help!16
大人気ない事をしたと言われれば、確かにそうだ。
年下とはいえ、まだ子供とも呼べる相手にあんなにも腹を立てる必要など何処にもなかったはずだ。
ただ、予測外の出来事にどうしようもなく苛立ったのだ。
言うことを聞かないのはいつもの事で、約束だなんだと口煩いのにも慣れたはずだった。
だからいつものように軽くあしらえば簡単に引き下がると思ったし、そうさせる手段は自分の中でいくらでもあった。
それなのにその手段に手を出すどころか、投げ捨ててしまうくらいには我慢が出来なかったのだ。
あいつが、あの顔であんな事を言うから。
パァンと一際大きく爆ぜる音に、幾重にもぶれていた視界が焦点を取り戻す。
音の発生源を辿ればなるほど、足元でくべられていた大小の枝の山が、目視でわかるほどに崩れていた。
それと同時に焚き火の山を弄り回す為に持っていた筈の、太く頑丈な枝もいつの間にか自分の手から離れてしまい、熱塊の渦へと消え去っていた。
「…落としたか」
手持ち無沙汰にはちょうど良かった枝で、弄り回す以外に何に使うでもなかったが、手を動かしていないと浅瀬の波のように矢継ぎに折り重なる思考に、足許の焚き火を蹴飛ばしてしまいそうだった。
オニオンがクリスタルを獲得して、残るは四人。
クリスタルの獲得という漠然とした勝利条件は、残り僅かな人数になったことで現実味を増したのだろうか。
どこか曖昧でぼんやりとしていた目的が、四つという目視しうる距離となったことで形を成し、風向きがかわったように思う。
事実、ここで一気に全てを入手しようと今回の遠征を提案したのは意外にもセシルではあったが、誰もが反対はしなかったし、むしろそうすべきだと言う強い後押しの声すら上がっていた。
敵方の人数も減った今、闇雲に一人で探し回るより仲間の協力を得ながらの方が効率が良いという判断は正しい。
単独行動の多いウォルと俺が承諾するか最後まで不安だったと、セシルが常になく険しい顔で言っていたが、正直なところウォルさえ頷けば俺はどちらでも構わなかったのだ。
結局ウォルが賛成しようがしまいが、自分の戦う相手には関係ない。
どうせ放っておいても向こうから勝手にやってくる。
自分の好きな時に、気紛れに、気分次第で。
楽観視しているのではなく、対峙する度にそれを隠そうともしない相手の事をよく理解しているからこそ、躍起になってクリスタルを探すことはしなかったが、結果的に仲間に面倒を掛けることになっていては世話がない。
セシルの案に二つ返事で返した以上、腰をあげないわけにはいかないが、自ら出向いた事にあの男がいやらしくほくそ笑む姿を考えると、気が進まないのもまた事実だった。
そうして出立したのが五日前。
平地の多い経路で進む先発隊のセシル達と違い、後発の自分達は道中四ヶ所に隠し置いてある予備の物資を回収しつつ進む為、傾斜の厳しい山道や、いつ滑落してもおかしくはないような崖路が多く含まれる経路で進むことになっている。
セシル達と比べて合流地点までの距離が格段に短いという利点はあるものの、危険にはかわりない。
その為、万が一の事が起きてもいいように二日程の遅れが生じても十分間に合う予定で日程が組まれていたが、見通しが甘かったと言わざるを得ない。
初日以降、崩れかけていた空は勢いを増し、誰もがそうならないようにと祈っていた荒天にと転じた事で事態は悪化した。
その結果、土砂崩れや落石に行く手を阻まれ、降り続く雨と足元の悪さで動きが鈍り思うように前に進めない状態。
まさか最短距離になるようにと選んだ難路がこんな形で裏目に出るとは、一体誰が予想出来ただろうか。
そして追い打ちをかけるように、頬を容赦なく叩く突風と大雨に晒され洞穴へと避難したのが一昨日の晩。
