わる日









「待つ」という行為を長く続ければ、己を見失ってしまいそうだった。

其処に身を置き、ただ只管に「待つ」という空間の中、独りじっと息を潜める。
その空間の中は酷く寒く、空気も悪い。
長く居座っていると知らぬ間に手の平に汗が滲み、視線が定まらなくなり泳ぎだす。
狭い部屋の中、じわりじわりと足許から広がっていく見えない不安や恐怖は次第に肥え太り、最後は膨張し過ぎて手の付けられなくなった風船の様に、室内に根を張っては俺を押し潰そうとしていた。



「待つ」という行為はそれだけで、緩やかに死に向かっていくようだった。
















「今日は何書こうか」

狭い部屋でただ一つだけ、外の景色を映す薄いガラス窓に向かって呟いた。

四角い透明なそこから見える景色は、流れる雲すらも取りこんで消してしまいそうな程の白に染まっている。
それは昨日、一昨日、そのもっとずっと前から何一つ代わり映えのしないつまらない日常の一部として、俺の記憶と眼球に確りと形を残していた。
テーブルの横に置かれた椅子を窓際まで引き摺り、そのつまらない景色と向かい合う様に越しを下ろしている自分の行動も、やはりつまらない日常の中の一つ。

何か違う事があるとすれば、椅子の上で立てた両膝の間で、外の白んだ景色とは異なる白の紙が隙間風に揺られて乾いた音を立てているくらいだろうか。

「何が良いかな」

のったりと体重を預けた椅子の背もたれが少し軋む。
お世辞にも新品とは言い難く、どちらかと言えば以前に持ち主が居た様な使い古された家具だ。
あまり後ろに仰け反り過ぎると、弱そうな背凭れがいつかぽっきりと折れてしまいそうな気がして、体を預ける時はいつも少しだけ慎重になった。

「昨日は何も書けなかったッスからね」

膝の上で広がる皺のない白色の用紙を、ペンの尻ですぅっと撫でて俺はまた、白み切った窓の外へと視線を遣った。




始まりも、切っ掛けも、これと言ってあった訳じゃない。
この世界に降り立ち、硬い地面を踏みしめた時から、此処でもやらなくてはいけない事なのだと、義務感にも似た気持ちがずっと息衝いていただけなのだ。
それは、幼少の頃より記憶の中にというよりも手先に染みついてしまった願掛けやまじないの様なもの。


何処へ出して良いのかわからない人への手紙。
毎日、毎日、それを書く事。


宛名はわかる。
良く知っている。
わからないのは、何処へ出して良いのかだ。
ザナルカンドに居た頃、まだ今よりもずっとずっと鼻を垂らしている様なガキの頃からそれはわからなくて。
だから別に、この戦う事以外の一切を受け入れない世界で手紙が出せない事を苦に思った事は無い。
例えば手紙を投函する場所があったとしても、住まいがわからないのだからどうしようもない。

昔から後見人を語っていた癖に、行く先も何も告げずにふらふらと何処かへ行ってしまう男だったのだから。

そんな男の背を何度も見送り、迎え入れ。
気付けば、男に宛てて、男の居ない間、男の帰りを「待つ」その期間にささやかな手紙を書く事が日課になっていた。
それを願掛けやまじないの類だと自分で思っているのは、男に向かって手紙を書く間だけは喧騒の波間を漂うに気持ちが凪いでいたし、「待つ」時間に手紙を書く事で男との繋がりを保てていた。

何よりも、書いた手紙が積り、大切に保管していた木箱一杯になる頃に男はふらりと戻って来ると何時から知っていたからだ。

だから、寂しくなどなかった。

自分が身を置いているこの知らない世界に投げ出されたと知った時も。
見知らぬ土地や、知らない顔に対する憂慮はあったけれど、それでも手紙の事を思い出したら寂しくなど、なかった。

