help!-番外編-後













重たく湿った息を口から投げ捨てるのは、これで何度目だろうか。
今更溜息なんかついたところでどうしようもないし、目の前で起きた事実がより輪郭を増して背中にのしかかるだけだ。
それでも、返事を待たずに出て行ってしまったスコールのことを思うと、意識とは全く関係のないところで、後ろめたさを含んだ行き場のない溜息は勝手に流れ落ちていた。

「あんたさ、死んでるって思われてるみたいッスよ」

スコールが座るはずだった椅子に腰掛け、組んだ足の先のでベッドの下枠を軽く小突く。
寝転んでいればそれなにり振動が伝わる強さにもかかわらず、やはりクラウドからはなんの反応も見られない。


(あんたがずっとそんなんだから、ありもしないこと言われんだよ)


あの時、返す言葉の正解がわからなかったのはこの状態が誰しもから見た現実なんだと、暗にそう言われたような気がしたからだ。
そしてわかったことと言えば、やっぱりオレだけが持たざる者だということだけ。
悲しみも心配も、不安も、あと希望とかいうやつも。
何一つ、この男に対して持てていない。
それはもう、きっぱりはっきりと、なんなら自信だって付けちゃうくらいには。


(嘘でもいいから、なんか言えば良かったんスかね)


そうしたらスコールにあんなこと、言わせずに済んだのか。
笑っているのか、そうじゃないのか、判別がつかない微妙な顔だって。
点滅のように繰り返し頭の裏側を横切っていく顔を思い出して、またベッドを小突いた。


(……無理か)


オニオンにクラウドのことをお願いされた時だって、オレは適当に返事をしてしまった男なのだ。
「よろしく」と言われたことに「わかった」と単純な応えさえ返せなかったオレには、土台無理な話しだったに決まっている。


(薄情なやつなんかな……)


嘆く仲間に対して何も思わないのかと言われれば、そりゃあ色々、あるにはあるけど、周りと一線引いた場所に立っているようなこの状態だと、気持ちが追い付かないのだ。
それに、そもそもオレの中のクラウドとみんなが見ているクラウドが違い過ぎて、そんなことはずいぶん前からわかっていたことだけど、改めてそれを突き付けられると、与えられた衝撃の大きさに戸惑いを通り越して途方に暮れてしまう。
丁寧な嘘を簡単に吐けるような人間なら、同調することも声音を合わせることもなんてことはないんだろうけど、嘘を吐くことが苦手なオレには真似のしようもない。
心配だと、相手に合わせるためだけの言葉を選んでも、結局文字の上のことでしかないと思うと余計にだ。
起きてしまったことを、ただ何度も繰り返し舌の上で転がして、その苦さに落ち込むしかない。
学習能力がないな、なんて。
いつだか言われた失礼過ぎる嘲笑混じりの声がリフレインしたとしても、今はあながち間違いじゃなかったんじゃないかと思ってしまう。
本当に、不服だけども。

「……さっさと起きればいいのに」

今ならちょっと口汚い罵りだって、怪我人ってことで許してやるよ、オレは優しいから。
だからいつもみたいに嫌そうな顔して、いつも通り横柄な態度で、早く起きてくれ。
そしたら全部元通りになって、きっと一向に動かなかった場所から、走り出せるのに。
唇の薄い隙間から落ちた嘆きは、風に混ざるだけで静かに溶けてなくなった。
一番聞いて欲しい人間には、相変わらず届きもしないまま。
はたはたと、さわさわと。
周囲を巡る風と共に、言葉の残滓を奥歯で噛み締めるとぎゅっと目を瞑った。
それで何が変わるわけでもないのは自分が一番良くわかっているけど、やると少しだけ気持ちの切り替えが出来るような気がして続けてる。
無心になれればいいけど、結局そんなことをしたって頭の中では疲れたティナの横顔や取り繕うような笑顔を貼り付けたセシル、去っていくスコールの背中ばかりが繰り返し過ぎていくばかりなんだ。
瞼の先がまだ明るく、ほんのり赤色に染まるのを何度も何度も確認すると、ゆっくりと目を開け、これまた口癖になりかけている「よし」という自分のためだけの覚悟の言葉を唱えるとようやく椅子から腰を上げた。


(ぐだぐだ考えたってしょうがないって)


結局、ここで座り込んでいたってどうにもならないなら、さっさとスコールのところへ行って謝ってしまおう。
何に対しての謝罪なんだとか言われそうだけど、それはその時考えればいい。
申し訳ない気持ちがあるのは本当だから、これはきっと嘘にはならないし。
それにここに一人で居るから余計なことばかり考えるんだ。
眠るクラウドを見て、仲間の憂えた顔を思い出して、自分の曖昧な立場をただ再確認するだけの終わりのない行為を繰り返しやっているだけに過ぎない。
多分、そういうのがいけないんだ。
そうに決まってる。
宙に向かって言い訳のようなことをつらつらと述べながら、真新しい布を引ったくると桶に投げ入れた。
その勢いのまま手を突っ込みじゃぶじゃぶと音を立てて布と水を混ぜくれば、当然のように跳ねた水がテーブルを汚していく。
四方に飛び散った水の残骸は、桶どころかその下のトレイにも広がったけど構うもんか。
どうせこの掃除も片付けだってオレがするんだから。
たっぷりと水分を含んだ布を雑に掴み上げ、力任せに捻じれば桶に落ちなかった水が今度は足元を濡らす。
しばらくそれを見つめてから目を反らすと靴の裏で適当に床に擦り付け、パンッと大きな音を立てて固まった布を広げた。

「大丈夫大丈夫、床はそのうち乾くッスから」

聞えちゃいないとわかってるけど、報告はする。
だって、ほら、一応部屋の主だし、話し掛けろって言われてるし。
適当に折り畳んだ布を握り締めクラウドを見下ろせば、握り込んだ指からじわり、じわりと緊張の波が広がってくる。
この瞬間が一番嫌いだ。
無防備な人間に触れるという行為もそうだけど、その相手がクラウドだというだけで怖気づいてしまう。
だって自分から触れようだなんて、あれだけの仕打ちを受けといてそんな狂った考えするか?普通にないわ。
それに、クラウドは他者と一定の距離を保つような男で、それは物理的にもそうだけど、特に触られるのをあまり良しとしていない節がある。
いつだったか、約束のことで言い合いになった時にオレが肩を掴んだら、信じられないくらい凄い勢いで跳ね除けられたことがあったんだ。
咄嗟に手が出ただけで、別にオレだって触りたくてやったわけじゃないけどさ。
なんか汚いものでも見るような、心底嫌そうな顔で肩を払って舌打ちまでされたら流石にオレだって気づくし。
そんな男の顔やら体に触るなんて、意識がないにしても尻込みするに決まってる。
指先を強く抓まれたような、痛みを孕んだ緊張感を誤魔化す為に、爪と爪を擦り合わせた。

