help!-番外編-中
「入るッスよ」
一声掛けて、薄い扉を中指の背で慎重にたたく。
古びた宿の外観を裏切らない内装の劣化は、住むには問題ないと言ってもあまり状態がよろしくない。
現に、目の前の扉は傷だらけの上に塗装が剥げ、木板の一部は毛羽立った歯ブラシのように無数のささくれが目立ち、酷い有り様だ。
立て付けが悪くなっていないだけマシかもしれないけど、力任せにたたけば簡単に穴が空きそうなほど薄っぺらい板は外部と遮断するには心許ない気がする。
上から下まで、なにか人の顔や文字にも見える染みや木模様にひととおり目を這わせると、「入るからな」ともう一度声を掛け、二度目のノックはせずに扉をゆっくりと開けた。
風に触れられたカーテンが波打つ海面のようにその身をくねらせ、ハタハタと小さな音を立てている。
時折煽られているのか、裾を大きく膨らませると爽やかとは言い難いが、それなりに気持ちの良い風が室内に流れ込んできた。
程よい温度に保たれた室内は日差しこそないものの、白んだ空も手伝ってかそれなりに明るさがある。
心地よく風が吹き込んでくる中、この部屋がやけに広く感じるのはその明るさのせいではないということを、この数日でオレは知った。
(本当、なんもねぇの)
椅子と一人用の丸テーブル、ベッドサイドにあるこぢんまりとしたチェスト。
それから部屋の主が体を横たわらせているベッド、それだけだ。
この部屋にはそれだけしかない。
脱ぎ散らかした服もなければ、バッツのように奇妙な植物が所狭しとあるわけでもなく、知識をむさぼるオニオンのように買い漁った本が丁寧に並べられているでもない。
もともとあった家具だけがこの部屋に置かれているだけで、私物と呼べるようなものは何一つ見当たらない。
スコールの部屋だって、小さいけどサボテンだったり手入れ用のオイルだったり、生活の一部が垣間見えるような何かはあったのに。
物がない以前に、持ち主の気配もないような空き部屋同然の室内は心細さが漂い、どこか居心地が悪かった。
「今日はバッツが新しい薬持ってくるって」
両手に持ったトレイをベッドサイドに置くと、後ろから椅子を一つ拝借した。
「先にスコールとフリオニールのところに行くって言ってたから、あんたは最後かな」
音を立てないよう静かに椅子を下ろすと、トレイの上から一枚布を取り、水の張った桶に浸した。
水を吸い込み重く沈んでいく布をじっとりと見つめていると、意識とは関係なく唇の隙間からため息が落ちる。
毎日毎日、来日もこうしてクラウドに話し掛けているけど返事が返ってきたことは一度もない。
ほとんど独り言に近い問い掛けだけど、意識のない人間にはそうしてやった方がいいとウォルに言われたからしている。
そこにオレの意思はない。
だから別に返事が返ってこなくても気にする必要はないのに、こんなにも気分が滅入るのはなんでだろうか。
皆と同じものを持ち合わせていないのに、不釣り合いな感情だけが隅っこにこびりついていて、クラウドに話し掛ける度にそこを執拗に触られている気がしてならない。
返事がないことを、残念に思ったりなんてしていないのに。
「…顔だけ拭くから、体はいつも通り薬塗る時にバッツにやってもらえな」
掬い上げた布を両手で二度強く絞り、ついでに自分の手も拭くと、ようやくクラウドの横に腰を下ろした。
何度も蹴られて壊された自室の椅子とは違い、脚のしっかりと固定されたそれは羨ましいほど硬く頑丈だ。
(こっそり交換してやろうかな)
固く絞った布を広げ四つ折りにし、ふぅーっと息を目一杯吐き出す。
オレはこの数ヶ月振り回されては揉みくちゃにされ、何度も心を折られてばかりいるんだ。
少しくらいその仕返しをしたって罰は当たらないと思ってるし、なんならお釣りがたんまり返ってくるくらいだと自信を持って言える。
言えるのに、この部屋に来てクラウドの隣に座って、起きもしない男を延々と見ていると、そういう反抗心に近い気持ちが萎えていく。
今、この瞬間でさえも。
(らしくないっつーの)
口から出る空気の音がやみ、吐き出すものがなくなってから一度強く目を瞑ると、「よし」と小さく覚悟を言葉にして手を伸ばした。
右頬に当てた布を下に向かってゆっくりと動かし、次に顎下を拭く。
初めこそ、高熱のせいで滝のような汗がまとわりついていた皮膚も、今はなくなり拭き取るものが何もない。
それでもこれだけ長い期間ベッドに転がっているんだからそれなりに汚れているんだろうけど、拭き取った布を返してみても相変わらず染みの一つも付きやしない。
体は薬を塗りにくるバッツがついでに拭いているらしいから、オレがやる事と言えばこうして顔や腕を拭いたり、掛け布を直してみたり、窓を開けて換気したり、一日中そんな変化の乏しい中で暇をもて余している。
別にクラウドとお喋りなんてそんな気味の悪いことをしたい訳じゃないけど、ここは普段呼ばれることもなければ入れてもらうのにも一々嫌な顔をされる場所なのだ。
いくら本人に意識がないとはいえ、そんなところに一人で居続けるのはなかなか勇気のいることではあるし、日頃から約束の件で雑用紛いのことを押し付けられているのに、この上無償奉仕に近いことまでやっているのかと思うと、なんだか自分がかわいそうになってくる。
「いっそこれで約束のこと、チャラになんないスかね」
うっすらと傷痕の残る額を右から左へと拭くと、散らばる前髪を恨みがましく指で弾いた。
しぐさ一つで機嫌の度合いを測る手間がない今、こんなことだって簡単に出来てしまう。