悪路と悪天、おまけに終始見通しの悪い樹林に阻まれながらもなんとか進んでいた足が、とうとう止まった瞬間だった。
持ち物から衣類まで全てが濡れそぼり、火を起こす為の薪すら水分を大量に含んで役に立たない始末。
おまけに回収予定であった物資の二つが土砂崩れによる斜面崩壊に巻き込まれ、入手を断念せざるを得ない状況。
合流地点付近にある最後の物資は何としてでも回収しなければ、敵方の領域に入る頃には食糧が確保出来ず、先発隊を含めた全員が聖域に帰還することになってしまう。
それでは一体何のために、この険しい経路を使ってまで物資の回収に乗り出したのか意味がない。
そんな、計画に一頓挫をきたす状態まで追い込まれてしまっているこの状況でも、我慢に我慢を重ね、なんとか此処まで来たのだ。
せめて昨晩から根気よく向き合っていた、今のところ唯一の希望とも言えるこの焚き火くらいは絶やさず維持せねば。
何度も作った火種がようやく湿気った木材に浸透したというのに、ここで蹴散らしでもしたら申し訳が立たない。
誰も口にはしなかったが、一昨晩から続いたあの皮膚を引き剥がされるような寒さをもう一度味わうのは自分も御免だ。
意識とは別の場所で、勝手に粗相をしないように土を強く踏み締めると、まだ水分を含み湿り気のある木材を手に取り炎の中へと放り投げた。
(今日も此処で一晩過ごすしかないな)
ちらりと目を向けた洞穴の入り口からは、多少離れた場所からでも目視出来るほどの雨が吹き荒んでいる。
縦にも横にも入り交じり、巨大な音を立てながら地を打つ雨粒は昨夜よりも一層酷い有り様だ。
晴れも曇りも判別がつかないこの世界で、悪天候に見舞われることも珍しくはないが、遠征と重なり続けた今回は運が悪かったのだろう。
幸いな事と言えば、この薄暗く湿った穴を見付けられた事と怪我人が出なかったことくらいで。
勿論、敵方の襲撃が一瞬頭を過らなかったわけではないが、この雨だ。
ぬかるんで足場も視界も悪い中、わざわざ出向いて一戦交えようなどとは思わないし、それは恐らく敵方も同じだろう。
自分達に不利な立地や条件を背負ってまで攻撃を仕掛ける理由がない。
先発隊との合流地点には間に合わないかもしれないが、損はあれど特など何一つないこの状況下では互いに大人しくしておくのが賢明だ。
(明日には出立出来るといいが)
外の騒音から目を背けると、足許から細い枝を幾つか掴み手際よく折っていく。
乾いた枝ほど勢いはないが火を絶やせない今、これでも十分有難い代物だ。
地味な作業ではあるが、外へ出ている残りの仲間達がこの火を見て安堵するなら、この手間も惜しくはない。
手折り、投げて、時々突っついて。
新しく投げ入れる度に上がる僅かな火の粉に、目を細めた。
茫々と揺らぐ、濃い夕焼けのような炎。
不規則に立ち揺らぐ火の切先に、またあの緩い波が襲ってくる。
何度も何度も、重なり続けた水波紋の先。
四隅に追いやられ、積み膨らんでいく意味のない塵芥のように。
行き場のないそれらは、あの日から収まりがつかず持て余した苛立ちにとても良く似ていた。
(何を勘違いしている)
常々馬鹿な男だと思っていたが、まさかあそこまで頭のネジが飛んでいるとは思いもしなかった。
どうせまたろくでもない事を考えていたのだろう、人の周りをこそこそ嗅ぎ回っているのは承知の上で放っておいたが、案の定だ。
俺がティナに好意を寄せているなどと、自信満々に妄言を吹っ掛けてきた。
大方、俺がティナに必要以上に構っているのを見てその安っぽい結論に手を伸ばしただろうが、一体どんな勘違いがねじ曲がったらそんなことになるのか甚だ疑問だ。
確かにティナの事は好意的に見ているが、それは彼女の人となりの話で、別に自分にとって特別なことでもなんでもない。