「顔、拭くから」

それだけ伝えると椅子に腰を落とし、硬直しかけていた手を恐る恐る伸ばす。
ぺたりと、布がクラウドの頬に当たったのがわかると、そこでようやく手の力が緩み、肩が下がった。
早く起きろと思う反面、この瞬間には起きないで欲しいという矛盾から来るものだということはわかっているけど、何度やっても慣れない。
頬に貼り付いた布をしばらく見つめたまま数十秒、クラウドが動かないことを確認すると、そこでようやく止まっていた手を動かした。
右頬に滑らせた布を狭い範囲で何度も往復する。
初めの頃こそ、この瞬間に目覚めたらどうしようという恐怖で撫でる程度にしか拭けなかったけど、人間慣れるもんだ。
時間が経つと共に、その心配がほぼいらないということに気付いてからは、緊張こそ消えはしなかったけど起きているクラウドと向き合った時のような、物恐ろしさは無くなった。
それ自体はきっと良いことなのに、代わりに置いていかれたものが手に余り過ぎて、その大きさと不快感にも似た何かにただ打ちのめされているだけ。

「……オレじゃなかったら良かったのに」

そう、オレじゃなきゃ良かった。
約束のことまでなんて言わないから、せめてこの看病くらい、オレじゃない誰かが当たれば良かったんだ。
そうしたら、こんな、恨み言めいた気持ちも居心地の悪さも覚えにずに済んだかもしれないのに。
押し付けられた約束とは違う形で出来た秘密は、結局いつもクラウドとオレの間にしか成立していなくて嫌になる。

一体オレにどうしろっていうんだよ。

「……まつ毛付いてるし」

頬に布を押し付けたまま、不自然に目尻の隙間に張り付いていた細い毛を摘み取る。
すごいね、まつ毛まで綺麗な金色だよ。
人差し指にくっついた毛をまじまじと見つめ、クラウドを見やる。
生気のない面構えに、恐ろしい半眼の目。
血色の良い唇は常に一本に結ばれ、不機嫌そのもの。
オレの知っているクラウドの面なんて、精々そんなもんだ。
こうして眉間に皺を寄せてない顔を見ること自体、稀だし、寝入っている姿なんてまず見られない。
図々しくもオレの部屋でベッドを占領していた時だって、掛け布を目が隠れるほどに引き上げ眉毛だけが辛うじて見えるかどうかの状態だったし。


(何回見ても変な感じ)


横たわるクラウドに何も感じないのは、その顔に覚えがないせいなのか。
もっと、ちゃんと、違った形でオレたちが関わり合えれば、知らない誰かのようには思わなかったのか。
赤の他人というには近すぎて、だけど知り合いというには少し遠すぎるこの微妙な関係性が、色んなことをややこしくしているような気がする。
きっとこの先、一生見ることのないであろう眠るクラウドの、どこか作り物めいた寝顔を凝視していると、頬に乗っかったままだった布が、ペタリと音を立てて滑り落ちた。

「あ、」

考えたってしょうがないと、ついさっきまで割り切ったはずなのに、気付けばまた隘路へと潜り込んでしまう。
散々考えて、捻って、こねくり回して、それでも今日この瞬間まで答えなんて出なかったのに。

「いや、もうマジでやめようってオレ……」

大体こんなところに一人で居るからいけないのだ。
さっさと終わらせるって決めたんだから、自決したことを最優先に尊重しなければ。
落ちたまま首筋に埋もれていた布を掴むと、両手で挟みパンパンと音を立て皺を伸ばした。


(右っ側は……もういいか)


おざなりに拭いた右頬はそのままに、次の場所へと目を移す。
どうせバッツが治療に来たら体を拭くついでに顔も拭くんだろうし、ちょっと適当でも問題ない。


(どうすっかな)


とりあえず額を拭いて、次は左頬から首回りでも拭いておこうかと思いながら布を広げ、新しい面に折り返したところでふと手が止まる。
目の前に居るのは、やけに血色の悪い顔をしたクラウド。
元々肌の色は白いし色素も薄いけど、失血のせいか床に臥せってからは青白く血色の悪い顔をしている。
その顔と手に持った布を交互に見遣り、またクラウドに視線を戻す。


(ん……?)


なんだろうか。
部屋の中は特に面白いものもないし、興味をそそられるものが増えたわけでもない。
家具を移動させた形跡もなければ、動かすほどの物もない。
相変わらずカーテンだけは揺れているけど、それもいつものことだ。
それなのに、この妙な引っ掛かりはなんだろう。
この部屋に籠もり、やりたくもない介護を一日中堪能させられているけど、これでもちゃんと世話をしているつもりだ。
ウォルに言われた声掛けだって、毎日律儀に守ってるし、こうしてせっせと顔面を綺麗にしたり、時間がある時はオニオンから借りた本を読んであげたり、薬だって時々バッツの手伝いで塗ったり、後はなんだ?
あぁ、食事は出来ないから脱水や栄養失調にならないように皮膚から吸収出来るポーションを体に振りかけたり、一応ちゃんとやっている。
掃除は……まぁするところがないし部屋の物を勝手にいじって後でいちゃもん付けられても困るからやってはないけど。


(なんだ……?)