ご機嫌伺いなんて一々気にしないでいいんだから、愚痴だろうが、暴力に近い言葉だろうが、なんだっていいから腹にたまったものを吐き出してしまえばいいのに、一度萎れた気持ちはどんどんひしゃげていくだけで、言葉の先が続かない。
出してさえしまえば、こんな風に気持ちが沈むこともなくなるかもしれないのに。
晴らせない憂さを持っていたくなくて、もう一度、今度はちょっと強めに髪を払ってやろうと手を伸ばせば、触れるより早く繊維にも似た細い髪が重力に任せて、するりと米神へと落ちる。
そのわずかな動きに、一瞬乾いた血痕の影を見た気がして、形容しがたい怖気に手が引っ込んだ。
血と脂と、饐えた甘い匂いの混ざる臭気。
時間が経てばたつほど、血液を吸って黒く変色した地面から香る匂いが鮮明になっていくようで胃の奥がぎゅうっと妙な音を立てそうになる。
乗り物酔いに近い、その捩れてしまいそうな感覚に、しがみつくように布を握り込んだ。
起きないクラウドに何も思わない癖に、あの日見た苛烈な光景と、いつまでも鼻の奥に残る強烈な臭いの残滓に襲われるのはこれで何度目だ。
喉が閉塞しそうな嘔吐感に堪らず下を向くと、重たい沈黙の中で弱く息を吐いた。
(やめよ…)
たたずむクラウドの姿は断片的で、はっきり覚えているのは真っすぐにこちらを見つめる鋭い眼だけ。
散らばった映像の欠片を寄せ集めても曖昧なことばかりが多いのに、辺りを漂っていた臭いだけがいつまでも纏わり付いていて苛々する。
握り潰しかけていた布から手を離すと、親指と人差し指で小鼻を摘み、息を止めた。
全く、本当に、嫌な男だ。
確かにオレは、会いたくて来ているわけじゃないし、世話だって望んでやっているわけじゃない。
頼まれたのもあるけど、役割として任せられたからこうして、渋々だけど、足を運んでいるのに。
今、ここに在りもしない臭いを思い出させた揚げ句、オレの胃を痛めつけてどうするんだ。
息を止めたことで、徐々にカッカッと熱くなる顔とは逆に、意識もない人間からの嫌がらせのような行為に、落ちかけていた気分がさらに降下していく。
これが遠のく原因になったら、あんたの自業自得だ。
(起きてても寝てても、人のこと振り回し過ぎだっつーの)
気付けばいら立ち紛れにベッドの縁を蹴飛ばしていた。
※※※※
久しぶりに、人がいる。
ふと、目を向けた室内をぐるりと見渡して最初に思ったのは、ここしばらく感じていなかった生活感と自分以外の人間が居ることへの違和感だった。
決して手狭な部屋ではない広間で、今ここにはオレを含めてたった四人しかいないのに、それでもソファや椅子に座る仲間が居るだけで、部屋自体が一回り小さくなったように感じてしまう。
ここ数日で誰も居ない部屋を見慣れてしまったせいだろうか。
深夜まで猥談で盛り上がり居座り続ける者、何度寝るなと言ってもソファで寝る者、時間を忘れて武具の手入れに勤しむ者、挙げればキリがない。
だけど、それがここへ来てからの普通で、当たり前過ぎた日常だったんだから、出払っている人数の方が多い中で、たまに誰かとすれ違う程度の生活スタイルは、たった数日のことであってもその違和感を覚えるには十分過ぎたんだろう。
誰もいない広間で、埋まることのない空白の席を眺めるのもこれで終わりなんだと思うと、安堵とも放心ともとれるような息が口の端からこぼれ落ちた。
そして、今。
シンクに腰掛けたオレの正面で、上体を左右にゆっくり捻りながら、少し体が重い気がすると。
どこか悔しそうに眉を顰め、何度も関節や筋肉の動きを確かめるスコールを目の前に、ちゃんと生きているのだと改めて実感し、包み込んでいたカップを持つ手にきゅっと力がこもった。
「しょうがないって、ずっとベッドの上だったし」
一応励ましというか、それに至る原因があったことを答えとして言ってみたけど、本人は納得がいかないのか珍しく唇を尖らせるような幼稚なことをしている。
そういう仕草は、普段他人がやってても嫌がる素振りを見せるのになぁと、チグハグな様子に思わず口元がほころびかけ、慌てて手の中で持て余していたカップに口を付けた。
「気のせい気のせい。
そんだけガリガリに痩せてんだから多少重いくらいでちょうどいいだろ」
「…痩せていないし、ガリガリじゃない」
「痩せてるやつほどそういうのなんでだろうな。
反感買うから言う相手は選べよスコール」
「いや、だからオレは」
「ま、動けるようになったんだから良かったじゃねぇか。
一番乗りなんだし、喜べよ」
椅子の上で行儀悪く胡座をかいたジタンが、スコールの声を遮ると天井に向かって大きくあくびを見せている。
大きな口を開けたまま眠てぇなおいと続いた言葉に、それ以上ジタンが聞く気がないと判断したのか、スコールが苦い物を舌に乗せたような顔をしていて、今度は我慢出来ずにカップの中身に向かって笑いのこもった息が飛び出した。
「…おい、笑うなよ」
「笑ってないって」
息を吐き出したせいで、盛大に飛び散った液体が鼻の周りに付着し、炒った葉の濃い臭いが鼻を抜ける。
相変わらず上がったままの口角を誤魔化すついでに顔ごと肩口で擦るように拭くと、見上げた先でやっぱりスコールは面白くない顔をしていた。
「ごめん、笑った、笑ったけどそういう意味じゃないんだって」
「どっちにしろ笑ったんだろう」
「待て待て、そうじゃなくて」
これは予想以上に不貞腐れかけていると頭が判断するより早く、飲みかけのカップをシンクに置くと攻撃の意志はないと両手を挙げてスコールへと近付いた。
「スコールが元気そうで嬉しかっただけで、別に痩せてるとかそういうことで笑ったんじゃないッスよ!
