待ってて、愛しいひと



薬品と煙草とが混じり合えば幾らだって彼の面影を重ねられるのだと信じていた。縋るように抱き締める白衣に染み付いた匂いが薄れても大丈夫だ、と何度も自分に言い聞かせては瞼を下ろす。応える声も傷痕を這う指先ももう望めはしないのに、繰り返す愚行。唇でそっと彼の名前を象っては、その度に沈黙に殺される。
「ク、ルル…、クルル…くル…る、」
沈黙を隙間なく埋め尽くしてしまえば、なんてそんな甘さは容易に踏みにじられて、今夜も沈黙はじわじわと首を絞め上げる。



戦場で見慣れた筈の血の赤に畏怖を抱いた。目の前で起こっている出来事を上手く処理出来ず、彼の胸元が赤く染まるのを茫然と見ていた。揺らぎ、傾く身体。酷くゆっくりと彼は床に吸い寄せられ、やがて鈍い衝撃と共に転がる。その音を合図に急速に現実が思考を侵し、彼の名を叫んだ。

真っ白な世界に身を浸して、他人事のように彼は笑った。まるでひとの形を保てなくなったみたいだ、と。身体がばらばらになるような苦痛に眉を顰めながら、彼はそれでも笑った。彼が何故笑えるのかが判らなくて、泣いた。真っ白なシーツに埋もれた不健康な色の肌をした手をきつく握り締めて、泣きじゃくった。

真っ白なシーツに真っ赤な血溜まりを作る度、彼の命が削られる音が明瞭になるのを感じた。悪い、なんて、増してやごめんな、なんて、弱々しい掠れた声で言わないで欲しい。違う、そんな言葉が欲しい訳じゃない。ただ、憎らしいばかりだった彼の不遜で嫌味なもの言いが酷く恋しかった。 

まるで懺悔ようだ。お前には似合わない。そう笑えたなら良かったのに。いつかこうなるのは判ってた、と言う彼の言葉に息が詰まる。どう言うことだ、とやっとの思いで問いかければ、俺は愛なき産物だから、と彼は小さく笑った。だから何処か欠落してる。精神的にも肉体的にも欠陥品なんだよ。淡々とした静かな声が胸を刺した。道徳に背いた禁忌の存在、彼の揺りかごは冷たい硝子管だった。

ありふれた陳腐な言葉でも、真実ならばそれでいいじゃないか。お前がどんな存在でも関係ない。そう告げて彼の強く手を握った。僅かな空白を経て、彼は今にも泣き出しそうな笑顔を見せた。包むようにそっと抱き締めれば、アンタには適わない、とくぐもった声が鼓膜を震わせた。
(なぁ、もっときつく抱き締めてくれ)
(ああ、)
(せんぱい)
(ん、)
(愛してる)
腕の中の彼は微かに震えていた。

真っ白な世界、真っ赤な血溜まり、色艶をなくした黄色の髪、青白い顔。
(せんぱい)
(何だ)
(これから言うことはさ、俺の我が儘っつーか、単なる独占欲っつーか、そう言うんだからなかったことにしてくれていい)
(どうしたんだ、急に)
(別に急じゃねぇよ、もうあんまし時間もないみてぇだし?)
(っ、馬鹿、言うな…っ)
(まぁまぁ落ち着けって、な?いいか?俺、今から最低なことを言うから、ほんとなかったことにしてくれよ。その方が俺も楽だから)
(………言ってみろ、)
(はは、アンタやっぱ俺に甘いな)
儚ささえ漂わせる笑み、頬を撫でた冷たい指先、迫り来る死の足音。そっと抱き寄せられ、触れ合った部分から伝わる体温の低さに身体が震えた。耳元でそっと、愛を囁くよりずっと、甘く甘く。
(この先何があっても、誰がアンタを愛しても、それが喩え誰であっても)
―愛したり、しないで、。
ああ、と確信してしまう。何度名前を呼ぼうとも、きつく抱き締めようとも、泣いて縋ったとて、もう彼を繋ぎ止めることは出来ないのだ、と。
(俺はアンタを置いてくのに、それでもアンタを縛りたくて仕方ない)
最低だろ、と彼は笑う。違う違う、そんなことない、そんなことないんだ。頼むから、



「―なかったことにしてくれ、なんて言ってくれるな」
抱き締める白衣はしわくちゃで、もう彼の面影を重ねられるほどの匂いもない。溢れる涙は彼を想ってのものなのに、徐々に薄れて行く愛しい記憶。名前を呼んでも、きつく抱き締めようとも、泣いて縋ったとて、彼のように繋ぎ止めることなど出来はしない。すり抜けては、薄情者、とこの身を嘲笑う。それでも、それでも俺は、
「お前以外、愛せそうもないんだ。なぁ、だから、なかったことにしてくれ、なんて…言うな、」
(この先何があっても、誰が俺を愛しても、それが喩え誰であっても)
―俺はお前だけを愛して、死ぬよ。



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