代わり映えのない毎日の中、そこに大きな変化など確かにないはずなのに。


(なんか……、)


どこかちぐはぐな感覚の根源を探そうと、小刻みに眼球が動き、そしてクラウドの口に止まる。
顔色と同様に、血色が悪い。
艶も張りもないカサついた唇。
それが少しだけ、ほんの僅かに開かれている。


(口、開いてたっけ……)


そういえば、部屋に入った時には珍しく掛け布もはだけていた。
よくよく考えれば、看病として付き添ってからそんなことが起こったのは今日が初めてじゃないのか。


(掛け直した時も、肌が冷たかった気がする)


そんなバカな。
毎時間、容態が悪化してもすぐに対応出来るよう付き添っているし、睡眠時間だって纏まって取れないから、少しずつ取るようにしているんだ。
一日の半分以上をこの部屋で過ごしていて、その間ずっと付きっきりのオレが気付かないなんて、そんなことあるわけがない。
絶対的に大丈夫だと自信を持って言い切れるのに、一つ浮かんだ疑問は些細な違和感と結び付いて無数に広がり、そういえばあの時も、もしかしたらあれもと余計な疑惑が増える。
警戒すべきものはなにもないはずだと言い聞かせるけど、いやに感情がざわめく。
しばらくクラウドの顔を見つめ、布を膝の上に置くと、躊躇する手をゆっくりとクラウドの口元に当てた。

その瞬間、カッと頭に血が上ったように顔面が発汗し、心臓が皮膚の下で大きく鳴る。


(息、してない)


一体、いつからだ。
昨晩顔を拭いていた時には確かに暖かな呼気が手のひらを掠めていた記憶がある。
その後少し仮眠して、朝飯はこの部屋に持ち込んで食べたから……いや、違う違うその前に風呂に行ったんだ。
風呂に行って朝飯……食って、それで、それから……。


(違うそうじゃない!朝飯ここで食ったのは一昨日で、昨日は風呂から戻ってバッツに呼び止められたから、広間で食べながら話聞いて……それから、えっと……あぁもぅ!なんだっけ!)


時系列を追えば追うほど、前後する記憶が絡まり縺れる。
その間にも心臓は地鳴りのように激しく不規則に暴れ、背中から薄ら寒い汗が滲んでいくのがわかった。

「どっ……」

何度も空気を嚥下するも、乾いた口内では舌がへばり付き言葉が上手く出てこない。
クラウドの体の上を彷徨う両手が無意味に宙を掴む度に、自分でもはっきりと目視出来るほど手が小刻みに震えていた。

「オレ……、」

もし、クラウドが死んでしまっていたら。
俺の見てないところでいつの間にか、息を引き取っていたとしたら。
オレはそれに気付かないまま魂の抜けたただの肉塊に話し掛け、何も知らないまま呑気に死体と共に過ごしていたのか。

「嘘……だろ」

ずっと側に居て、その変化に自分は気付かなかったのかという後悔よりも、叩いても蹴ってもどつき回しても死にそうにないあの人でなしが、こんなにも簡単に静かに死を受け入れてしまったことの方がショックで、彷徨う手がより大きく震えた。
それは、今回のことで絶対的に自分の中で揺るがなかった出来事。
肩を落とし、項垂れる仲間を何度凝視しても自分には芽生えてこなかった不安という不確かなものが、今はっきりとわかるほど恐怖という形に変わり、遅れた日数を取り戻すかのように足先から凄まじい早さで全身にまで這い上がってきた。

「嘘だ……」

絶対にそんなことはあり得ない。
この男が死ぬなんて、そんなの天地がひっくり返ったってある訳がない。
コスモスが聖域で全裸になって走り回っていたとか言われた方がまだ現実味がある。
極端過ぎる例えだし、コスモスには失礼だけども。
でも、昨日までは生きていたんだ。
確かにこの目で、皮膚で、オレは確認したのに。
次第にぐっしょりと濡れていく背中や、脂汗が滲む顔とは裏腹に、目眩を起こしそうなほど血の気が引いていく。
クラウドから目を付けられてからの生活は、とても窮屈で身動きも取りづらく、なんでも暴力で解決しようとする姿勢を崩さないそれは、いっそ清々しいくらい傲慢なもので正直心身共にくたびれていたのは事実だ。
だけど、どんなに粗暴で目を覆いたくなるくらい口が悪かろうが、自己中心的で矯正出来ないくらい性格がひん曲がってる癖に外面だけはいっちょ前の二重人格だろうが、人を家畜かなんかと勘違いしている頭のおかしい男だろうが、それでも、それでもここで長い月日を過ごし同じ目的のために釜の飯を食って苦楽を分かち合った仲間なんだ。
まぁクラウドと苦楽を共にした記憶はないし、楽しかった覚えもなければ苦行を一心に受けてるのはオレだけどね!

そんなどうしようもない男だけど、死んでいいなんて思っちゃいない。
クラウドが勝手に押し付けた約束だってまだ残ってるのに。

「冗談だろ……、」

震えて上手く動かない手を必死に握り締めると、ベッドに横たわるクラウドを頭の天辺から足先まで一通り目を這わせる。

「確、認……しないと……」

ぽつりと溢した自分の声に、ハッとする。
そうだ、こんなところで狼狽えていてもどうしようもない。
とにかく、ちゃんと、確認しなければ。
呼吸は、たまたま感じられなかっただけかもしれないし、重傷だったんだから呼吸自体か細くてオレが気付かなかっただけかもだし。
早とちりは駄目だと思いつつも、ぴったりと閉じられたままの口元と、上下に動いていたはずの胸が平らなまま身じろぎ一つしない姿に焦りが膨らむ。
握り締めていた拳をほどくと、ベッドの縁に手を置き慎重に上半身を倒した。
意識のあるなしに関わらず、こんな近くに寄ることも滅多になかったせいかクラウドの体が眼前に迫ると思わず怯みそうになる。
相手は意識がないんだから気にしなくてもいいのに、一々躊躇してしまうのはきっと細胞レベルにまで染み付いた防衛本能に違いない。
妙な体勢で止まったまま、一度大きく深呼吸をすると腹をくくりその胸に耳を当てた。
薄っぺらい掛け布一枚隔てた先にあるクラウドの硬い体からひんやりとした温度が耳朶を伝って顔にまで広がる。
こんな状況にか、それともクラウド相手だからなのか、上手い具合に混ざり合った鼓動を拾おうとするも、激しくのたうつ自分の心臓の音がうるさくてよく聞こえない。
クラウドの体に触れているという異常な状況と早く確認しなければという焦りから、より強く耳を押し当てると祈るように目を瞑った。
静まり返った部屋の中で、相変わらずハタハタと頭の上でカーテンの揺らぐ音だけが室内を通り過ぎていく。
温く、穏やかな風が旋毛をもてあそび、頭頂部が乱れ流される。