無性に気に障る相手ではない限り誰にでも向ける、極自然な感情だ。
それでも尚、彼女に関して踏み込み過ぎる要素があるとすれば、それは単純に自分に似ていたという以外に説明の仕様がない。
強くあろうとする彼女は今でこそ、しっかりと前を向き、迷いすら受け入れてこの地に立っているが、出会った頃はそうではなかったのだ。
脆く、精神的に不安定であり、常に纏わり付く贖罪に押し潰されまいと振る舞う彼女がいつかの自分と重なってしまったから余計に。
いつだったかこの世界に漂流して間もなくの頃、今日の様に激しくはないが視界を覆うには十分な雨に晒されていた夜営の晩。
幼さの残る膝を抱えて、彼女が自分の事をぽつりとこぼしたことがあった。
外の見回りへと出た仲間が戻るまであと半刻ほど。
その仲間が戻れば、次は自分と彼女が二人一組で見回りに出る。
本来なら仮眠に充てる予定の時間だったが、彼女は眠る事はせず、ただじっと天幕に背を寄せ膝に顔を埋めていた。
他人の事には興味がない性分ではあるが、流石に出会って間もない人間を一人放置して、勝手に寝るのも気が引けた。
眠らず、かと言って世間話をする仲でもない。
ただ、天幕を打つ雨音だけが静かに転がる空間で残り少ない時間をどう過ごすか思案していた時、おもむろに顔を上げた彼女が一言、呟いた。
『罰が当たったんだと思うの』
雨に紛れた彼女の声は意外にもしっかりしていて、天幕の隙間を縫うように確かに自分の耳にも届いた。
『私、記憶がなかった事の責任から逃げたかった訳じゃないけど、ただ普通に生きてみたいって思っていたから。
……だけど、やっぱり許されなかったみたい』
一体なんの話だと、声の方へ顔を向ければいつの間にか顔を上げ此方を見ていた彼女の濃い深緑の瞳と視線がぶつかった。
『神様はちゃんと見ているんだね。
あれだけの事をして、私だけ普通に生きるなんて土台無理だったのよ。
だからこんな世界に、私はまた戦う為だけに呼ばれたんだと思うの』
分厚い膜に覆われたように、こちらを射抜く二つの緑が歪んで見える。
それは突然知らない世界に放り出された事に対する憂虞や焦躁、畏怖といった抱えきれない負の感情から滲み出たもののように思えたが、淀んだ瞳が揺らぐ様子がないことに気付き、そうではないのだとすぐに悟った。
あれは全てを諦め、もう何を手放しても良いとどこかで覚悟をした人間の目だ。
右も左もわからない。
ただ呼ばれたのなら剣を握り戦えと、有無を言わさず背を押し出された事に不安を吐露する仲間は沢山居たが、何もかも諦めることで受け入れようとした人間は、彼女ただ一人だけだったように思う。
自棄になっているのではなく、抗えない自分の末路に希望を抱き続けることが心底苦痛だと、そう言わんばかりの薄暗く何処までも落ちていきそうな。
(今思い出しても、ぞっとする)
そこに居るのは自分ではなく、年端もいかない少女なのに。
5年の空白の中、何度も見た鏡に映る自分の姿その物のようであり、記憶の奥深いところに仕舞ったはずのもの恐ろしさがじわりと、音も立てずににじり寄って来た気がしたのだ。
(…それでも、ティナはずっと強かった)
パチパチと、小気味良い小さな破裂音に耳を預けながら細く、長く、時間をたっぷりとかけてゆっくりと息を吐き出す。
記憶がないと言った彼女の過去を詮索するつもりはないし、聞いたところでそれを否定も肯定も自分には出来ない。
だが今、決然として前を向き真っ直ぐにこの先の未来を見据える彼女の姿からは、あの雨ざらしの夜の迷いはもう見受けられない。
誰よりも強く、そうしていつ崩れてもおかしくない弱さを後生大事に抱えているのに、それでも。
あのまま、全てを投げ出してしまう事も出来ただろうに、彼女はそれを選ばなかった。