スコールが着痩せして見えるだけなのはオレ、ちゃんと知ってるから」
「…笑われるのは好きじゃない」
「うん、そうだよな。
でも本当にバカにしたりとかじゃないから、ごめん」
本当に悪かったって、な?と言いつつ慎重に歩みを進めながらスコールのご機嫌伺いをする。
神様顔負けの心の広さを持つ代償なのか、普段は絶対怒ったりしない分、一度機嫌を損ねるとスコールは長い。
あの時もお前はこう言っていたじゃないか、なんて数ヵ月後に言われてしまっても、昨日の晩飯が何だったのかすら覚えていないオレには返す言葉もない。
そんなことになってしまえば、確実に口を利いてもらえないだろう。
実際バッツがそれで一ヶ月ほど存在をなかったことにされていたのを目の当たりにした身としては、絶対に避けたい。
スコールは天使のように純粋で、繊細な生き物だから、大切に扱わないといけないのだ。
ちょっとのことで傷付いちゃうような細やかな心の持ち主なんだから、機嫌を悪くして口を利いてもらえなくなるくらいなら、なんだかよくわからなくてもとりあえずオレが謝っておけばいいのだ。
いや、別に面倒くさいとかじゃないから、そういうんじゃないから。
「お前本当そういう拗ね方すんのやめろって。
どうせ後でグチグチ言い出すんだから、今のうちに言いたいこと言っときゃいいじゃん」
なんて、オレが丁寧にケアしようとしていたところにジタンが張り手並みの鋭い横槍を入れてしまい、挙げていた手がぱたりと折れた。
おい、バカやめろ、せっかくスコールの機嫌が直りかけてたのに。
「スコ、」
「オレがいつグチグチなんて言ったんだ」
あー、もうほらぁ。
怒らせてどうすんだっての。
「いっつもじゃん」
「いつもじゃないし、言っていない」
「言ってんじゃん。
この前だってさぁ、使ったテント洗ってなかっただけでずぅーっと文句垂れてたじゃねぇか」
「使ったらすぐに洗うのが決まりだから言ったまでだ」
「だからぁ、あの時荷物が多かったし、とりあえず聖域戻ったら洗うって言ったじゃねぇか」
「そう言って結局翌日まで放ったらかしにしただろ。
おかけでウォルにどれだけ詰められたと思っているんだ。
連帯責任になるから俺は再三声を掛けただけでお前の、」
「ちょ、二人共落ち着けって」
二人が喧嘩してるわけじゃないってわかっているけど、軽口にしては肝が冷えそうな会話の応酬に、慌てて間に入る。
「とりあえずテントの話はまた今度にしようって。
話が逸れすぎッスよ」
「いいんだ、いつかは言おうと思ってたことで、それがたまたま今なだけだ」
いや、そうじゃなくてスコール。
「別に今する話でもねぇじゃん」
ジタン、頼むから煽るようなこと言うなって。
鼻に指突っ込みながら言ってると余計にだってば。
「はいはいはいはい」
パンパンと、手を叩く音に合わせてリズミカルに割って入った声に、三竦みの状態だった全員の視線が奥へと引っ張られる。
「もうね、お子様達うるさいのよさっきから」
所々破れて綿やスポンジのようなものが見える古びたソファの上、スコール以上に華奢な体を横たえたバッツが、全然寝られやしねぇと言いながら顔に乗せていただけで読みもしていない本を僅かに持ち上げた。
「こちとら疲れてんだから、もうちょっと静かに談笑出来んのかね」
完全にソファと同化していて存在を忘れていたけど、そういえばバッツ居たんだっけ。
いつもならスコールとジタンのやり取りにバッツが茶々入れて怒られる、というところまでがお決まりパターンなのに、今日のバッツは見向きもしないどころか制止する側に回るなんて驚きだ。
静から最も遠い場所にいるバッツに言われるとなんだか腑に落ちない気もするけど、普段より幾分低く嗄れた声に数日分の蓄積された疲労を見た気がして、野次を飛ばす気持ちはすぐに消え去った。
それはスコールも同じだったのか、何か言おうと開きかけていた口がきゅっとキツく結ばれ、への字に曲がっていた。
「大体お前ら見舞いに行くんじゃなかったのかよ。
先に行きてぇっつーから待ってんのに、まだここで騒いでるなら俺たちが先に行くぞ。
…ティナ、セージ少し分けておいて。後でトカゲの尻尾と使うから」
「わかったわ」
呼ばれた名前につられて横に目を移せば、バッツ以上に希薄な存在になりかけていたティナが、斜向いの一人がけのソファで黙々と薬草を仕分けしていた。
調合用に使うであろう草や液体、乾燥した固形物などを、長テーブルの上に丁寧に並べいくつかの紙に包んでいる。
そこに穏やかな雰囲気を纏い、可愛らしい笑みを振り撒いているティナはいない。
俯向いて、必要最低限の会話だけをバッツに返しているだけだ。
落ちた長い髪の隙間から盗み見た横顔はいつかのバッツと同じで、やっぱりあまり良いものとは言えなかった。
スコールが立ち上がって歩き回れる程に回復して、それが嬉しくて、安心感から呆けていたわけじゃないけど、二人の疲れきった姿にまだ全部が元通りになっていないんだという当たり前のことを、今更ながらに実感する。
「ごめんごめん、つい話し込んじゃって。
ほら、スコール行こう」
テーブルの上に放置されていたままのトレイに、乗せ忘れがないか手早く確認すると引ったくるように掴み、二人から目を逸らす。
スコールが目を覚ましてから三日、四日と、どんどん日が流れ、ベッドから離れて歩き回れる時間が増えると、他の仲間も広間へと寄り付くようになっていた。
だから少しずつ普通が戻っている気がしていたけど、本当はどうなんだろうか。
じっと二人の姿を見ていたら、どこか知らない場所へ引っ張られそうで、それがなんだか見てはいけないもののような気がして、まだ何か言いたそうなスコールの袖を掴んで部屋の出口へと誘導した。
「あんまり長居すんなよ」
「わかってるって。ほら、スコール」
肩口に触れるバッツの声を振り払うように背を向けると、中々動かないスコールの腕を今度はしっかりと腕を掴み、引きずるように外へと飛び出した。
※※※
「だっ、」
「大丈夫」
そう言われることを見越していたのか、被せるように放たれた声に、用意した言葉が遮られる。
同時に飛び出した右腕が宙を彷徨っていると、やんわりと上から抑えられ、そっと押し下げられた。
余計な世話だったと、少しの間を置いて気付き、窺うように見上げれば、オレ以上に申し訳なさそうな顔をしたスコールが、少し変な笑い方をしていた。
「大丈夫だ。
この前も言ったが、本当に体が重くてな。
寝てばかりいたから、体幹が弱っているのかもしれない」
おかげで踏ん張りが効かないんだと、一昨日広間で見せた時とは違って、照れ臭そうにも気恥かしそうにも見える顔で告げた。
ジタンとのやり取りから、スコールが体力を著しく消耗しているのはわかっていたけど、反射的に手が出てしまった手前、てっきりまた不機嫌にさせてしまうんじゃないかと思ったけど、どうやら違ったらしい。
「あ」と「う」の間を切り取ったような微妙発音が混ざ返事を転がしていると、階段に乗せた足を何度も踏み鳴らしながら、スコールが「すまない」と、全く場にそぐわない謝罪を打ち明けた。
「気絶して、運ばれてから……周りには面倒しかかけなかっただろう?
この上体力まで落ち込んでいるのかと思うと、不甲斐なくてな」
「いや…それは」
「いいんだ。
今だってよろけたのは事実で、お前は支えてくれようとしただけだしな。
…たかが階段一つ登るのだけなのに、上手くいかない」
力がこもったのか、スコールの足の裏からギッと木の軋む音が鳴った。
部屋の扉もそうだけど、この階段の傷み具合も相当だ。
亀裂も入っているし、所々板も剥がれかかってて酷い有様だ。
あちこちに変な出っ張りもあるんだから、足を引っ掛けただけかもしれない、なんて一瞬考えたけど、それを口にするのはやめた。
「なに言ってんだって。
脳震盪起こしてたんスよ?
目立った怪我がないにしろ、安静にしてなきゃいけなかったんだから、謝ることじゃないって」
スコールを追い越し一段上がると、通り過ぎ様に肩をたたく。
「ほら、バッツだって言ってだろ?
後遺障害とか、なんか色々出たら大変だって。
動けるようになったって言っても完全に回復したわけじゃないんだからさ、急がなくてもいいって。
それに、」
なじみのない視線からスコールを見下ろすと、はい、と言って手を差し出した。
「こんな時じゃないとスコールに頼られないんだから、いい格好させてよ」
目の前に出された手とオレを交互に見遣ったスコールが、驚いた顔をしたのはほんの一瞬で、数度の瞬きをした後は、またあの変な笑い方をしていた。
「…今回だけだぞ」
「うん」
「階段登り切るまでだからな」
「わかったって」
早くと、急かす為に動かした指が、スコールのため息と共に大きな手に握り込まれた。
グローブの外された手は指先まで体温が行き渡っていて温かい。
その生命活動を示す温度に、生きていてくれて本当に良かったと心底思う。
スコールだけじゃない、フリオニールだってそうだ。
聖域に戻ってから十二日目の今日。
確かに、まだバッツやティナはまだ薬草の採取から調合、治癒までを担っていて休む暇もないし、見回りに出ているウォルとジタンも寝ずの番が終わった訳でもない。
だけど、死が目前まで迫っていた初めの頃の、あの鬱蒼とした空気はどこにもない。
全てが元通りになるには時間がかかるということは十分に理解しているけど、二階から、広間から、ささやかだけど賑やかな声が聞こえる度、状況は確かに良い方へ向かっていると思うのはいけないことなんだろうか。
「リハビリ、やるんだって?」
階段を一段上がる度、ガチャガチャと音を立てるグラスと水差しが気になり、片手に持ったトレイをお腹に押し付け抱え込む。
「そんな大袈裟なものじゃない。
落ちた体力を戻すための訓練だ」
「一人でやるんスか?」
「…いや、ウォルが引き受けてくれた。
相手が居た方がいいだろうと」
「マジか、意外」
絶対安静、ベッドの上でしていいのは呼吸だけ。
勝手に動き回ろうものなら容赦無く叩きのめす!なんて言いそうなのに。
「俺は目立った外傷もないし、少しずつなら文句も言われないだろうと思ってな」
「ウォルが良いって言うとは思ってなかったけど、良かったじゃん。
そういえばフリオニールもリハビリ始めたって、聞いた?」
「あぁ、セシルから。
あいつは本当の意味でリハビリが必要だろう。
…あんな状態だったんだ、俺なんかよりずっと大変な思いをしている」
ぐんっと、後ろへ引っ張られるような感覚に、スコールの足取りが重くなったのだとわかる。
「大丈夫だって。
この前会いに行ったけど、ベッドの上で筋トレしてセシルに怒られてたくらいには元気だったし」
その重さに気付かない振りをして、負荷のかかった足をまた一歩上げた。
「腕はまだ時間かかるみたいだけど、指の骨折は内出血で変色した部分も引いて、痛みもそんなにないらしいから、思ったより早く完治しそうだってよ。
処置が早かったのもあるけど、やっぱティナの魔法すげーよなぁ」
自分が少し早口になるのがわかったけど、構わず喋り続ける。
そうでもしないと、後ろのスコールは本当に歩くことを止めてしまいそうだったからだ。
自分だけが軽傷だったことが、そんなに後ろめたいんだろうか。
もしオレがスコールの立場ならどうだったのか、そこは考えても仕方ないことだけど、命があるならそれでいいと思うのは駄目なんだろうか。
フリオニールだって重傷ではあったけど、今は意識も戻ってそれなりに元気に過ごしているし、今スコールに言ったことだって、ちゃんと自分の目で見た嘘偽りのない事実だ。
それなのに、負傷者は全員生きているというのに、皆一様に薄暗い影を連れ添ったような顔をする。
スコールも、バッツも、ティナもみんな、みんな。
(そうなのかな…)
最後の一段を登り切ると、大きく息を吐き出して呼吸を整える。
自分の部屋はこの更に上で、何度も通った場所だけど相変わらず少し息が切れてしまう。
スコールの手を離し後ろを振り返った。
「さ、着いたッスよ」
宿の三階、訪ねる部屋はクラウドただ一人。
本当は二階に部屋があるフリオニールから先に見舞いに行きたかったけど、治療の順番的にフリオニールの方へ先に行くとバッツに宣言されてしまったんだから、しょうがない。
どうせクラウドの世話をしに行かなきゃいけなかったんだし、早いか遅いかの違いならとっとと終わらせて、ゆっくりフリオニールの見舞いに行った方がいい。
治療中に割り込んで部屋をうるさくしても怒られるだけだし、バッツとティナの様子を見る限り、わいわいと明るく話を出来る雰囲気でもないような気がする。
(やっぱり、そうなんだろうな)
スコールが歩けるようになって、フリオニールが意識を取り戻して、そうして二人が日常に歩を進めていく中で一つだけ弾かれたもの。
流れるように時間が過ぎて、見慣れた顔が揃いだしても、皆が一様に顔を伏せ、居心地悪そうにしてしまうその原因。
「クラウドの部屋、一番奥だけどすぐだから」
久しぶりに誰かに向かってその名前を呟くと、数日間の違和感や不自然さがピタリと何かに嵌る。
スコールは歩いた。
フリオニールは起きた。
でも、クラウドだけはずっと、変わらない。
あの日、彼だけが日常から追いやられたのだ。
「……静かだな」
名前を聞いたスコールの口元がわなないたのは一瞬で、すぐに辺りを伺うように、左右にわかれた通路を確認していた。
その横顔に、少しだけ緊張の色が見える。
「三階は二人しか使ってないからなぁ」
でも、クラウド羨ましいよ。
ティナと同じ階なんだぜ?
オレだって、ティナが三階選んでるの知ってたら、上の階なんて選ばなかったし。
いつもならそう続ける軽口を飲み込むと、やけに暗い通路へと踏み出した。
「二階は人多いから余計なんじゃない?」
当たり障りのない言葉を選んで、肩越しにチラリと後ろを振り返れば、判断は間違っていなかったのかスコールの目尻が僅かに下った。
「まぁな。
昇り降りが面倒だから選んだが、みんな考えることは一緒なんだろう。
うるさくないと言えば嘘になるが、今更部屋を移るのも手間というか」
「わかるー。
オレなんて探索から帰った時毎回階段見て心底嫌になってさ、絶対部屋移動してやるって思うんだけど、結局居心地良くてそのままだもん」
「本当に嫌になったら言うといい。
オレで良ければ引っ越しの手伝いくらいはする」
「うわぁ…男前過ぎて引く」
なんだそれはと言って、ようやくまともな笑顔を見せたスコールにほんの少し安堵の息がもれる。
(名前、出すと傷付いたみたいな顔すんだよな…)
不用意に、クラウドの名前を出さなくなってどれくらい経っただろうか。
オレには相変わらず、皆と同じ不安や焦燥じみたものを共有出来る何かがなくて。
だからどれだけ日を数えて通り過ぎても、変わらずクラウドの名前を出していたし、聞かれれば答えもした。
だけど、少しずつその名前を聞かなくなって、聞かれる回数も減って、そうしてある時からやめた。
明確にこれだという大きな出来事があった訳じゃない。
ただ、広間に数人集まる機会があった時に、気付いた。
名前を出さなければ、様態も知ろうとしない。
まるで触れてはいけないことのように、誰もがその名前を出さなくなったことに、気付いてしまった。
今まではオレなりに周りを気遣って発していたことだけど、きっととか、多分とか、いつかとか、そういう根拠のない前向きな励ましの言葉に繋がるものが、余計に皆の顔を下に向けさせるのだと知ってからは、口にするのをやめた。
皆と同じ不安定な気持ちをオレは持っていないけど、かと言って無神経にも捉えられる言動をする気にはなれなかったからだ。
(なんだかなぁ…)
いつまでも取れない小骨が喉に詰まっているようで、だけどそれを取る術を知らないオレは、こうしていつまでも気持ちの悪い違和感を抱えるしかできないでいる。
「そこ、部屋だから」
奥にある一枚の扉。
最後に人が訪ねてきたのは、いつだったか。
相変わらず、人面に見える扉の前に立つと、塗装剥げの酷い戸をいつものように軽く叩いた。
「入るッスよ」
返事がないのは今更だけど、今日はオレ以外の人が居る。
返ってこない返事に、なにも思っていないと良いのだけど。
「入るからな」
癖になった二度の声がけの後、掴んだドアノブを捻り扉を押し開くと、ふわりと風が通り抜けた。
「入って大丈夫ッスよ。
椅子、その辺にあるだろ?勝手に使っても大丈夫だから」
そう言って、扉を開けたまま中に入るといつもの手順通り、持っていたトレイをベッドサイドに置き、クラウドへと視線を落とす。
(特に変わったことは……まぁ、ないか)
一時間離れても、半日離れても。
行儀よくベッドに収まったクラウドに細かな変化はみられない。
あるとすればそれ以外の外的要因だけだ。
掛かっていたはずの掛け布の僅かに捲れ、白い肩とそれ以上に白い人工的な色をした包帯が、むき出しになっていた。
「風、ちょっと強かったみたいッスね。
少しだけ窓閉めておくから」
捲れた布を引っ張り上げると、肩口までしっかり被せて傷の痕跡を隠す。
オレは気にならないけど、きっとオレ以外はそうじゃないから。
しっかりと布が掛かったのを確認し、最後に軽くクラウドの肩を叩くと、ベッドの反対側に周り、全開になった窓へと手をかけた。
ハタハタと、緩やかにはためくカーテンが顔を撫でつけくすぐったい。
本当に気持ち程度に窓を狭め振り返り、ぎょっとした。
「…どうしたんだよ、そんなとこに突っ立ってないで入ったら良いじゃん」
開けた扉の前、一歩も踏み入ることなくスコールがじっと体を固まらせている。
部屋の主の許可なく入ることに躊躇しているのか、それとも久しぶりにクラウドを見て緊張しているのか。
前者ならまぁ気持ちはわからなくもない。
オレだって初めはそうだったし、なんなら今だって看病っていう名目があっても入りづらいし。
顔の前で大きく膨らむカーテンを押さえ付けると、スコールへと向かって踏み出した。
そのはずだった。
「……本当に、意識がないんだな」
弱々しい、独り言に近い呟きで、歩くために上げた足が踵を浮かせた状態で止まる。
「まぁ…、そう、ッスね」
その不自然な足の置所が見つからず爪先で床を滑らせていると、なにかを逡巡するように部屋全体を見回したスコールが、誰に向けるでもなく数度頷いて部屋へと入ってきた。
パタンと、戸の古さに応じた軽い音が聞こえる。
部屋全体に音が行き渡り、吸収された後はただカーテンを揺らす風のノイズだけが、落ちた沈黙の中を走り抜けていた。
「…あの、」
「あの日」
入ったきり、いっこうに動かないスコールにもう一度掛けようとした言葉が遮られる。
「あの日…は、月の渓谷に続く森に、物資の補給をしに行くのが任務で…。
悪路とまではいかないが、それなりに時間のかかるルートで進んだ割には順調だったんだ」
スコールは、口数が多くない。
自分から話を振ることも少なくて、だから人の声を遮ってまで話だしたことにいつもなら驚いてしまうけど、あの発煙筒の上がった日に繋がる出来事を話そうとしているのだと気付いて、きゅっと口をつぐんだ。
オレ達より二日早く出立したスコールたちの帰りは、三日後と聞いていて、それが大幅に遅れたのは混沌側の面々と戦闘になったことが原因だというのは、もちろんオレも聞いている。
だけど、その戦闘でなにがあったのか。
どうして全員が負傷することになったのか。
なぜ、クラウド一人だけがあの場所で立っていたのか。
その細かな情報が今日まで共有されることはなかったし、実際誰かが知っていたのかどうかもわからない。
尋ねちゃいけないことなんだとオレが勝手に思い込んでいたのかもしれないし、誰も聞かなかったのかもしれない。
だけど、今スコールが話そうとしているならそれは聞くべきだし、オレだって知りたい。
