5年後の結末15
「桜、咲いたなぁ」
ほんのりと風に混じって運ばれる匂いが少し甘い。
実際には甘くないのだろうけど、すぅっと空気を吸い込めば鼻の一番奥に一瞬の刺激がある。
その刺激は冬場は沁みる程冷たいのだけれど、春を迎える頃には甘さに変わるのだ。
そういう話しを口にした時、フリオニールやクジャは首を捻ったが、何だかわからなくもないと言っていた。
恐らく、植物と密接な関係を持つ様になってから感じた事だとは思うから、きっとカフェで働いている友人や、運送業などしている友人には理解出来ないだろう。
それこそ、おまえは何を言っているんだと口にされる光景が目に浮かぶけれど、それはそれできっと良いのだ。
「咲いたッスね。
でもまだ満開まではいってないッス」
「うーん・・・・八分咲きってところか?」
「まだ六分くらいじゃないッスか?
ほら、あそこも、あっちもまだ芽だけッスよ」
店先に並べる鉢花を腕に抱いたまま、道路を挟んで向かいの桜の木を指差してはあぁでもないこうでもないと言い合い、またすぅっと空気を吸い込んだ。
「じゃあ、もうちょっと待たないといけないな」
「何がッスか?」
「花見、今年もするだろう?」
大きな桜の木を見上げ、慈しむ様な眼差しを向けながらそう喋るフリオニールの横顔を見遣り「あぁ・・・」と幾分下がった声で返事を返した。
すっかり、というか。
まるで記憶障害にでもなったかのように、すっぽりと頭の中から抜け落ちていた。
毎年花見をしていたんだったか。
去年もやった筈なのに、収納された記憶の中を一度見てみないとあまりにも曖昧な出来事の様で、俺はもう一度「あぁ・・・」と今度は独り言の様に呟くと、綺麗に仕舞われたかどうかもわからないその花見の記憶とやらを探してみた。
毎年。
確か毎年やっている。日にちは疎らだけれど。
例えば例年より早く開花する時は三月の尻にやってしまうけど、大抵は四月のこの甘い匂いのする月だった筈。
俺と、フリオニールと、クジャと、後は、クラウドの会社の人達で。
あぁ、そうだ。
去年はヴァンが少し遅れて来て、水と焼酎間違えて飲んだんだった。
それからクジャが、虫が落ちてこないかしきりに上を気にしてて。
一体いつ誰から花見をしようなんて言い出したのかわからないけど、何だか恒例の行事の様だった。
なんだ、案外覚えてるものじゃないか思うと思わず口角があがった。
「お前もちゃんと参加するんだぞ」
返事がない事を気にしたのか、隣に立つフリオニールが今度は強制するような事を言った。
そんな、別に仕事の延長だなんて思ってないから、毎年ちゃんと参加してるのに。
だけどどうしようか、今年は。
行けばきっと、美味しいご飯が食べられて、成人したけど相変わらず甘酒なんか呑んで。
わいわいと、他の花見客に混ざって騒ぐのだろう。
アルコールの所為で少し顔が赤くなったフリオニールが時折、俺とヴァンを窘めて、ティナがそれ見て笑ってて、クジャが少し呆れたように溜息ついて、クラウドが隣で俺を見ていて。
でもそれはきっと一年前までの話しで、今年はきっと駄目だと思う。
何が駄目って、上手く言えないけど何かがきっと駄目。
上手くはいかない。
見えない隔たりに打ちのめされる自分の姿が、容易に想像出来てしまうんだから。
「綺麗ッスね」
曖昧に返事を濁すと、三度すぅっと空気を吸った。
だけどあの甘い匂いは、もう何処にも漂ってはいなかった。
***
時間の流れは恐ろしい。
望んでいなくとも、するすると帯が解ける様に簡単に過ぎてしまう。
止める事も出来ないまま春を迎えてしまった今、手元に残った物が何もない事に気付いても遅すぎるのだろうか。
「それはあれだよ、君」
翳した手を何度も裏表にとひっくり返していたクジャが、目だけを横に流してきた。
「後悔先に立たずってやつだ」
「・・・言われなくても知ってるッスけど」
「いいや、君は知ってるだけで、わかってないね」
まだ満足がいかないのか、翳していた手を下ろすとクジャは作業台の上に手を置き、熱心に爪を塗り始めた。
菖蒲色の液体は少し、クジャには地味にも見えたけど普通の人はそんな色使わないんだから慣れというのはある意味、感覚を麻痺させてしまうのかもしれない。