「ぁ……、」

咄嗟に落ちた小さな自分の呻き声。
同時に、擽られるように頬や目頭を撫でていた髪に促され目を開くと、横向きの不自然な視界の中、歪んだ部屋の景色が一気に崩れた。
騒ぎ立てる自分の心音の間を掻い潜り、必死に探し求めた音は何処にも見付からなかった。

「死ん、で……」

布越しとはいえ、体をくっつけているのにクラウドの体は冷たいまま。
生き抜く為の鼓動はその冷えた皮膚の下から聞こえることはない。
ただ変わらない日常の中、なだらかな風の音だけがクラウドの体をむなしく通過していくだけで、そこにオレが期待していたものは何もなかった。

あのクラウドが、誰よりも強いクラウドが。
絶対に死なないと、そう信じていたのに。

これが信じていた結末だと突き付けられた瞬間、目を開けているのもつらいほど、鼻の奥がつんと痛んだ。


(あんた、強かったんじゃないのかよ……)


いつも偉そうにふんぞり返って、人を顎で使ってさ。
いっそ来世でやり直した方が良いくらい口も性格も悪いし、おまけにオレ以外には惜しみ無く優しさ振り撒く猫被りの人格破綻者で、良いところなんて多分顔の良さくらいしかないと思ってるけどさ、でも、それでもさ。


(……なに、勝手に死んでんだよ)


だって、まだオレ、あんたのして欲しい約束だって聞いてないっつーの。
散々オレに約束守れって言った癖に、あんたが守らないでどうすんだよ。
勝手に押し付けて、勝手に居なくなるなよ。
どんだけ我が儘で自分勝手なんだよあんた。


(馬鹿野郎……)


ヒクつく唇が、息を吸い込もうとする度によれて上手く開かない。
クラウドの死を目の当たりにして今ようやく、自分が傷付いているのだと知って。
遅れてきた感情に、爪先から飲み込まれていきそうだった。

「死ん、だ…」

それは言葉にするとより現実味を増し
いつの間にかベッドの縁から離れていた手が、掛けられた布を強く掴み、眠るクラウドの腹にたまらず額を擦り付けた。

「なに勝手に死んでんだよ…!」

「死んでない」

面白くもないクラウドとの過酷な日々が思い出として脳裏を華麗に過ぎ去っていた時、聞き慣れたぶっきらぼうな声が頭に降ってきた。

「え」

ぐりぐりと、穴でも掘る勢いで擦り付けていた額が止まり、浸りかけていた感傷の波が引いていく。
聴力は良い方なんだけど、聞き間違いだろうか。
確かに死んだ人間の声が聞こえた気がするんだけど。
風に揺らされるカーテンの音がそう聞こえたとか?
それにしてはやけにはっきり聞こえた気がするのだけど。
は?とかあ?とか意味のない疑問をこぼしていると、今度はぐいっと強すぎる力で頭を下へと押された。

「え?」

その強すぎる力に反発するように顔を上げれば、そこには死んだはずのクラウドがぱっちりと目を開け、青白い顔をしかめていた。
親の顔より見慣れたその鬱陶しそうな面構えに、息が止まる。

「重い、退け」

ふぅっと長いため息を吐き、前髪をかき上げるそれは間違いなくクラウドそのものだ。
先ほどまで息をしておらず、鼓動も停止し、仲間を命懸けで救ったという感動的な死でその若すぎる生涯に幕を下ろした男が、何故か動いている。
「ちょっと暑いな」なんて言って、手で扇ぎながら。
まぁ確かに風は入ってきてるけど温いよなぁなんてオレも思いながら、死んだ男に心の中で返事をする。
その間も、寝そべったクラウドとその腹にすがり付いているオレとクラウドの間には、ただ妙な沈黙が置き去りにされているだけで。

「……おい、いつまでそこにいる気だ。
重いから退けと言っただろう」

頭を押していた手が今度は容赦なくオレの髪を引っ張り、その物理的な痛みに数秒遅れて「おわぁっ!」と叫びその場から飛び退いた。

「ど、どし……え、なん……」

「うるさい、寝起きなんだ静かにしろ」

え?寝起き?
いやいや、死んだよね?さっきまであんた死んでたよね?
確実に息の根が消滅して、召されてたよね?
だってオレ、ちゃんと確認したッスよ?

(えぇ……、どういうこと……)

もぞもぞと起き上がり、背後の壁に寄り掛かったクラウドがもう一度髪をかき上げると手を差し出してきた。

「……なに」

「水」

「……飲む、の?」

「喉が渇いたからな」

あぁ、そう……飲むんだ水。
ベッド横のトレイから水差しを取り、グラスへと注ぐ。
とぷとぷと、軽快な音を立てて流れていく水に首を傾げた。


(……死んでるのに水飲むの?
いや……死んでたよね?絶対死んでたよね?)


「は?」

注ぎ終わったグラスを手に持ち、クラウドを振り返るのと同時にまた疑問が口から落ちた。

「いいから早く寄越せ」

「あ、はい……」

クラウドが引ったくるようにオレの手からグラスを奪うと、何事もなかったかのように暢気に水を飲み始めてしまった。
嚥下する度に上下に動く喉仏。
動いているということは生きているということなんだろうか。
じゃあさつい先ほどまでオレがこの目で見て、肌で実感したあの薄暗い死の壁はなんだったんだ。
睡眠時間をまともに取っていないせいで、とうとう幻覚や妄想を見るようになっちゃったとか?
いやでも、呼吸も心音も止まっていたのはちゃんと確認したはずなんだけど。

「なに?」

「あ、いや……」

そんなつもりはなかったのだけど、動いているクラウドがどうしても信じられなくて、食い入るように見詰めていると、面倒くさそうな目と視線がかち合った。
とりあえず手に持ったままだった水差しをトレイの上に置き、ガコガコと音を立てながら椅子を引き摺り腰を下ろすと神妙な面持ちでクラウドへと向き直った。

「あのさ、」

声が喉に引っ掛かりそうになる前に一度咳払いをすると、もう一度クラウドを見遣った。

「……死んだよね?」

「死んでない」

「死んだって!!」

「だから死んでいない」

ばっさりと躊躇なく切り捨てるクラウドに、思わず身を乗り出した。

「オ、……オレ確認したッスよ!?」

「お前の勘違いだろ」

そんな馬鹿な。
こちとら莫大な勇気をなげうって、自らクラウドに密着までしたんだぞ。
そんな健気なオレの行動を勘違いなんかで片付けられるわけがない。

「くだらん」

馬鹿馬鹿しいとでも言いたげにクラウドが肩を竦めたことに納得がいかず、再びグラスを口に運び出した手を掴んでしまった。
勢いが良すぎたのか中の水がグラスの縁から飛び出し、クラウドに掛けられた布を汚したけどとりあえずそれはちょっと置いておこう。ね?

