落下流水
「仕様がない子ね」
美しい煙草盆に描かれた蒔絵が、開け放った障子から零れる夕陽を受けてじりじりと輝きを増している。
金色に艶やかな夕陽の赤を含んでいるその様を横目で見ては、やはり彼女に贈って正解だったと、湧水のように溢れるくすぐったさに心の奥から満たされるような気分だった。
「あんたは本当に」
盆の側面を彩る重く、しかし濃厚な色合いの紺侘助。
首から落ちる花が描かれた盆など、不吉だと言って普通の女は嫌がるかもしれないけれど。
恐ろしいくらい、彼女にはそれがとても良く似合うのだ。
短い命を長らえようと最後の花弁を散らすその瞬間まで枝にしがみ付く、そんな姿を晒すくらいならばいっそのこと、自ら首を切り落としてしまった方がずっと良い死に様だと。
なんて、贈り物なのにそんな事を考えて選んだ俺もどうかと思うけれど。
深淵に身を投じるその最後の瞬間までも潔く、しかし凛とした彼女の姿に紺侘助が重なってしまったのだからどうしようもない。
嫌味ではなく、本当に良く似合うのだ。
「仕様がない子」
女にしては少々低い、しかし艶のあるしっとりとした声音が窘める様に再度同じ言葉を呟いた。
その声に下鼓を打ちながら障子窓に寄り掛かっていた体を少し起こすと、頬を舐めていた温い風に混じって白粉の香りが鼻先を掠める。
実に、嫌な匂いだ。
「ごめんってば」
「それはさっきも聞いたわ。
私が聞きたいのはそんな言葉じゃないのよ、わかるでしょう?」
緩やかな弧を描いた口許から煙管が離れると、彼女の声と共に紫煙が天井目掛けて昇った。
「来るなら来るで一報入れなさいって、いつも言ってるでしょう。
何の為に伝書の鷹をあんたに預けていると思ってるの。
おかげで十夜も毎晩熱心に通って顔合わせを望んでいたお客さん、振る破目になったのよ」
灰吹きの縁に当てられた雁首がカンっと高い音を立て、その口から塊と化した灰がほろりと転がり落ちる。
それが一瞬、首から切り離される様と重なり、ずいぶんと機嫌の悪かった腹の虫が唸り声にも似た笑声をあげた気がして、堪らずにたりと笑いそうになった口角を袖口で覆うと、頭上を仰いで紫煙の行方を追い掛ける振りを一つ、した。
「十夜だって百夜だって、関係ないじゃないッスか。
どうせ、顔合わせもする気がない癖に。
自分の元に足しげく通った挙げ句、身代を潰していく様を見るのが楽しいだけなんじゃないッスか?」
「ずいぶんな言い様ね。
私は其処まで底意地の悪い女じゃないわ。
人を毒婦みたいに言うのはやめてちょうだい」
「だって、本当の事じゃないッスか」
ふよふよと、目的もわからないまま天井の隅を漂い、薄らと木目に吸い込まれ霧散してく紫煙を一通り眺めた後、視線だけを彼女の方へと向ければどこか少し、不機嫌そうに眉根を寄せて此方を睨んでいた。
「じゃあなに?
また張り見世にでも出て、あの白粉臭い下品な紅殻格子の中で客を呼んでいればあんたは満足するのかしらね」
「太夫の癖にそんな事、」
「別に私はそれでも構わないのよ」
ゆらりと流された彼女の視線が、化粧台の横に置かれた鮮やかな金魚の方へと流れる。
その視線の緩やかさが、決して彼女が嫌味で言っているのではないと長い付き合いの中で俺はよく知っていた。
だからこそ、そんなとんでもない事を口走らせてしまったのだと気付いて、慌てて頭を正面に戻し居ずまいを正すと髪が乱れるのも構わず首を振った。力の限り、全力で。
だって、彼女はやると言ったら本当にやってのけてしまうのだ。
「ごめん」
「なに?」
「ごめんってば。
言い過ぎたッス」
「それだけ?」
「・・・半分、奴当たり・・・かも」
「・・・知ってるわ」
いそいそと正座をし、頭を掻いて、意味もなく畳の目を数えて、そうして迷って顔を上げて彼女を見れば新しく刻み煙草を詰める彼女が、此処へ来て初めて俺の方を見て笑ってくれた。
ただそれだけの事だったけれど、嬉しくて。
消化不良のようにいつまでも図太く腹底で胡坐を掻いていた見えない苛立ちが、微かだけれど確かに緩和されたような気がした。
そしてそう思うのと同時に、やっぱり彼女でなければ自分は駄目なのだと一時の安息に暖かな息が零れる。
他の誰でもない、彼女だからこそ。
「どうせまた、あのお侍様二人の事でしょう?」
「はは・・・まぁ・・・」
「あんたが此処へ来る時はいつもそうじゃない」
そんな事ないんだと。
貴女の顔が見たくて会いに足を運んでいるんだと。
堂々と言ってのけれたら良いのだけれど。
生憎、今のところ彼女の元へ転がり込んでいる理由の大半がそのお侍様二人の事だから言い訳の仕様もない。