「わかってないから、その後どうなるか大凡の見当がついててもやるんだよ。
そういうのはね、馬鹿っていうの。
例えばそうだね、この前の屋台での君の醜態だとか」
「あれは何となくそういう気分だったっていうか・・・」
「何となく、気分で。
そういう曖昧な言葉は後悔のきっかけになるから御止しよ」
ふふっと、肩で笑ったクジャが何度も塗られた爪にハケを滑らせる。
段々と色の濃くなるそれを見つめていると、菖蒲色のそこだけが何か別の生き物様に見え、一瞬ぞわりと鳥肌が立った。
「二日酔いになった時、僕同じ事言っただろう?」
「そうだったッスかね」
「言ったよ。
君、パックの事ばかり気にしてて聞いてなかったかもしれないけど」
そんな事は無い。
ちゃんと覚えている。
俺が覚えてるって知ってるからクジャは言ってる。
性格も言葉も難しいけど、不要な事は昔からあまり口にしない人だったと思うから。
「全く、僕に介抱までさせといて暢気なものだよ」
「はは・・・だからそれ、悪かったってば」
土手沿いの屋台で酔い潰れてしまっていたと聞いたのは、見知らぬ部屋でだった。
天井も、家具の配置も、壁の色も。
ただ部屋中を漂う匂いにだけは覚えがあって。
目を覚ました時、「起きたの?」とカップを片手に尋ねてきたクジャを見て、此処が彼の家だという事を酷い頭痛とそれから匂いで理解した。
何故、此処に俺がいるんだと聞きたい事はそれ一つだったけれど、俺が問う前に面倒臭そうに珈琲を啜りながら洩らしたクジャの言葉はとてもシンプルだった。
俺が酔っ払って、寝こねけていたから持って帰った。
だそうだ。
「まさか寝るなんて、俺も思わなかったんッスよ」
「許容範囲というものをね、知らないといけないよ君は」
聞けば、あの土手沿いの屋台はクジャの行けつけなのだとか。
あの日も、寒い中屋台へと足を運んだのに、先客が酔い潰れて狭いスペースを占領し、更にその先客が顔見知りどころか職場の仲間で。
店主は何も言わなかったらしいけど、流石に無視する事も出来ないから持って帰ってきたんだと、詳しく話しだしたクジャの表情が若干険しくなるのを見て、これは不味い事をしたと頭痛と戦いながら何度も謝罪を口にした。
「呑まれるくらいなら、呑まない方が良い。
酒に頼って得るものなんか何もないんだから」
ふぅっと息を吹きかけた菖蒲色の爪がてらてらと光り、少し盛り上がっている。
後何度塗るんだろうと、そこに目を這わせたまま台に置きっ放しだったアレンジの残りに手を掛けた。
「特に泣いてる時は、駄目だよ。余計悲しくなる」
さぁ作業を、と思っていた手がクジャのその言葉で早速止まった。
「悲しいのは、嫌だろう?」
忘れてて欲しかったとは思わないけど、思い出すと少し肩が下がった。
酔い潰れた俺を持って帰って、介抱までしてくれて、ずっとそれがクジャ一人がやった事だと思っていたけれど、本当は違うくて。
有難うと言いかけた俺を制し「礼ならクラウドに」と言った言葉がいつまでも耳に木霊していた。
どうして急にクラウドの名前なんて、とは思ったけれど。
クラウドと二人で呑みにあの屋台へ出向いて、君を見付けて、車まで運んで、あぁ・・・君のバイクは僕が運転して持って帰ったんだよ、全く。
クジャは先程よりもゆっくりと、殊更丁寧にその時の事を説明してくれた。
最初から、クラウドも一緒だったと言ってくれれば衝撃もこんなに大きくはなくて済んだだろう。
勿体ぶった言い方のようだけれど、そういえばクジャという人間がいつも少しだけ回りくどい言い方をする人だったと思い出して、はぁと気のない返事を返した。
ただ、その気のない返事と裏腹に、涙は勝手にすらすらと流れてしまって。
何が悲しかったわけではないけれど、心細い感じがしたのだ。
だって、起きて意識のある時には電話にも出てくれなかったのに。
俺の知らないところでは、俺の事見てたなんてそんなのずるいじゃないかと責める様な気持ちさえ顔を出してきて。
やっぱり心細くなった。
声は出なかったけど、ほろほろと泣く俺にティッシュを差し出したクジャはきっと何か知ってるのもしれないけれど、涙の理由も何も俺には聞かなかった。
