娘と交友を持ってくれた。生命の芽吹きを思わせる深緑に、晴れ渡る空を模した青に、娘は救われた。
 何より、娘には視えた。娘にとってひとの世より余程優しいひとならざるもの達の世界が。―――ひとならざる、あのおとこの姿が。
「どうか、」
 語りかけたとて娘の言葉は届かない。応えもない。
「逃げてくれるな」
 それでも、切なる願いを口にせずにはいられない。




「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -