5年後の結末14








はぁっと、両手に息を吹きかければ一瞬だけ手の平がじんわりと暖まったけど、またすぐに冷えていった。






自分から、何か行動を起こしたのは初めてだった。
路地に停めたバイクを見遣り、もう一度悴む手に息を吹きかける。


クラウドに電話をしてみた。
ヴァンと飯を食っている間もずっとずっと俺の頭の中はクラウドの事ばかりで。
上の空じゃないけど、どうしたら良いのかなって。
ヴァンが「クラウドがさ」って言う度に、トントンって心の裏側を何度もノックされているようで。
そうしたら、どんどん会いたくなった。
顔は思い出せるのに、思い出した顔はどれも悲しく伏せる横顔ばかり。
優しく笑っていたクラウドって、どんな顔してたっけって思い出そうとしてもやっぱり駄目だった。
なんだか最初から、クラウドの優しい顔なんて知らなかったみたいに思ったら少し怖くて、やっぱり会いたくなった。



ヴァンと別れて仕事に戻ってからも、一度思い出したクラウドの横顔はずっと離れてはくれなくて。
終わる頃には自然と携帯を取り出し、クラウドの番号を押していた。
3コールだけ、3コールだけだから。
そう自分に言い聞かせて。
出て欲しい、出ていつもみたいに「ティーダ?」って暖かい声で名前を呼んで欲しい。
でもそう思う気持ちと同じくらい、出ないでって思った。
凍る様な、あの冷たい声を思い出したらどうしようもなく怖くて。
だけど結局、コールが三回鳴ってもクラウドとの電話が繋がる事はなかった。

それはそれで、きっと良かったんだ。

出ない事に安堵している自分が大半だけど、その中に確かに残念だと思った自分もいたから。
前までならきっと電話もしなかったし、こういう時、安堵しか残らなかった。
何かが少し、自分の中で変わっているんだと、そう思えたから俺はもう一つ自分から行動を起こしてみた。
少し前の、逃げていたばかりの自分からは到底思いもしなかっただろう。

「寒いッス」

両手を何度も擦り、摩擦を起こして暖を取る。
ポケットにでも手を突っ込んでおけば良いんだろうけど、どうしてかそうする気にはなれなかった。
じんじんと、風の冷たさで痛んでくる指先を唇に当て、顔を上げると明りの点いているビルが視界一面を覆う。
車道を挟んで向かいに、あるそのビルはクラウドの会社だ。

(会いに来たって、何かちょっと可笑しいッスかね)

拗れて、捻じれて。
複雑に絡まり出した俺達の関係が始まってからもう二ヶ月以上の月日が過ぎてしまった。
その間、此処へ来る事もクラウドへ会いに行く事もなくて。
突発的に起こした自分の行動に少し、苦い笑みが零れた。
それでも会って、話しをしたい。
電話に出なかったから、そう思う気持ちが余計に強くなったんだと思う。

会って、まずはちゃんと謝りたい。
しっかり、真っ直ぐクラウドの目を見て。
それをしなくちゃ、何も俺に言う権利は無い。
何を思ってそう言ったのか、言い訳だって言われても良いからちゃんと伝えなくちゃ。
俺達ずっと、二ヶ月前のまま。
まだスタートラインにすら立ててない。

(怖くない、大丈夫)

クラウドを責めたけど、本当は自分から進んで聞かなくちゃいけなかった事ばかりなんだ。
それから目を背けた俺に、クラウドからの拒絶があって当然で。

(そこは受け止めないといけないんッス)

一度大きく深呼吸をすれば、肌に刺さる温度よりずっと冷たい風が肺の中に沁み渡った。


クラウドの退社時間はいつも疎らで、決まってはいない。
一体いつまで此処で待たなくちゃいけないのかもわからない。
でもそれでも良かった。
ポケットから取り出した携帯を開けば、時間は19時を少し回っている。
俺が此処へ来てから、既に一時間近く経っていた。
体はもうとっくに冷え切ってはいるけれど、まだ大丈夫。
今はそれよりも、早く顔を見たい会いたい。
それだけで。

「あっ!」

はぁっと、もう何度目になるかわからない息を手に吐きかけた時。
ビルの入り口から人が飛び出してきた。

「・・・クラウド」

通り過ぎて行く車に阻まれ、その姿は断続的にしか見えないけれど。

「クラウド」

立ち尽くしているその姿をしっかり目に留めると、俺は膝の上に置いていたヘルメットを手に腰を上げた。

バイクは此処に置いたまま、歩道橋を使って行こうか。
信号までは走ってもちょっと遠い。


そう思って一歩踏み出し、車が通り過ぎた時、知らない女がクラウドの横にいた。


車がクラウドの姿を隠したほんの数瞬の間に、誰か知らない女が。
さっきまで、ついさっきまでクラウドしかいかなかったのに。

「・・・・仕事の人、かな・・」

相手もスーツを着ている。
それは遠目でもよく見えた。
二人の会話は、当たり前だけど何も聞こえないし、車が邪魔で時折姿が見えなくなる事に強い不安が生まれる。

何を話しているんだろう。
どうしてクラウド、あの女の人の手なんて触ってるんだろう。
車がクラウド達を俺の視界から消す度に、新しい光景が目に飛び込んでくる。

手から肩に、肩から背中に。

しきりに頭を下げている女を宥める様な、それでいて慰める様な。
覚えのある手付きに、手にしていたヘルメットが転がり落ちた。
カラカラと乾いた音を出しながら転がるメットには目もくれず、俺はその光景から目を離せないでいた。

クラウドは優しいから、あぁやって誰かを宥める事もあるんだろう。
あの女性が誰かは知らないけど、でもきっと仕事の関係者。
見た事ない人だけど、きっとそうだ。
そうじゃないと、困る。

先を歩いていた女性が振り返って、立ち止まっていたクラウドがそれに促される様に俺に背を向けて、二人はビルの中へ消えてしまった。
もうそこにクラウドは居ないのに。
俺はいつまでも二人の消えた先をじっと見つめていて。

びゅうっと一際強く吹いた風に漸く指先が動いた。

ゆっくりと顔を落とし、転がったヘルメットを拾い上げようとしたけれど。
悴んだ指に上手く力が入らなくて、せっかく掴んだのにまた落としてしまった。
両足が微かに震え、どんどん力が抜けていく。
悴む手をぎゅっと握り、歯を強く食い縛った。

閉じたまなうらに蘇る、クラウドの優しい手付き。

「・・・帰るッス」

強く強く瞼を閉じ、何度も息を吐きだした。

「・・・・帰るッスよ」


これが嫉妬だと、気付いていても。
湧き上がってくるそれに、今は詰まる様な息を出すだけで精一杯だった。













***







「もう一本、貰えるッスか」

「あいよ」

覚束ない手付きでふらふらと振った徳利を台の上に置くと、自分もその年季の入った木製のカウンターに力無くベッタリと頬をくっつけ酒臭い息を吐いた。


クラウドの会社からどうやって引き返してきたのか。
アルコールの回った頭ではもうあまり思い出せない。
ただ、ゆっくりとバイクを押していた帰り道。
土手沿いに小さな屋台を見付けて。
普段なら絶対入らないのに、何だか一人で居たくなくて。
気付けばふらりと足を運んでいた。

そうして呑めもしない熱燗なんか頼んじゃってさ。
おかげで体はポカポカして暖かいけど、内側だけはずっと寒い。
幾ら呑んだって、暖まりもしなかった。

「へい、熱燗お待ち」

コトン、と優しくカウンターに置かれた徳利を目で追えばげっぷが出そうになった。
ぐっと胸元に力を入れ、せり上がってきそうだった物を堪え押し戻すとふぅーっと息を吐く。
歯も歯茎も口内中全部が酒臭くて堪らない。
だけど手が勝手に、徳利を掴むと御猪口にどばどばと酒を注いでいる。
呑めない、もう呑みたくない。
だけど、何かで紛らわせないと一々胸の辺りが熱くじりじりと痛む。
そうして痛みとは別の、胸のムカつきがじわじわと広がって。
アルコールを摂取した時の、ムカつきじゃない。

それとは違うもっと、独特の。

苛立ちや腹立たしさから生まれるものに似ている。
あ、そっか。これ嫉妬なんだ。
ずいぶん久し振りで、もう覚えていなかった。
そうだ、これ嫉妬だった。

背に当てられていた手にも、何を話していたのにも、二人並んで歩いていたのも全部。
羨ましくて悔しくて、俺やっかんだんだ。


俺がもうクラウドにしてもらえない事を、あの女の人は当たり前に様にもらっていたから。

「・・・嫌ッス」

言葉に出したら、益々嫌になってきた。
クラウドが誰かに触ってるなんて、気にした事もなかった癖に。
触っている事に、何も思わなかったはずなのに。

「こんなの・・・嫌ッス・・・」

俺が招いた結果がこれなら、甘んじて受け入れなければいけないのかもしれない。

自分だけが、クラウドの特別だと勝手にどこかで信じていたんだろうか俺は。
それは絶対揺るがないもので、変わらないとでも。

「・・・兄ちゃん、大丈夫かい?」

湧き上がるおでんの香りの中、頭に落ちて来た声にのっそりとカウンターから顔を上げた。

「・・・全然ッス・・・ここら辺が痛くて」

ここ、と言って胸をトントンと叩いた。
ぐらぐらと揺れているのは思考だけかと思ったけれど、どうやら体も前後にふらふらと揺れているらしい。
俺は再びカウンターへと頬を預けると、ポケットから携帯を取り出し顔の横へと置いた。

「なんだい、恋煩いかい?」

パカリと開いた携帯の画面には、何もない。
着信もメールも。
クラウドから折り返しの電話も、ない。

「そんなんじゃないッス」

もうぎゅーって、思い出しただけでも胃の辺りが締め上げられる、嫉妬だ。
呂律の回らない自分の声がふにゃふにゃして聞こえて、何だか可笑しくなってきた。
そうしたら、こんなところで一人得意でもない酒を呑んでいる事も、暖かいおでんを食べた事も、店主とこんな会話をしているのも全部が可笑しく思えてきた。

アドレス帳を開いて名前を探して。
きっと目を瞑っていたって出来てしまう程慣れてしまった指先の感覚。
クラウドの番号を暫し眺め、通話ボタンを押した。

会って、ごめんって言って。
ちゃんと話せばクラウドと俺、また初めからやり直せるのかな。

もう一回、最初の居酒屋の時みたいに。
あそこからやり直せないかな。

(戻りたい、あの時に戻って・・・やり直したい)

最初の分岐点には戻れないとわかっているからこそ、そう願う気持ちが増幅していく。

ちゃんと知っているのに。
俺が泣いて喚いたって、どれだけ悔いて願っても。
過ごした5年が消えない様に、過ぎてしまったこの空白の時間もまた消えない事くらい。

一度腕の中の物を空っぽにしなければそんな当たり前の事にすら、俺は気付けなかったのだろうか。


(やり直せたら今度は、俺・・・・)


コールは三回を過ぎても、五回を過ぎても鳴り続けていた。


(今度は、間違わないのに)


「・・・好き、」

好き、ともう一度口の中で繰り返せばじわりとアルコールの味が滲んだ。

「・・・俺、好きなんだ・・・」

コールはとうとう切れてしまい、代わりに無機質な女の声が通話口から洩れた。

なんだ、兄ちゃん。
笑う店主の声に、感情のない女の声。

「やっぱり恋煩いじゃないか」

今度は店主の言葉に否定する言葉が見付からなくて。
「好きだったんだ」って駄目押しのようにもう一回繰り返した。

遠くで聞こえる川の流れる音に誘われる様に、漸く手の平に落ちてきた自分の感情を知って視界がぼやけた。
それは遅すぎるくらいのスピードで。

「クラウド」

意味を持った気持ちに馴染む前に、相手はいなくなってしまった。
俺が拒んでしまったから。
果てのない、恐怖にも似た変化の先がこれだったなんて。

「いらっしゃい!」

視界の先で茫々と広がる携帯電話の画面が光り、生ぬるい液体が一粒。
店主の声と共に、頬の上を転がった。






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