「だって息してなかったッスよ!」

「俺は寝てる時は鼻呼吸派でな」

「体だってめちゃくちゃ冷たかったし!」

「体温は元々低い」

「じゃあ心臓は!?
動いてなかったッスよ!?
オレ、わざわざ耳まで当てて確認したんだからな!」

「おい、水が溢れるから揺らすな」

「だって!」

一体何がどうなっているのか。
オレの認識と現実に起きていることへの齟齬に頭が付いていかずパニックになりかけていると、ベチリと空気を裂くような音を立てて掴んでいた手を叩かれた。
ひどい、口で言えばいいのに。

「だから勘違いだと言っているだろ」

じんじんと痛む手の甲を擦っていると、盛大にため息を吐いたクラウドがグラスをベッドの脇に置いた。

「人間の心臓は左側にあるのを知らないのか?
お前が確認したのは右で、動いているどころかそもそも心臓なんてあるわけないだろ」

「馬鹿か」と、余計な一言を付け加えたクラウドが、おれの左胸をトンッと人差し指で突っついた。
重い打撃を受けた時のように皮膚からその震動が全身へとくまなく広がり、浮いた尻が静かに椅子へと戻る。

「右、側……」

「そういうことだ。
わかったらギャーギャー喚くな、面倒臭い」

呆れを隠しもしないクラウドが緩く頭を振っていて、いつもならその態度に頭をかきむしるほどむかつくんだけど、残念ながら今は悔しさなんて微塵もわいてこない。
それどころか、目の前で嫌そうな顔をしているクラウドは顔色こそ悪いもののいつもの横柄さを保ったままで、それがちゃんと生きて元気に悪態吐いているのだとわかって、体中の力がごっそりと抜けた。
それは全速力で走り切った後みたいに、腕も足も体にくっついている何もかもが重たく感じるくらいだった。

「そっか……、生きてたんだ……」

「勝手に殺すな」

「……はは、だってあんた……全然起きないし」

「寝てただけだ。
起きてるだけなら昨晩から意識はある」

「なんだよ、それ。
……そっか、生きてたんだ……そっか」

繰り返し同じ言葉を呟いていたら、ぐにゃりと視界が捩れる。
反射的に両手で顔を覆うと、そのまま上体を折り曲げ視界を遮断した。


(生きてた)


昨日から起きてたとか寝てたただけとか、聞き捨てならない事を平然と言ってのけているけど、そんなことはこの際どうでもよくて。
ただ今この瞬間、息をして動いているんだと。
寝起きの癖にいつもと変わらず不遜な態度全開でふんぞり返っている男が死んでいなかったんだと頭が理解して、顔を覆った手がみっともなく震えた。
なんでクラウドのことで俺がこんな思いしなくちゃいけないんだって思うと情けないし最高に格好悪い。
大体意識が戻ってんなら声くらい掛けりゃいいのに。
こっちは意識不明だと思って毎日献身的に介護してたんだぞ。
おまけに息もしてないし、心臓だって止まっててさ。
いや、それは俺の勘違いだったかもしれないけど、そもそも起きてた癖に意地汚くベッドに転がってる方に問題があるだろ。
そりゃあ死んだって勘違いされたって仕方ないじゃん。

だから俺だって、俺だって。

狭い視界の中、声にならない不満がだらだらと落ちてくる。
ちょっとくらい口に出したって罰は当たらないと思っているのに、唇からは荒っぽい息を出すだけで精一杯だった。
もし、何か一言でも喋ろうものならその息に混じって嗚咽が漏れそうだったからだ。
そんなことをしてしまったら、やけに見通しの悪い視界の原因である眼球に溜まったこの水滴もきっと簡単に落ちてしまう。
今更取り繕ってもどうしようもないことはわかっていても、俺なりの意地だ。
クラウドという男を前にそれだけはどうしても見せたくなかった。

「死んだと思ったか?」

その静かな問い掛けに、顔に触れた指が皮膚に食い込む。
いちいち聞かなくてもそんなことわかってる癖に。
鼻からいっぱいに息を吸うと喉が震えてしまい、声は唇を噛んだ歯に止められて出てこない。
代わりに頭を二、三度縦に振り、それを返事としてみた。

「心配したか?」

珍しく自ら話し掛けてくるクラウドの声がやけに楽しそうき聞こえるのは気のせいじゃないと思う。
喋れないとわかっていて言っているんだろうか。
そんなこと誰よりもオレが一番知ってるのに。


(くそ、馬鹿!あんた最低だ!)


最悪だ、本当に底意地が悪い。

「顔を上げてちゃんと答えろ」

いつもならその命令とも取れる言い方にオレはすぐさま反応しちゃうんだけど、今日は駄目だった。
言う通りにしないとってわかってるけど、どうしても顔を上げられない。
原因は、ない頭を捻らなくても簡単だった。
クラウドが死んだと思って、俺は悲しかったからだ。
皆を遠巻きに見ていた時には漠然とし過ぎていて、変わっていく仲間の心情に自分だけが動けないままただ与えられた事をこなすだけの毎日で。
それが、胸倉を捕まれ揺すぶられるように死という現実に早すぎる速度で引っ張られ、怖かったんだ。
居なくなると思ったら、置き去りにされたそこから暗がりへと加速していく一方だったことも。
それが今はどうだ。
生きているとわかって、心底安心して、なんなら泣きそうになっている自分が居るのだ。
優しくしてもらった事なんか片手の指で足りるし、記憶の中を隅々まで探し回っても中々思い出せない。
いつも顎でこき使っては、破壊衝動を抑えられないらしい手足で何度も脅されて、思い出になるようなことなんてそんなことばっかりなのに。


(なんで嬉しいとか、思っちゃうわけオレ……)