一つ、二つと増えていくティッシュの山を眺め、「珈琲淹れてあげるから、クラウドには後でお礼の電話でもしておくと良い」と良い残しキッチンへと消えてしまって。
本当は、理由を聞かれたかったのは俺の方なのかもしれなかったんだ。
酔い潰れたのも、泣いたのも、5年前にはなかった、この心を縛る様な感覚の正体を。
ほろほろと懲りずに流れてくる涙に、芽生えた気持ちが嘘ではなかったのだと思い知らされたようで、一人で抱えるにはなんだかとても重たく感じた。
昔、涙の貯金なんて無駄なものはするべきじゃないと教えてくれたのはクラウドで、でも使う時一人は寂しいからその時は俺が傍に居ようって言ったのも確かにクラウドで。
結局一人で無駄使いしてしまったと、クジャが戻るまでの間、何か必死に頭の中をすり替えようとする様に、俺はティッシュの山をどうするかそればかりを考えていた。
(思い出したら、また悲しくなりそうッス)
一瞬でも、泣いていたあの感覚を思い出すと変に心臓やら肋骨の間が軋む様に痛んだ。
だから、あまり思い出さない様にしている。
「嫌だけど、悲しい時は悲しいッスから避けようがないッスよ」
「僕は悲しい事に拍車をかけるような事はしない方が良いと言ってるんだよ。
アルコールは、その材料に十分成り得るからね」
先程からちっとも進んでいない作業台の上のアレンジに目を落とし、その色合いの不細工さに吐息を漏らした。
「・・・何も、聞かないんスね」
「聞いて欲しいの?」
「・・・わかんないッス」
聞いてもらったところで、一体何から言葉にして良いのか俺自身もよくわからない。
つっかえたものを吐き出したい気持ちはあるのに、言葉にしてしまったら全ての形が崩れてしまいそうな脆いもののように感じてしまうからだろうか。
「ティーダ」
滅多に口にしない俺の名前を呼んだクジャに、自然と顔が上がった。
「思い出は、いつだって自分に都合の良い事しか残さないよ」
そんな俺とは正反対にクジャは顔を下げたまま、まだ熱心に菖蒲色のネイルを爪に塗っている。
「人間っていうのは都合の良い生き物だからね。
本当は忘れて捨ててしまってはいけない事があるのに、抱えて生きれないからと、長い年月をかけてそれを塗り替えるんだ。
不都合な事は全部」
口許に笑みを浮かべたままゆっくりと紡ぐクジャのその先の言葉に黙って耳を傾けた。
「君とクラウドの思い出も、そうかい?」
手の動きを止めたクジャがゆっくりと顔を上げ、俺の方へ両眼を向けた。
思っていたよりずっと優しいその瞳の色に、俺は叱られているような気持ちになって少しだけ目を逸らした。
何故だか、俺が何度も口にしてはクラウドに押し付けようとした5年間の思い出の事を差されているような気がして居た堪れなくなったのだ。
綺麗な思い出ばかりにしがみ付いて離そうとしなかった事を、悪いとは思わなかったから。
「・・・クジャは、優しいのか優しくないのか・・・よくわかんないッス」
「ふふ、僕は別に優しくなんかないさ。
君達の事に親身になっているつもりもない」
やっと満足したのか、きゅっと音を立てて液体の入った蓋を閉めたクジャが嬉しそうに微笑んだ。
「ただの、無責任な好奇心だよ」
その割りによく見ているんだと、ちぐはぐな言葉と行動に、つられて笑ってしまいそうだった。
全く進んでいないアレンジの手を完全に止め、エプロンで手を拭きながらカウンターから出て行く。
「ちょっと、電話」
「そう」
「うん、お礼の電話まだだったの思い出したッスから」
「そう」
ティーダ、と。
ポケットを漁っていれば、背後からまた名前を呼ばれた。
「どう?悪くない?」
両手を胸の前で広げ、綺麗に塗られた爪を見せそう問いかけたクジャに、俺は笑って一つ頷いた。
「竜胆色の方が、きっと似合うッス」
暫し、目をぱちぱちと瞬かせたクジャがふっと笑うと「じゃあそうしよう」と言い、綺麗に塗られたばかりのそこに躊躇いもなく除光液を塗りつけていた。
扉を開けたと同時にチリンと鈴の音が鳴り、風の匂いに紛れて消毒液の様な匂いが鼻を擽った気がして、すんっと少しだけ鼻を啜った。
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