だから途切れた会話の合間に二三度頷き、続きを促してみた。
「あの森は…、木々が乱雑に入り組んで見通しが悪い。
おまけに断崖の上にあって、それを仕切る物もなければ泥濘んで足場も良くない。
だから丸一日か、最悪二日がかりの作業だと踏んで日程を組んでいたが、半日もしないで終わってしまってな。
前回補給に行ったオニオンが、地図を丁寧に書き直してくれていたおかげだろうと思う。
そのまま帰還しても良かったが、せっかくだから帰りは少しだけ寄り道して戻るのも悪くないなと…そう…話していたんだ」
物資の補給や回収に向かう際は、発煙筒以外にもう一つ、簡易の地図を携帯してくことが義務付けられている。
まぁ地図って言っても、生憎この場所では世界の端から端まで記された物を渡されるなんて親切は初めからなかったから、自分達で作り上げるしか選択肢がなかった、というのが正しい。
用意されてたの、宿くらいだしね。
地図には物資までの細かい道のりと置き場所が記されていて、補給や回収の際はその地図の中に記された目印を頼りに歩いて行く。
手書きの地図なんて…と最初は思ったけど、残念ながらそれがなきゃ到底辿り着くことが出来ないことは実証済みだ。
羊皮紙で出来た地図は書きにくさこそあれど、削って使い回せるという利点あり、敵方に見付からないよう一定の期間を置いて物資を別の場所に移動させることが前提の回収と補給任務の場合、地図を簡単に上書き出来る羊皮紙は仲間内では歓迎された。
当初、追跡出来るような魔力を含む道具を使うことも検討されたけど、敵方に察知する能力の高い者たちが多くいるという意見から即却下。
紐かなにかを木々に括り付けて目印にすれば良いじゃん、なんて意見もあったし、実際オレもそっちの方が効率良さそうだと思ったけど、愚策だとウォルに一蹴されてしまってはどうしようもない。
なんとも原始的で非効率だけど、各所に隠し置いた物資がなければまともに遠征にも出られない現状では、仕方のないことだと割り切った方が色々考えなくて済む。
まぁ使いやすいのかどうかと聞かれれば、それはまた別の話になるけども。
鞣した皮の触り慣れない質感を思い出し、無意識に握った拳の中でぐにぐにと指を動かしていると、飛びかけた意識を掴まえるように、スコールの背から戸の軋む音がした。
「聖域まで戻るのに十分な日数が残っていたし、食糧の心配もない。
帰り道がてら多少寄り道したところで問題ないだろうと…。
道中フリオニールが見付けた湿地帯の近くに、珍しい薬草が群生している場所があったのを思い出して、それで、そこに行かないかと…」
背を扉にべったりとくっつけたスコールが、頭を滑らせてゆっくりと天井を見上げた。
「さっさとあの森から出るべきだった。
留まるべきじゃなかったんだ」
すぅと、鼻で大きく息を吸い込んだ長い音がオレのところにまで届くと、スコールはぎゅっと目を瞑り、形の良い唇を噛んだ。
「……数メートル先、垂れた枝の隙間から妖魔と目が合ったんだ。
だが、もうその時には何もかもが遅くて…。
つけられていたのか、それとも偶然遭遇したのかそれは今でもわからない。
さっきも言ったがあの森は木々が折り重なるように群生していて拓けた場所がないうえに、苔やシダも多いせいか地面が泥濘んでいて走って移動することが出来ない。
おまけに無数の木が覆い茂っているせいで薄暗く視界も悪い。
全員が散って逃げることも出来ないまま…その場で戦うしかなかった」
伏せた瞼が僅かに痙攣して見えるのは気の所為だろうか。
視力がいいことに、特別なにか思ったことはなかったけど、感情と連動した細かな人の表情を盗み見しているみたいで、今は少し嫌だなと思った。
「立地の悪さも戦う条件も互いに同じ。
森林戦は経験もあるし、フリオニールもクラウドも戦力として申し分ない。
人数こそ少ないが、振り切れるだろうと…。
甘かった、本当に。
まさか妖魔の後ろから猛者が突進してくるとは思っていなかった。
十数メートルはゆうに超える大木をなぎ倒しながら、仲間のはずの妖魔を巻き込んでだ、信じられるか?
…そのまま、突っ込んできた猛者にフリオニールが巻き込まれて、追い掛ける間もなく俺は死神と戦闘に縺れ込んだ。
目視出来うるだけで、数十体はイミテーションがいたと思うが、それも把握出来ていたかどうか」
言葉を途切れさせたスコールが扉から体を離すと、ゆっくりとこちらへ目を向けた。
「…他にどの敵が居るのかもわからない。
慣れているとはいえ剣を振り回せない状態では防戦一方で、クラウドの姿も見失って。
爆発と、破裂音が混ざる中、煙でさらに視界を奪われて…。
どうするか、どうしたらいいのか、安否のわからない仲間も居るし、敵の動きもわからない。
暴れて何もかも壊していく敵に、ただ防戦するしか手立てがなくて…、情けないな、森林戦になれば大規模な戦いにならないと勝手に思い込んでいた結果だこれだ。
挙げ句、状況判断に迷って、足が竦んで…、吹っ飛ばされた」
それが最後だったと。
言葉を切ったスコールの顔に長い前髪が垂れ、薄く影が差した。
「目が覚めたらベッドの上で、正直夢でも見ていたのかと思ったんだ。
あの後のことも、聖域までどう戻ったのかも、覚えていなかったしな」
笑うのか、泣くのか、判断の難しい顔をしている口元が片方だけ吊り上がり、口角が崩れている。
「治療に来たバッツから、俺とフリオニールがどういう状態なのか聞かされて…その時は頭が酷く痛んで起き上がることも難しかったが、逆にそれで現実味が増した。
俺はともかく、フリオニールは片腕を失っていてもおかしくな状況だったからな。
無事で本当に良かったと思う。
…ただ、クラウドが俺達二人を背負って聖域まで戻ってきたと聞いた時は、なんというか…何か腑に落ちなかったんだ」
「腑に、落ちない…」
オウム返しに呟いたオレに、スコールは頷くと視線をクラウドへと遣った。
「大人の足で一日半はかかる道のりだ。
あの状況で帰れるだけの体力があったこともそうだが、意識のない大の男を二人も背負って帰るなんて正気の沙汰じゃない。
どこか身を隠せる場所で救助を待っても良かったはずなんだ。
期間内に戻らなければ捜索隊が出るだろう?