「ティーダ」

だから、眼球にまとわりついた水分がグラグラと視界を不安定に揺らしていても、じっと堪えていたのに。
名前を呼んだ声に少し遅れて、頭の天辺に重みが加わって。
頭皮からじわじわと冷たい温度が染み込んでくる頃にはそれがクラウドの手だとわかって。
恥ずかしいだとか悔しいだとか、クラウド相手になんの意味もなさないであろう張りぼての体裁は息を吹き掛けるより簡単に消し飛んでしまった。

「そうだよ!心配したッスよ!すげーしたよ!悪いかよ!」

クラウドの手をはね除ける勢いで顔を上げれば、表面張力の限界だった目からぷるんと水が跳ね、頬の下にくっつくとゆっくりと落下していった。

「こっちはあんたが死んだのか思って何回も確認してさ!
不安にならない方がおかしいだろ!!」

やけくそ紛いに怒鳴ると、水分を含んでブヨブヨに腫れた視界が膨らんでまた鼻の奥が痛んだ。
クラウド相手に声を張り上げるなんて正気の沙汰じゃないけど、今回ばかりは仕方ないと思うのだ。
それに対して泣きながら怒鳴るなんて、癇癪起こした子供みたいで情けないにも程があるけどもう出ちゃったもんは仕方ないし、今更これが鼻水だと言い訳するにも苦しい。
だったらせめて、泣くほど心配掛けたことに対して文句だけは盛大に言ったとしても許されるんじゃないかと思う。

「そもそもあんたが紛らわしいことしてっ……、」

この際だからと、日頃の鬱憤も混ぜ食って関係ないことまで文句言ってやろうと台詞を吐くつもりが、実に中途半端なところで途切れてしまった。
だって、クラウドが物凄く良くない顔色で、見たこともないくらい優しく笑ってたから。

「して、た……から、」

「そうか」

その表情と同じくらい穏やかな声で返事をしたクラウドが、ふっと鼻から抜けるような音を鳴らしてまた笑った。

「お前じゃあるまいし、あの程度で俺は死んだりしない」

一々オレを小馬鹿にしないと気が済まないのか、あれだけの大怪我をした挙げ句、何日も目を覚まさないで散々心配かけた癖に、相変わらずこの態度だ。
普段ならその言い種に地に穴をあけるほど地団駄踏んでいるところだけど、今は下がった目尻やら、きゅっと上がった口角に動くこともままならない。

「ま、だがお前に心配されるのもたまには悪くないな」

減らず口が続く覚悟で、反論もせずじっと膝の上に作った拳を丸めていると病的に白い手がぬっと眼前に迫った。

「酷い顔だ」

髪の毛越しに感じた体温よりもずっと冷えた指先が目の下を滑っていく。
ぎゅっと、つねられているんじゃないかと思うような力で親指が皮膚に食い込んだ。

「不細工だな」

一体誰のせいでこんなにくたびれていると思ってるんだ。
つーか、人の顔見て不細工とか失礼過ぎるだろ。
あんたの顔面を基準にしたら大抵の人間は不細工だっつーの。

「……、うるせ」

それでも舌に乗せた言葉の続きが出てこないのは、やはりどこか嬉しさが勝っているからだろうか。
認めたくないけど、ずいぶんと久し振りに聞いたような悪態に懐かしさすら感じてしまい、真っすぐに結んだ口がひん曲がった。

「さて、俺は寝直すが」

そんな俺のささやかな葛藤など端から興味がないであろうクラウドが、手を引っ込めると小さく欠伸をかみ殺しながら退屈そうに言い放った。
この三日で確実にオレより多くの睡眠時間を摂取して散々寝倒していた癖に、余程眠いのか二度目の欠伸は遠慮なしに大口を開けている。
ついさっきまで死んでいたと思っていた相手ではあるけど、相変わらず自由過ぎるくらい欲望に忠実な姿になんだか笑えてきてしまい、固く握り締めていた指がようやく緩んだ。
ほどけていく指から少し遅れて、力んで白くなった痕が手のひらに散らばっていく。
それをなんとはなしに目で追い掛けていると「お前も」と声を掛けられ、指の先を辿るように顔を上げた。

「お前も寝ろ」

「は、」

い?と、言ったかどうか自分でも定かではない内に力の抜けた手を引っ掴まれ、尻が浮いたと思った時には既に視界が白一色に染まっていた。
よれたシーツに膝が滑り、反射的に上体で受け身を取ればいつの間にか捲られた掛け布の隙間にうつ伏せで転がっていた。

「ちょ……と」

「おい、もう少し端に寄れ」

「あの、」

「靴は脱げよ」

「……はぁ」

言われた通り、体を捩り端へと移動しながら踵同士を擦り合わせるように靴を脱ぎ捨てる。
ガコンと、鈍い音が床に落ちたところで「あの」と、もう一度口にしながら顔を上げれば、頭を手で支えながら寝そべるクラウドの顔がずいぶんと近くにあり、思わず仰け反った。

「……寝、るんスか?」

「寝る」

「オレと、あんたで?」

「他に誰がいる」

「……いや、オレは、別に寝なくてもいいっていうか……。
そもそも一緒に寝る必要も、」

「お前はいつもぐだぐだ煩いな。
たまには怪我人の我儘に付き合ったらどうだ」

怪我人にしてはよく回る口だ。
たまの我儘なんて言ってるけど、我儘しか言われた覚えもない。
もしかして今まで俺に対して無茶振りしたことは我儘に入っていないとか?

「単なる二度寝だ。
ちゃんと起こしてやるから寝ろ」

我儘の境界線が曖昧どころか線を突き破っていたとしても、この面の皮が地層より厚い男ならあり得る話だ。
心の内側だけでこぼした独り言がうっかり出てしまう前に「はぁ」と気のない短い返事をすると、それに機嫌を良くしたのかなんなのか、クラウドは少しだけ目を細めて、またあの穏やかな笑みを向けた。
眼球に残った水滴で視界がまだぼやけているのか、見間違いかと思って目を擦れば、人差し指の背で強く皮膚を押したはずの手が掴まれる。

「擦るな、腫れる」

五指が抱き込むように捕らわれると、触り心地の良いシーツにそっと落とされ、そのまま重なった。
いつもならこんな奇行とも言えるクラウドの振る舞いに、こっちも負けじと奇声をあげているのに、なんでされるがままになっているんだろう。
握り潰されているわけじゃないんだから、数少ない言い訳を並べて振り払ってしまえばいいし、さっさとベッドから飛び降りてたっていいのに。