もしかしたら諦める事で守られ、保たれる何かもあったかもしれない。
ただ流れる時間に身を委ね、見たくないものから目を反らし、耳を塞ぎ、そうしてあてどない膨大な恐怖を傍らに置いたまま、じっと身を潜め小さな箱の中で生きるように。
だがそれをする勇気もなく、かと言って迷いなく立ち進んでいく意気地もない。
そんなことは、記憶に振り回され続けてきた自分が一番良く知っている。
だからこそ、手放すことではなく生き続ける事で受け入れる覚悟をした、その脆さを伴った彼女の背を支えたいと思ったのだ。
ずっと昔、朧気な記憶の中に住む彼が、自分にしてくれたように。
それこそが、ティナに対して向ける感情であって色事になど成りようがない。
せめてこの世界では、誰かの役に立ちたかったと。
誰かを助けることで、自分が許されたいと。
自己満足にも近い、偽善的な気持ちのどこに恋慕の情が見えるというのか。
確かにあいつは俺の過去を知っている訳ではないが、男女が親しげにしていれば何でも色恋に繋げてしまう思考の狭さには呆れ果てる他ない。
勘違いの先によこしまな感情まで捩じ込み、それを取引の材料にしようなどと目論んだあいつに対して、最早手元には怒りしか残っていなかったように思う。
だからこそ、少々手荒ではあったが黙らせる為の手段を迷いなく選んだ。
その、つもりだった。
強めに出ればどうせいつものように自分から引き下がると、絶対的な自信があったからこそ。
(……鬱陶しい)
ぶわりと、暗がりの中に舞った火の粉が顔を目掛けて飛来したのが視界の端に映り、握り潰すように手で払う。
掴み損ねたのか、四方に散らばった小さな粒のようなそれらが指をすり抜け、胸部に吸い込まれるようにすぅっと消えた。
灯りが消えたその場所に、思い出したくもない衝撃が骨を伝って甦る。
忘れるには十分過ぎる時間が経ったというのに。
数日前の拳の重さが今もしつこくそこに残り、いつまでも繰り返し振動が走っているような気がした。
(……本当に鬱陶しい)
あんな風に反抗された事は別に良い。
今更何か思うわけじゃないし、それこそ一度や二度の事ではないからさして珍しくもない。
それなのに、胸を叩かれたあの強さが一向に消えないのは何故だ。
くすんだ髪を振り乱し、身振り手振りで聞くに耐えない言い訳を並べる姿はいつものそれで。
なにも、変わらないと思っていた。
あの碧瑠璃の瞳に滲む嫌悪の色を見るまでは、なにも。
大きく開いた目は水面のように不安定に揺れ動き、食い縛った歯の隙間からは一目で堪えているとわかるほどに震えた息が漏れていて。
そうして浴びせられた分厚い否定の言葉に、目が眩んだ。
熱湯を流し込んだように、カッと腹の底から喉奥にまで粘膜を引き剥がす程の熱が一気に駆け上がり、それが苛立ちだと理解する頃には、もう全てが遅すぎた。
気付けばあいつ腕を掴み、グローブを捨て。
大事にしていたんだと、半べそをかきながら笑っていたいつかの顔を奥歯で磨り潰すと、躊躇なく指輪をその手から奪い取った。
全くもって、大人気ない。
落ち着いて冷静に、普段と変わらず転がして遊んでおけば良かったのだ。
それなのに、あの顔を見てしまったから。
自分にだけ向けてほしいと、懇願にも似た欲求と衝動を生んだあの顔で。
「…大嫌いか」
唇の隙間からこぼれた言葉が炎の中へと落下すると、ぶわりと濃い煙が上がった。
「っ、」
咄嗟に目蓋を閉じたが間に合わなかったのだろう。
眼球に触れた煙が膜全体に広がり、針で突っつかれたような鋭い痛みが走った。
炎の灯りのせいか、閉ざした視界がぼんやりと赤で覆われる。
その、ほの赤い瞼の裏で何度も点滅を繰り返すあいつの顔。
思い出すのは、剥き出しの敵意に満ちたものばかりだった。
「苛つく、」