故郷を想い、かつて連れ添った仲間を想い。
時に憂い、時に哀しみ、時に俯くこの世界で知り合った仲間達には悪いけれど。

自分だけは違うのだと、いつか来る迎えを想っては手紙を書いた。

「会いたいって、書くのも何だかな」

窓の外で風の流れに飲み込まれる様に水浅葱の浮遊物が漂うのをぼんやりと見つめ、ペンの尻を前歯で軽く噛んだ。
カリリ、カリリと、擦る様に何度も。
子供の頃からの悪い癖だ。
行儀が悪いから止めろと、あの男はきっと言うのだろうけど。
本人の前で手紙なんて書かないのだから、そもそも知らないかもしれない。

そんな事を考えて、一人小さく含んだ様に笑うと膝上の手紙にトンっとペン先を置いた。










それから幾日も、幾日も。
俺は手紙を書き続けた。

「今日は暖かいです」とだけ書かれた短い手紙。
「今日は沢山戦って」から始まるとても長い手紙。
たまに、何を書こうか散々悩んだ挙句、何も書けずにペン先の染みだけが残ってしまった手紙。
それらを、宝物のように小さな木箱に仕舞い続け、眠りに就いた。


寂しくなど、なかった。
怖くなど、なかった。


むしろ想い続ける何かがあり、毎日それを想って書き綴り「待つ」俺は幸せなのだと。
この先に必ず待っている、自分だけに来るであろう幸せを想っては食い続けた。


その筈だった。
変わらずに、男が来るまで俺はそんな気持ちのまま恐ろしい速度で過ぎ去って行く毎日を過ごしていくつもりだったんだ。













***







「ティーダ、最近落ち着かないね」

どうしたの、と。
囁きながら白い手が伸び、俺の頭を一撫でしていく。
頭皮にじんわりと沁み込んでくるセシルの暖かな体温に、一瞬うっとりと目を細めると緩く首を振った。

「そんな事ないッスよ」

「そう?」

「うん」

「じゃあ雨の所為にでもしておこうか」

ふふっと目尻に僅かな皺を寄せて笑うセシルにとは裏腹に、俺の内側は冷え切り腐り落ちてしまいそうだった。
それはセシルが淹れてくれた湯気の上がる茶を何度啜っても変わらずに、冷たさだけを増しているようで。

「恵みの雨に失礼だぞ」

窓の外で降り続く雨に紛れて、憮然とした声がセシルと俺の間に割って入ってくる。
向かいの広いソファーを一人で陣取り、声を挟んできた本人であるスコールがずずっと茶を啜った。

「恵みの雨でも、連日続けば気が滅入ってしまうよ。
現に僕は、そろそろお日様が恋しいんだ」

「次はいつ降るかわからないんだ、貯水の事を考えればどうという事はないだろう。
水不足になって乾きに飢え苦しみたいなら、話しは別だがな」

「スコール、そういう言い方しない」

子を窘めるようなセシルの言葉に、スコールは少しだけ眉を寄せるとそっぽを向いてしまった。
そんなスコールの姿を見て、またセシルがふふっと笑っては俺の髪を撫でる。

窓の外の激しい景色とは違って、此処は実に穏やかな空間だ。
拗ねているスコールも、飽きずに俺の頭を撫で続けるセシルも。

このいつからか作られた穏やかな空間の中に溶け込み、受け止め、そうして泳いでいる。
でもきっとそれは、スコールやセシルだけに限った事じゃない。

俺以外の皆はそうなのだ。

ただそれを妬ましく思った事はないし、そんな手軽な安寧に身を寄せれる程、俺は此処に何も期待はしていない。


だって俺には迎えに来てくれる人がいるのだ。
あの日、スタジアムから俺を攫って行ったように。
必ず、来てくれるのだ。


(だから、こんな気持ちにならなくて良いんだ)


怖い事など何もない。
寂しい事など何もない。

そう信じているのに、信じて疑わず待ち続けているのに。
何処から変わってしまったのか。
いつから、おかしくなったのか。
毎日同じ事を繰り返していただけなのに。

あんなに希望に満ち溢れ楽しかった「待つ」という行為が、酷く怖いものへと変貌してしまっていた。

セシルが言った落ち着きのなさは、きっとそこからボロボロと剥がれ零れ落ちている今までになかった強い不安。
一体、いつからそんな風に感じ始めたのかわからないけれど。

何か予兆めいたものはあったのだ。
あの男の事を想って綴った手紙を仕舞う度、待つ事を幸せに感じて喜んでいたのに。
いつの間にか自分の知らないところで仲間達は、戦いだけが全ての、このどうしようもない世界を優しく受け止め、向き合っていた。
それを視界の端に捉える度、言い様のない焦慮がいつもべったりと体に纏わりついて離れてくれなくて。
まるで、石でも飲み込んだかの様に苦しくなる時があったのだ。

それでも関係ないのだと、自分には待つべき人が居るのだからこれで良いのだと。
先へ先へと進んでいく仲間達の姿から目を逸らし、部屋に篭っては手紙を書く事で、決して他の仲間には得られない一人だけの幸福を味わっていた。


そんな生活を長らく続けていたある日。
小さな木箱に収まりきらなくなりだした紙切れを見てしまった途端、それはやってきたのだ。
目には決して見えない、色も形も匂いさえもない。


「待つ」という事への途方もない恐怖心。


確かにそれは俺の内側から落ち、そうして日増しに膨れ上がり、気が付いた今では手が付けられない程深く根を張ってしまっていた。

後、一体何度手紙を書けば良いのだろうか。
木箱はもう一杯になってしまって、嵩張った紙が蓋を押し上げてしまう程に育ってしまっている。
男は必ず、木箱が一杯になる前に俺の元へと戻って来ていたのだ。
だったら一杯になってしまった今、一体次はどうすれば良いのか。


書く事を止めてしまったら、あの男は迎えに来ないかもしれないのに。


次第に増えていく白紙の紙を、それでも木箱に捻じ込んでは、朝が来る事を拒む様にベッドの中で蹲り部屋中に広がる恐怖から身を守った。

「雨があがったら、聖域その少し先まで散歩に行こうかティーダ。
雨上がりの草木は艶があって綺麗なんだよ」

降りしきる雨を見つめ、セシルが何かを思い出すように柔らかな笑みを落とした。

「ここの雨の匂いはちょっと青臭くて埃っぽいから嫌がる人もいるけれど、少しは気も落ち着くと思うんだ」

知らない世界なのに。
これっぽっちも知らない世界なのに。

セシルは愛おしげに、戦うだけの世界を優しく語った。
それは男の迎えばかりを信じていた俺にはわからない事で。
俺以外の皆はもうとっくにこの世界の何かを知ってしまっているような気がした。

それを俺が今から知る事は、きっと出来ない。

知ろうにも、あまりにも時間が経ち過ぎていて。
誰の元へも行けず、恐怖心だけを引き摺って一人此処に取り残されてしまっていた。

「・・・ごめん、俺」

「ん?」

「部屋・・・戻るよ」

暖かなセシルの手から逃げるように立ち上がると、自分の立ち位置が曖昧に見え眩暈がした。

「大丈夫?僕、部屋まで付いて行こうか?」

僅かに首を傾げたセシルに、俺は首を横に振る事でその姿から視線を逸らした。

「平気ッスよ。
少し、休みたいだけだから」

「そう・・・じゃあ後で起こしに行くね」

その言葉に返事は返さず、ふらりと歩を進めた。
あの、恐怖の蔓延した部屋に向かう為に。


(どうしたら良いんスか)


箱が一杯にならなければ、無感動に幸せだけを食べ続けられていた。
あの男の事だけ考えて、此処で生きて行けた。


仲間の事など、これっぽちも考えずに。


「ティーダ」

ふと、スコールの横を通り過ぎた時。
足を止めるには十分過ぎる程の制止を含んだ声が掛った。

「落し物だ」

組んでいた腕が解かれ、ぬっと黒い腕が伸ばされる。
髪色から上着、グローブまで黒で塗りつぶされているスコールの指に、見慣れない白がくっ付いていた。

黒い指に挟まれたそれは真っ白な紙切れで。

「・・・、」

黒色の中、くっきりと浮かぶその白い紙切れを捉えた途端、呼吸をする事が困難になった。
ただ、意味もなく口をぱくぱくとさせては、あの詰まった石を飲み込む様に何度も激しく喉を動かす。