(擦るなとか腫れるとかさ、そんな心配してるみたいなこと、普段絶対言わない癖に)


どこか宥めるような口調と、乾燥した皮膚から伝わる冷えた温度が沁み込み手が動かない。
顔を見れば皮肉か嫌味しか言わない、会話も一方的で、何か返す前にはもう背を向けられてることなんて当たり前で、それにいちいち腹が立って。
そんな嘘つきで、自分勝手な優しくない手なのに。
それでも払い除ける気になれないのはなんでだろう。


(手、つめた……)


顔のすぐ横に置かれたクラウドの手に残る無数の傷跡。
肌より更に白く盛り上がった新しい皮膚がその戦い年月を物語っていて、あぁこの人にもやっぱり積み重ねたものがあるんだなと思うと傷を追う目に熱がこもる。
でもクラウドの色白な手にはなんだか似合わないなくて、その場所をしつこく凝視していると、ふと目が固まった。

「……セシルに報告、しなきゃ、」

そうだ、こんなことしてる場合じゃなかった。
せっかくクラウドが目を覚ましたんだから知らせなきゃ。
セシルだけじゃない。
口数の少なくなってしまったオニオンに目を覚ましたんだと教えたいし、何も言えずに去ったスコールの背を今ならきっと追い掛けることがきっと出来る。
だって、ずっと背に圧し掛かっていた不安を払拭出来る唯一の人間が、今ここに意識を持って居るんだ。
だから今すぐベッドから抜け出して、行かなきゃいけないのに。


(からだ、動かないや)


久し振りに横たえた体はあっさりと重力を受け入れてしまい、そのあまりの重さに今更過ぎるくらい疲れていたことを思い出した。
そういえば、あんまり寝ていなかったんだと疲労を実感すれば、待ってましたと言わんばかりに今度は瞼が重くなってくる。
ちょっとひんやりとしたシーツの感触だとか、温く室内を駆けていく風だとか、そういう些細なものが後押ししちゃうんだから余計にだ。
寝なくてもいいなんて言っちゃったけど、体はベッドと一体化を望むように静かに沈んでいく。

「……みんなに、」

「そんなもの後回しでいい。ほら、」

ふわりと、視界の端っこで舞った白い布がスローモーションで落下してくる。
あ、これはまずい。と思った時には既に遅く、空気を含んで柔らかくなった布が寄り添うように剥き出しの肌に優しく触れた。
ベッドに引き込むどころかまさか布まで掛けてくれるとは。
本人は死んでないなんて言ってたけど、本当はやっぱり一回死んで心入れ替えたんじゃないんだろうか。
向けられた覚えの乏しい笑顔も、オレ以外の誰かにはよく掛けられる気遣うような言葉も、どちらも知らないクラウドが、今日はオレただ一人に向けられている。


(いや…それにしては相変わらず横柄すぎるか…)


普段の接し方からあまりにもかけ離れたその姿があまりにもチグハグで、おまけに睡魔も手伝って脳内が混乱してしまう。
撫でるだけのような感触が次第に重みを増して素肌に貼り付いてくると、いよいよ身動きが取れなくなる。
瞬きの度に重力を増す瞼に抗ってみるけど、クラウドの「早く寝ろ」と急かす声が普段よりうるさく感じないのもいけない。
ちょっと耳障りがいいなんて思ってしまったのも余計にだ。

「……ちょっとだけ、本当にちょっとだけだから、絶対起こしてくれッスよ」

次第に拡散していく思考に負け、少しだけ身を捩る。

「心配するな、ちゃんと起こす」

「本当ッスよ?……絶対だからな、……」

報告遅れたら絶対怒られるんだからと、喉の奥で唸るように発した声は聞こえたかどうか。


(……良かった……、生きてた……)


側頭部に突き刺さる視線もそのままに、重なった白い手が少しだけ強く握られたのを最後に、ぼんやりとしてよく見えない視界が明るさを保ったままの瞼で完全に覆われた。


















『本当に入っていいの?』
『目を覚ましたのなら問題ないだろう。
それにちゃんと生きているのか、私はこの目で確かめたい』
『ちょ、待って!待って!まずはバッツに確認してからじゃないと……目が覚めただけで意識がちゃんとあるかはわからないよ?』
『……君は些か杞憂がすぎる。
目が覚めたのなら意識もあるだろう、大丈夫だ』
『いや、だから……そういう事じゃな……あっ!勝手に開けちゃ駄目だって!』
『ちょっと二人共煩いってば!クラウドの体に障るでしょ!?
大怪我してるんだから少しは静かに出来ないの!?』
『……たまちゃん、静かに、静かに……』
ぼそぼそと小声にしては大きすぎる会話。
それを上回る複数人の床を踏み抜くでかい音に、ペラペラな扉に体当たりでもしているかのような衝撃音が加わると、眠りが浅いわけじゃないオレだって流石に意識が現実へと引っ張られる。

急速に引いていく睡魔に数度瞬けども、自分の睫毛が視界の半分を覆っていてよく見えず、雑に目を擦っては重たい頭をシーツに当てながら体を反転させた。

「よぉ」

「……ぁ、」

さっきまで自分が座っていた椅子は空席のはずなのに、何故かバッツがいる。

「……ぇ?・・・・あ、え?」

顔半分はまだベッドに沈んだまま、瞬きの回数だけが増える。
高速で開閉を繰り返していると、不鮮明だった視界が開け、遥か後ろに置いて行かれたままの思考が全速力で追いかけてきた。

