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ある日、気がつくと僕の手は真っ赤に染まっていた。その感触は紛れもなく血であったが、何の心当たりもなかったため僕は酷く混乱した。まさか。気が触れたのかと自らの頭を思い切り殴った。痛みは無い。ああなんだ、これは夢なのか。僕はほっと胸を撫で下ろし、もう一度掌を見やった。他の形容が思いつかないほどに、真っ赤である。生温い液体がシーツに滴り落ちていくのをじっと眺めていると、僕は妙に虚しくなった。
僕が抱いているあの人への尊敬と畏怖もまた、この滴り落ちる血液と同じようにどうしようもなく虚無感漂うものなのだろう。あの人は素晴らしい方だ、だがそれは受け取り方によってはとんでもない馬鹿を敬っているようなものである。とそこで、すっと血の気が引いていった。何て恐ろしいことを! 僕はもう一度自分の頭を殴りつけた。痛みは当然無い。闇の帝王を、馬鹿呼ばわりするとは何事だ。僕は急いでベッドに潜り込み、固く目を閉じた。次の瞬間には、夢から覚めていた。






ごめん、ごめんと謝り続けても、君にはもう届かないのだろう。僕は君に何もしてやれなかった。ごめん、とまた僕は謝る。今更何をしたって遅いということは、勿論理解していた。だが謝り続けなければ僕の心臓は押し潰されてしまいそうだった。良心の呵責とでも言えばいいだろうか。とにもかくにも、僕は所詮、これまでの男だったということだ。

「クリーチャー、さあ、早く行くんだ」

衰弱しきった身体を引きずりながら、十数年間僕を慕ってくれていた屋敷僕妖精に言い放つ。視界は揺らいでいるが、決心はもう崩れない。あとは分霊箱を破壊するのみだ。僕は薄く笑った。クリーチャーの後姿は、もうどこにもなかった。
揺らいでいる。僕は薄暗い水面に映った自分自身の姿を見て、はっきりと感じた。水面は波打つし、僕の瞳も揺らぐし、結局自分の心など実のところ何も定まってはいないのかもしれない。僕は再び笑った。

「なまえ。僕は…、貴女が大好きでした」


貴女に会わなかったら、きっと僕は闇の帝王を馬鹿みたいに仰ぎ見て馬鹿のまま死んでいったでしょう。今も今とて僕は馬鹿ですが、ただの馬鹿で終わるよりは、大馬鹿になって幕を下ろした方がよっぽど世のためになるというものです。…すみません。世のためになどならなくて良い、せめて貴女の心に僕がこの世に在った事が刻まれれば、それで十分です。身勝手で、すみません。

独白を終えて、僕は揺らいだままの湖に手を伸ばした。途端、何かぬめりを持った手が僕の腕を掴んだ。ぞわりと体中が総毛立ち慌てて腕を引っ込めようと力を込めたが、体力を激しく消耗してしまった所為か死人の腕の力の所為か、その抵抗は虚しく終わるだけである。ずるりと身体が滑り、勢い良く暗い深淵の中へ引きずり込まれていく。もう、為すすべなどない。冷たい水が身体を飲み込み、意識を沈めていくのを感じながら、僕はなまえの凛とした横顔を思い出した。
好きなのだ。彼女のあの、浄も不浄も全てを飲み込むような瞳が。しかしもう二度と彼女に自分の気持ちを伝える事はできない。僕は目を閉じて、暗闇を受け入れた。

君を抱く腕は無い。君に駆け寄るための足は無い。君を見るための目は無い。君の名前を呼ぶための声帯は無い。君を愛する心も無い。

あるのは、あの日見た夢のような虚無感だけである。







110923 修正
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