フリオニールが重傷だったとはいえ、応急処置をできる程度の道具くらいは持っていたし、実際処置をした形跡はあったらしいんだ」
初耳だ。
応急処置をしてたなんて。
あんなにぼろぼろで、立っているのがやっとの状態だったのに、二人を手当なんてしたのか。
自分だって、死にかけだった癖に。
「だから俺は、勘違いをしていた。
戻ってこられたということは、少なくともクラウドだけは軽傷か無傷に等しい状態で済んだんだと、そう思い込んでいたんだ」
「…スコール」
「でも…違った。
動かず助けを待っても良かったのに、それなのに…クラウドはそれを選ばなかった。
救助を待っていられるだけの時間がないと判断したのか、もしかしたら敵の追撃があったのかもしれない。
本人に聞いたわけではないから憶測でしかないが…」
「でも…そのおかけでスコールとフリオニールが助かったんだったら、オレは…」
「…結果的にはそうかもしれない。
だが、クラウドはどうなる」
「どうって…、」
「俺達は意識が戻ってから順調に快復に向かって、少しずつ元の生活に戻ろうとしているが、クラウドはそうじゃない。
あの日、起きたことの全てを引き受けて、今も一人だけ昏睡状態だ。
どんなに普通が戻ったように見えても、クラウドだけが目を覚まさない……今、目の前にあるこの光景だけが、現実なんだ」
労りや、配慮じゃない。
クラウドへと注がれる視線の中に見えるのは、潰れそうなほどの自責の念と、取り返しのつかないことへの大きな負い目。
微かに揺れ動く眼球とめったに見ることの出来ない下がった眉からは、息苦しいほどの悔恨が伝わる。
スコールは、きっと自分のせいだと思っているんだろうか。
フリオニールとはまだ話せていないけど、もしかしたら彼もそうかもしれない。
目が覚めてから今日までの、その心の内を考えると身を切るほど辛かったんだろうと思う。
状況が、立場が、逆だったら、きっとオレだって行き場のない憤りや恨事で心が摩耗していくだろうと、そう思うのに。
理解だけが追いついて、感情だけが伴わないこれはなんなんだ。
口数の少ないスコールが、言葉に詰まりながらも必死に話して、オレに訴えているのに。
頭の隅ではどこか俯瞰で物を見るような自分がいて、感情の揺らぎがクラウドに向かない。
だって今自分の下でスヤスヤと眠る男は生きているじゃないかと。
そもそもこの男が生死の境をうろついてるなんて、どうして思うんだと。
スコールが、皆が、心を痛めているのはわかってるのに、そんな考えばかりがじわじわと隙間なく染み込んでいく。
薄情にも無関心にもなったつもりはなかったけど、目の前で痛切を見せた友の姿にすら心を動かされないとなると、いよいよ自分はどこかおかしいのかと疑いたくなる。
だから、現実味のない言葉と状況にじれったさなんて感じて、なんとか感情面だけでも擦り合せをしないと、なんて思ったのがいけなかった。
「…でも、生きてるじゃん…」
口からまろびでたのは、見たものをそのまま伝えるだけの、憂いの一つも含んでいない言葉。
何を言っていいのかわからなかったのは本当のことだけど、自分でもはっきりとわかるくらい、それは励ましより遠く、共感性に欠けた選択だった。
擦り合せなんて、とんでもない。
なぜ、信じて待とうだとか、オレも心配で堪らないんだとか、そういう言葉を選べなかったんだろうと、後悔が足先から這い上がるより早く、一点を見つめていたスコールの大きな体から揺れ、遅すぎるくらいの速度で顔が上がった。
瞬間、信じられないものを見るような灰青の目と視界が混ざる。
はたはたと、カーテンの踊る音と共に、スコールの口がはくはくと小さく動き、やがて止まった。
「…そうか」
静かに、吐息のように呟くと、スコールは預けていた背中を起こしてもう一度「そうか」と呟いた。
階段で見せた時のような、あの少し変な笑い方をして。
「…その状態を生きているというのなら、そうなんだろうな」
そのまま、その言葉だけを置いてスコールは背を向けた。
忘れかけていた消毒液の匂いが今更戻ってきて、それがスコールの声と混ざって、喉に詰まった魚の骨みたいなあの違和感がより強くなる。
「フリオニールのところへ行ってくる。
お前も…、終わったら来るといい」
ぽっかりと開いた扉に吸い込まれるように部屋を出て行くスコールに、なにか言わなくてはと思うのに。
置きざりにされた言葉が重くのしかかって、声が出て来ない。
結局、入った時よりずっと静かな音で閉められた戸からスコールの重たそうな靴が消える瞬間まで、オレは掛けるべき言葉の正解を探していた。
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