ざりっと、また足が地を滑る。
踏ん張っていないと、今度こそ積み上げた焚き火の山を蹴飛ばしてしまう。
ぎゅっと地面に足の底を押し付け、もう一度大きく息を吐き出した。
そうでもしなければ下腹部からうねり押し上げてくる強い苛立ちに、吐き気すらしそうだったのだ。
持ち慣れない不相応な感情に引っ掻き回されるのは、本当に不快だ。
いつもなら簡単にコントロール出来るはずなのに、何故こんなにも言うことを利かないのか。
冷静にと思えば思うほど、あいつが邪魔をする。
いつまで経っても俺の手中にある指輪にだけ向けられるあの顔が今、追い討ちの燃料になるには十分過ぎていた。
「凄い雨、前が見えないくらい」
バキッと鈍い音を立てて拳の中の枝が折れたと同時に、決して静かではなかった穴ぐらに軽い声が響き、はっと目を開ける。
いつの間にか手折ってしまっていた枝が手の中で粉々になり、小さな刺激物として皮膚を押し上げていた。
「風も凄いし、これじゃあ設置した罠はあまり期待出来ないかも・・・・あれ?二人、まだ戻っていないんだ」
二、三度瞬きを繰り返し、もう眼球の痛みがないことを確認すると、火を焚くには意味のなくなった残骸を炎の中に投げ捨てた。
「…まだだな、ティナが一番乗りだ。
寒かっただろう、火に当たると良い」
「少しだけ。
火、ついたんだね。
良かった、これでやっと温まれるね」
「湿気ってるせいで手間取ったが、なんとかな」
「ううん、有難う。
私、火起こしだけは本当に駄目で。
無理言って代わってもらっちゃって、ごめんなさい」
「構わない。
外に罠を仕掛ける方が大変だっただろう。
何か飲むか?お茶くらいならバッツが持たせてくれた葉で作れるが」
「うん、貰おうかな」
雨具代わりに着ていったであろう掛け布の水滴を叩いていたティナが、丁寧にそれを折り畳み正面に座った。
近くに置いていた日用品の入った麻袋に手を掛けようとして、その手が止まる。
「ずいぶん、濡れているな」
「顔だけよ、体はそんなに濡れていないわ」
きっぱりと否定して、ティナが両の手を擦り合わせ小さな手にはぁと息を吹き掛けた。
もともと細く色白な手が雨に打たれたせいか、血色を失いより心細く見える。
本人はあぁ言っているがこの雨だ、火を挟んだここからでもそれなりに濡れているのがわかる。
「心配性だね」
しっとりと、雨水を含んだ前髪を耳に掛けたティナがふふと笑い両手を火にかざす。
「大丈夫。
私、そんなに弱くないから。
風邪も滅多に引かないし、もしかしたらここの誰よりも丈夫なんじゃないかな」
「それは頼もしいな」
「そうでしょ?」
でも、と。
続いた言葉に顔を上げると、ティナの目がきゅっと細く曲がった。
「有難う。
クラウドがいつもそうやって気にかけてくれるから、こんな風に軽口が叩けるの」
「どうだろうな」
「本当よ?私一人だったらきっと色々考えちゃって駄目だったから」
膝に置いていた布をそっと隣の岩に預け、ティナが何か思い出したように一拍の間の後、声を上げて笑った。
穴ぐらに響く、甲高い声。
そんなに大きな声ではなかったが、岩肌に放たれた彼女の声が狭い洞穴内で繰り返し反響し、何人もの女性が一斉に笑い声をあげたかのようだった。
「ごめんね、ここに来たばかりの頃の事、思い出しちゃって。
覚えている?あの日も今日みたいに雨が振ってて」
懐かしいなぁと、呟く彼女の瞳が炎の灯りを吸い込んで橙に染まる。
じわじわと、滲み出すようにゆっくりと。
「・・・投げ出さないで良かったと思っているの」
目尻に付いた雨滴を人差し指で払う姿に、やはりあの日の面影は見当たらない。
まるで涙を拭うようなその仕草だが、ティナの顔は晴れやかだった。
「あの時、クラウドが私の背を押してくれたから、今こうしていられると思うんだ」