「おわっ!!」

「はいはい、静かにね」

「い、い、」

「ついさっきだよ。
結構しっかり寝てたからどうしようかと思ったけど、勝手に起きてくれて助かったぜ」

喋りきれていないオレの言葉の続きを拾ったバッツが、短く欠伸を噛み殺しながらベッド脇の小さなテーブルの端でグラスへと水を注ぎ笑っている。

「しっかし、寝てるとはなぁ」

「いや、そ……、」

「まぁお前も疲れてたんだろうけどさ」

「ち……、」

慌てて否定しようとしかけたけど、同意を求めるように片方の眉だけを上げたバッツの仕草に、ぎゅっと竦んでいた肩が落ちる。
責めているわけじゃないとわかってはいるけど、睡魔に負けて大事な報告を後回しにしてしまったのだ。
心痛な面持ちの仲間たちを思い出すと、申し訳ない気持ちがじくじくと胸から喉元に広がるのは当然で、身の置きどころない気持ちはどうしたって消えない。
確かに疲れていないわけじゃないし、人の、それもクラウドのベッドで寝てしまうくらいには睡眠が足りていなかったのも本当のことだけど、そんなこと言い出したら目の前で音程が著しく外れた鼻歌を歌っているバッツだって相当に疲れているはずだ。
薬種がわかるのも、それを生成出来るのもバッツただ一人。
そのせいでオレたちが仮眠を取っている間も、分厚い本を片手に動き回っていたのを知っている身としては、沈没寸前な神体的疲労があったと思うんだ。
それがわかっていながら、自分だけ寝てしまっていたという後悔でバツが悪いと感じない人間なんて……、なんて?
ん?いや、なんか違くね。
そういうことじゃなくて、なんだ?


(あれ、オレなんか言わなきゃいけないことあったような……)


途方もない懺悔の坂道を転がっていると、道の端から小石を投げられたような衝撃で思考だけが停止する。
相変わらずバッツの鼻歌は変だし、日に日に濃くなる目の下の隈も酷いもんだ。
グラスの中に注がれる白色の粉末が、下から徐々に水の色を変色させていく様を追い掛け、瞬間的に頭の中が弾けた。

「そ、クラウド!ク、目覚まっ」

「あー、知ってる知ってる」

オレには一瞥もくれず、食い気味に返ってきた返答に勢いが削がれ、衝動と共に起こした上半身が妙な体勢で止まった。

知ってたってなに?
どういうこと?は?

「昨日の夜中にな、ティナと一緒にフリオニールの水差し変えるついでにクラウドの様子見に行ったら普通に起きてたわ。
しかも起き抜けで腹減ったとかいうもんだからさぁ、わざわざ火起こしして飯まで作ったわけよ。
晩飯の残りでも出そうかと思ったけど、残ってるもんなんか生野菜くらいしかねぇし、でも何日も寝てた怪我人にそんなの食わせらんねぇだろ?
ちょっとでも胃に優しい物にしてやろうってティナと話し合ってスープ作ったんだよ。
ほら、なんかオニオンが前に干し肉のスープ作った時に美味かったって皆が言ってたやつあるじゃん?あれ思い出してやってみたけど、なんかドロドロの凝固物が出来てやんの」

いやーびっくりしたよねぇ、なんて聞いてもいない調理の話を呑気に言ってるけど、とんでもないことを言ってる自覚があるんだろうか。

「ち、ちょっと待ってってば!
バッツ、クラウドが起きてたの、知ってたんスか?」

「そうだけど?」

「テ、ティナも……」

「そりゃ一緒に居たからな」

何言ってんだお前と言わんばかりに、首を傾いだバッツとは反対に、オレの頭は地に落ちるほど下がった。
だってそうだろ、こんなに皆が心配して、どんな思いをして過ごしてたかなんて、一緒に居たんだからわかるだろ。
オレだってその、まぁ、心配するのはみんなよりずっと遅かったけどさ、でも、でも一応気にしてたのに、知ってたってなんだ。
知ってたってなんだってば!!

『起きているだけなら、昨晩から意識はある』

側頭部から響いた図々しい声を思い出して、思わず頭を掻き毟った。

「あー……、わりぃ。
言おう言おうと思ってたんだけどよ、とにかくやること多いわ眠いわで普通に忘れてたんだよ。
ティナもさっき広間で半分寝ながら作業してたしな」

う……、ティナのことを持ち出されると責められない。
あんな儚げで心優しい少女が、骨身を削って献身的に動いていたのを知っていると余計にだ。


(置き物みたいになってると思ったら、あれ寝てたんだティナ……)


広間で見た、あの憂いた顔は単に眠かったのかティナ。
てっきりクラウドが目を覚まさないこの状況に憔悴しきってたとばっかり思ってたよオレは。
くそ、かわいいな!

「悪かったよ、報告が遅れて。
とりあえず皆にはさっきフリオニールのところに行った時に伝えたからよ」

あっちで待ってると、バッツが指をさした部屋の入口には、半開きの扉から部屋に侵入するのを今か今かと待ちわびる見慣れた顔が幾つも見える。
目覚まし代わりになった騒音の正体を知り、緊張の解けた口からため息のような笑い声が飛び出した。


(良かった、みんなに伝わってて)


期待と、少しの不安を残した面々を心の中に大切にしまい込むと、持ち上げた手を力なく顔の前で振った。

「いや……、オレもさっきクラウドが目覚ましたの知って、報告しなきゃって思ってたんだけど、結局寝ちゃって出来なかったッスから」

「別にいいって。
俺もさっき来たばっかりだったし、フリオニールのところで長居し過ぎたしな」

まぁでも、と続いた声に引っ張られるように顔をバッツに向けると、大きな目がきゅっと弧を描いた。

「一緒に寝てるとは思わなかったけどなぁ」

どこか探るような、それでいて確かな好奇心の滲んだ鳶色の瞳に、思わず顔をしかめた。
やっぱりそれか。
そうだよね、傍目から見たら怪我人のベッド半分陣取って寝てるように見えたっておかしくない状況だし、勝手に潜り込んだなんて思われてるかもしれない。
なんなら現在進行系でバッツにそれ見られてるわけだし。

「はは……、オレもそう思うッス……」

本当になんでこんなところで寝ちゃったんだって、オレが一番思ってるよ。
それに、


(……やっぱり起こさなかったか)


首を捻れば、真っ白なシーツに埋もれてクラウドが眠っている。
横を向いて、安らかな顔をして、さも当然かのように。
なにが、ちゃんと起こしてやるだ。
あんたが心配すんなっつったから、オレってば寝ちゃったのにさ。
あ……、いや確かに誘惑に負けたオレも悪いけど。
それにしたって、起きる素振りくらいしたってよくない?
どんだけ寝てんだよ!
俺たちが話しててもちっとも起きやしねぇし!


(やっぱ嘘つきッスよあんた!)


「お前ら仲良かったの?」なんて言いながらニヤつくバッツに、途方もない勘違いをされていると知って、後のことなんてお構い無しに、勢いのまま寝汚い男の腰に蹴りを入れた。














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