「全く、何度やれば気が済むのあんたは」
「うん、わかってるんだけどさ」
窘められるのは仕方ない。
自分の都合だけでふらりとやってきては、二人の目から隠れるように彼女の懐に忍び込み、またふらりと帰っていく。
それを彼女が快く思ってなかったとしても、やっぱり仕方ないのだ。
数十里、あるいは数百、数千里。
彼女との物理的な距離があったとしても、俺はやっぱり会いに行ってしまうのを止められない。
山の一つや二つ、小石同然に飛び越えて行けるくらいに。
そこまでしてでも、彼女に会わなければ均衡が保てなくなってしまうのだから。
無害な人間の皮を被って、無害な人間を手に掛ける。
そうして何も知らない旅仲間に向かって、また無害な弱い人間である事を見せ続ける。
何処に行こうとも変わらない、変われない、忍としての惨めな性。
以前ならこんな風に思う事もなかったし、きっとあったとしても鼻で笑い飛ばしたか一時の感傷に浸るだけで良かったはずなのだ。
それが出来なくなってしまったのは、完全にあの侍二人に出会ってしまってからで。
俺の心の中の一番大事な、決して揺るがない忍として生きる為に守って来た物が全部持って行かれそうになる。
二人と居ると、時折そんな波を感じる事があって。
どれだけ気付かない振りをしても、どれだけ見ない様にしても。
薄暗い影の様に、ひたりひたりと確実に距離を詰めてくるそれに耐えられず、怖くて俺は逃げ出すのだ。
今日、この時のように。
何かから追われる様に、必死に逃げるのだ。
間違っていないのだと、正しかったのだと、そう思わせてくれる彼女の元へ。
「ごめん」
「謝るくらいなら、もう此処へは来ないでちょうだい」
火の点いた煙管から口を離した瞬間、彼女の頭上に挿さる豪奢な簪がしゃらんと音を上げた。
それに呼応するように、水槽の中を泳ぐ金魚が水を跳ねさせ喜ぶ。
主人の事が余程好いているようだけれど、長く薄い尾を纏い泳ぐ金魚の所為で、後ろに活けてある椿が滲んで歪んでしまっていてとても不愉快だ。
尾鰭で叩くように、何度も椿の前を行き来する金魚から目を離すと俺は深く項垂れ、もう一度謝罪を口にした。
「本当に、仕様のない子」
煙を吐き出したのか、それとも溜息を吐いたのか。
俯く俺にはわからないけれど。
「いらっしゃいな」
一寸の間の後、続いた彼女の声に均衡の取れなくなっていたあの大事な部分をきゅっと掴まれた気がした。
「聞こえているの?」
「・・・うん」
「ほら、」
優しくあやす様な声に引っ張られる様に顔を上げれば、手を差し出した彼女がその平を見せるように伸ばしていた。
「うん」
俺と言えば、まるで童心にでも返ったように同じ返事しか繰り返し出来なくて。
膝立ちになると、畳を擦って彼女の元へと擦り寄った。
行儀が悪くたって構うもんか。
「ルー、」
「なに?」
「ルールー」
「なによ」
呼べば返ってくるその声がまた嬉しくて。
俺は近付いた彼女の膝に頭を乗せて寝そべると、彼女の纏う黒地の着物を強く握った。
「もう、花魁辞めても良いんじゃないッスか?」
厚い着物の生地からでもわかる彼女の肌の柔らかさ。
既に死んでしまった母の事など、もう覚えてはいないけれど。
懐かしさの感じるそれに張っていた気が、帯を解くように緩んでいく。
「駄目よ。
待ち人が居るの、知っているでしょう」
「どうしても?」
「駄目」
「そっか」
後三年もすれば、彼女は遊郭から退く身だ。
二十五明けまでの数年間誰とも床入りせず、自身に惚れ込んだ男共から搾取し貯め込んだ小銭で優雅な余生を送るのだと、他の遊女達が囁き合っているのを知っているのだろうか。
身請けの約束をしたっきり、死んでしまった男に操を立てているなんて事、他の遊女が知らなくて当然だけれど。
彼女辞めたいと一言言ってくれれば、俺は一緒に里に戻ったって良いのに。
あの二人を、クラウドとスコールを捨ててでも戻れるのに。
「離れたくなる理由に、私を遣うのはいい加減やめなさい」
腐って落ちていきそうな思考を叱咤するように、彼女の長く細い指が俺の横髪をそっと梳いた。
その流れる感触に一瞬うっとりとして、覗き込む彼女の顔を見上げてみれば思いの外優しい顔をしていたから、嬉しくてまた「ごめん」と呟いてしまった。
怒られるのは勿論、覚悟の上だったけれど。
「楽しいんでしょう?一緒に居ると」
「うん」
同じ侍で、何だか空気も似ているけれど全く性質の異なる二人。
初めこそ、どうやって接してどうやって見て良いのか。
そもそも侍の考えなど理解出来ないのだから、遠巻きに見ていた節はあったけれど。