「・・・そうでもない、単なるお節介だ」
中途半端な形で止まっていた腕をもう少しだけ伸ばすと、口が開いたままの麻袋を引っ掴んだ。
「ティナが自分で選んで、自分で決めたに過ぎない」
引きずるように袋を寄せれば、中から金属同士のぶつかる鈍い音が上がる。
中には人数分のカップとナイフが数本、それから水の入ったボトルが数本。
日用品の道具としては少ないが、長期遠征ともなると水と食料以外の荷物は最低限に限られる。
戦闘込みだと尚更だ。
他の麻袋と違い、やや小振りの麻袋からカップを抜き取ると、炎の脇へと添えた。
「うん、そうだね。
私は自分で選んで、自分で決めたわ」
ただそうじゃなくて、と困ったようにティナが笑う。
「それをしても良いんだって、クラウドが教えてくれたから」
次にお水の入ったボトルを取り出した時、その言葉で手が止まりティナと視線が交わる。
何度も手から滑り落ち、地面に叩きつけられたボトルのへこんだ側面は、いつの間にか持つには慣れ親しんだ形になっていた。
「ありがとう。
あの日のあなたの言葉を、私はきっと忘れないわ」
「・・・さぁ、なんと言ったかな」
「良いのよ、クラウドは覚えてなくても。
私だけが覚えていれば、それで良いの」
長く鬱積していたものが取り払われたように、ティナが持つ本来の瑞々しい新緑の瞳が炎の灯りを消して、濃く輝いた。
「そうか」
「そうよ」
もう一度、きっぱりと言い放ったティナに、ふっと小さく笑い長く混ざっていた視線を逸らした。
そこに、後ろめたい気持ちはない。
彼女が健やかにあればそれで良いと、心の底からそう思っているからだ。
だが、それだけだ。
ティーダ相手のように、大きく感情が揺らがない。
突風のように振り乱れる思考も、好奇心を引っ張られる感覚も。
今、ここにはない。
「ボトル、貸してくれる?
火起こしのお礼に私が淹れるわ。
そのうちウォルとスコールも見回りから戻ってくるだろうし、二人の分も淹れちゃおうか」
手際よく準備を始めるティナが視線を落とすと、細い睫毛が長く濃い影を頬に伸ばした。
陰影のせいか、それとも僅かに上がった口角がそうさせているのか。
どこか母性を思わせる笑みに、湿った薄暗い空間が柔らかく凪ぐ。
穏やかだと思う、今この空間は。
一人で聞いている時より雨音も悪い気がしないし、なにより笑う彼女に釣られて自分の頬も確かに上がるのがわかる。
だが、あの暴力的にまで膨らんだ苛立ちは止まらない。
ティナが笑っていても、この空間が穏やかなものに感じても、また思い出せばあいつに対してぶつける憤懣は後を絶たない。
それは単純に彼女に対して、自分の感情の振り幅が狭いのだということを、俺はよく理解している。
(だったらお前は、何だ)
今外に見回りに出ている二人の仲間も同じで、ただ仲間として大切なだけ。
それ以上も以下もない。
だから彼等に憤懣をぶつけることはないし、そういった気持ちが湧くこともない。
決められたラインから決して飛び出すことがないからこそ、自分の感情が手の届く範囲でしか動かないと知っているのに、何故。
何故、お前だけは違う。
何故、他の誰かと同じ場所にいてくれない。
どうして、お前だけが。
(お前は、)
揺さぶり、散らかし、汚し。
折り目のない真っ白な紙をぐしゃぐしゃに潰されるような、皺ひとつないピンと張られたシーツを破かれるような。
そんな風に俺の中を踏み荒らし、明け透けに暴いていくお前はなんなんだ。
俺の手の届かない場所まで大きく飛び出した、お前は。
(何なんだ、ティーダ)
あの日からずっと、正体のわからない靄。
見えないことに不満はなかったはずなのに。
ずっしりと重みを増したその靄が、今は酷く心地が悪かった。
=====
戻る