いつかは、こんな日が。
そう、いつかはこんな日が。


篭る自分とは反対に、見知らぬ世界を受け入れた仲間の背中を見てしまったあの時から。


こんな日がいつかはやってくるのだと。


「・・・俺のじゃ、ない・・・っ」

震え、裏返った声でそう吐き捨てると、取り零してしまっていた白い紙切れを振り切って部屋から飛び出した。










廊下で、階段で、何度も足を取られそうになりながらも無我夢中で部屋まで走る。
ダンッ、ダンッと、不規則な音が踏みしめた硬い床から何度も聞こえて、しかしそれよりも大きな自分の鼓動が恐ろしい早さで鳴っているのが怖くて、耳を塞ぎたくなった。

縺れる足で部屋前まで来ると、勢い任せにドアノブを引っ張り、扉が壊れるのではないかというくらいの勢いでその口を閉じた。

走った所為か、少しだけ痛む脇腹。
そこに手をやり、よろよろとベッドの方へと向かうと座りこんで大きく息を吐いた。
ぶるぶると、痙攣するように震えている手をベッドの下に突っ込み掴んだ物をそのまま引き摺り出すと、喉元に詰まった石がより大きくなった様な気にさせられる。

「・・・なんで、」

引き摺り出した小さな木箱は、蓋が取れてしまい中から無数の紙が零れ出していた。


どれも毎日欠かさず、大事に認めた物。

迎えに来ると信じて、あの人に送った手紙。


「早く来てよ」

零れ、落ちたその手紙を必死に両手が掻き集めても、次から次へと逃げるように腕の中から転げ落ちていく。

「早く・・・、」

戻ってくると、迎えに来ると。
そう言っていつも出掛けていたじゃないか。

だから俺は、毎日手紙を書けていたのに。

「は、ゃ・・・早、く」

こんなどうしようもない世界に来ても、アンタの帰りを待っているのに。
アンタだけが支えで、アンタさえ居ればそれで良かったのに。

「・・・う・・・っ、」

瞼の裏が焼ける様に痛む。
じくじくと、眼球にまで広がる痛みに一層強く目を瞑った。


本当は、わかっていたのだ。
この世界に放り出された時から。
傍にいない男をどれだけ待っていようと、自分の元へ戻って来ない事くらいわかっていたんだ。

それでも諦められなかった。
だからこそ仲間の事も、この世界の事情も全部捨てて待つ事だけを選んだ。
待っているだけではどうしようもないと、頭のどこかで知っていても。
待つ以外、あの男を想う方法がなかった。

部屋に満ちた不安も恐怖も最初からそこに転がっていただけ。
育ててしまったのは俺自身。

太っていくそれらを無視して、世界を無視して。
だけども変わっていく仲間の姿が、いつかそれら全てを俺に現実として突き付けるのだと知っていて。

それでも止められなかった。
この世界が、仲間が。
俺からアンタまで取り上げて良い理由にはならないと。

でも、もう木箱はいっぱいになってしまった。
俺の手紙は何処にも収まりきらない。


溢れてしまった水を元に戻す方法など、何処にも存在しないのだ。


「ア・・・、ロン・・・」

彼の居ない世界で、それでもまた明日から一つずつ積み上げて生きて行くしかない。

「アーロン・・・っ」

わぁわぁと、窓を叩き付けるように雨が降り注ぐ。
掻き集め、皺苦茶になった手紙を抱き締めて。

俺は体を二つに折り曲げると、雨音よりも大きな声をあげて泣いた。









それは、この世界に来て72日目、71回の手紙を書き終えた日の事。
緩やかに死へと進んでいた「待つ」が、終わった日だった。







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72回目の手紙は、もう。



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