今はとても好きなのだ。
暖かな二人の傍は、日向よりも居心地が良くて。
陰の中で生きる俺にも砂糖菓子のような濃密で肌触りの良い空間をくれる。
だけど、それを受ければ受ける程、俺の背中に寄り添って来る業は膨らみ嗤うのだ。
決して、相容れはしないのだと。
忍である事を忘れるなと言う様に。
忘れれば、それを奪うぞと囁くように。
ゆっくりと、日陰で育つ湿った植物のように、固く根を伸ばしていく。
だからそれを振り切るには、逃げ出すしか今は方法がない。
「楽しいんだ、凄く。
・・・だから、時々それが嫌になって。
見たくなくて、二人を殺してやりたくなる時がある」
「そう」
「終わりがあるって、俺は知ってるから余計に」
今頃、二人はどうしているだろうか。
勝手に宿から飛び出して、きっと怒っているかもしれない。
こうして逃げ出すのは何も初めての事じゃあないけれど。
戻った時の事を考えると、少しだけ億劫だ。
宿から飛び出した時は、もう二度と二人のところには戻らないと覚悟をしたのに。
(戻りたいから、ルーのところに行くんスかね俺)
絡まった蔓のような思考が鬱陶しい。
善悪など考えず、人の心など考えずに生きるのが好きなのだ。
余計な事に遣う頭など持ち合わせていないのだから。
それでも殺したくはないと思う。
大事にしたいと思う。
こんな風に定まらない感情は持て余してしまうから、怖い。
「でも」
髪を梳き続ける彼女に指に酔いながら、ふらふらと水槽の中で揺れ踊る金魚を目で追っていれば一匹が水槽の壁に衝突した。
「終わりがあるって知っているからこそ、私もあんたも生きていけるのよ」
「・・・そうッスか」
「そうよ。
・・・だって、選べるでしょう?
終わりを待つか、自ら終わらせるか。
私とあんたはそれを選ぶ事が出来るから、生きていけるの。
たった二つだけれど、選択肢がある事を喜ばないでどうするのよ」
「・・・選択肢、か」
「忍ぶ道に用意されているものなんて、それしかないんだから」
「そっか」
「でもね、終焉まではその選択肢を忘れて生きても良いのよ、ティーダ」
「・・・うん」
髪を梳く彼女の手を上からそっと握ると、衝突を繰り返していた金魚がふらりと水中の中で落下した。
美しい尾鰭を揺らし、遅すぎる速度で緩やかに。
「・・・あら、終わりが見えなかったのね・・・あの子」
可愛がっていたのに。
と、囁いた彼女の声と共に水槽の裏側の椿の首がぼたりと落ちた。
「限られた空間を、自由と勘違いしたんじゃないッスか」
「そうかもしれないわね」
きゅっと、握るルールーの手に少し力を籠めれば同じだけの強さで返ってきた。
それが嬉しかったから、彼女の方へ向こうと思ったけれど。
開けた障子窓から差し込む日差しが強すぎて、目を細めるだけで精一杯だった。
残念だ、今きっと彼女は凄く優しい顔で笑っているだろうにそれを見れないなんて。
「さぁ、少し休みなさい。
ずっと走りっぱなしで来たんでしょう?」
「うん」
「起きたら膳の用意でもさせるから」
「ありがとう、ルー」
「食べたらお戻り。
大門までは見送れないから、一人で帰るのよ」
「一人で?」
「そうよ」
「大門まで来てくれないんスか?」
「甘えないで。
出来ないものは出来ないのよ」
「どうしても?」
「駄目」
「駄目かー・・・」
「その代わり、帰るまで膝は貸しておいてあげる」
ふふっと、彼女にしては珍しい笑い方に、俺もつられてクスクスと笑った。
(戻ったら二人になんて言い訳しようか)
茶菓子でも買って、御免って笑ったら許してくれるかな。
(早く二人に会いたい)
落下した金魚を弔う様に寄り添った椿。
もし、そう遠くない未来でいつか、俺が同じ様に落ちてしまった時がきたとしたら。
あの椿の様に首を落として寄り添ってくれる人は、彼女が良い。
クラウドやスコールでなく。
ルールーであって欲しい。
彼女もいつか選ばなければならない選択肢の為の死に場所を探しているのだと知っているから。
きっと、笑って頷いてくれるだろう。
(紺侘助、やっぱり贈って良かった)
薄れていく視界の中。
落ちた黒色の椿だけがいつまでも鮮明に、瞼に焼き付いていた。
いつか来る、俺と彼女の行く末の様に。
いつまでも、いつまでも。
赤く、鮮やかな色だけを残して。
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どうか、最後の時は。
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