時鳥 鳴くや五月のあやめ草
あやめも知らぬ恋をするかな
ああ、もう生きられないと、思った。
悔しさも悲しみも怒りも、負の感情が不思議と湧き上がって来なくて。
ただ、愛しいと。
濡れ羽色に包まれていることが。
意識を蝕んでゆく闇よりも、深くて優しい色。
大好きな、大好きな色に。
遠退く意識の中で、願う。
もしも。
もしも、また出会えたなら‥‥。
大好きだと言いたい。
人前でも気にすることなく。
ずっと、四郎の傍に。
「‥‥で‥‥公式ね」
耳を傾ければ、何処かで呼んでる声がする。
あまり感情の籠もってないように聞こえるその声は、だけどよくよく聞いてると微かに感情が入っている。
『楓』
あの声が私の名を呼ぶ、その刹那の響きが好きだった。
彼を好きだと心が認めるよりずっと前から、この耳は想いを自覚していたのかもしれない。
呼ばれるだけで、不思議と心が少し軽くなる。
そんな魔法を秘めていたのだから。
「もう──聞いてるの、花音!」
「えっ‥‥」
ぱちん、と視界が弾ける音がして我に返る。
さして広くない部屋にはベッドがあり、アイボリーのベッドカバーと同系色のカーテン。
テキストとノートが広がっている木目調のローテーブル。
‥‥ああ、私の部屋だ。
たった一瞬前の淡い光が消え、そこはもう『現実』の景色が広がっていた。
「あ、ごめんカヤ。続きお願い」
手から滑り落ちそうだったボールペンを持ち直し、慌てて笑みを浮かべる。
すると心配そうな表情を浮かべた幼馴染が、隣から私の顔を覗き込む。
そうだった。
授業の遅れを少しでも埋めようと、カヤに教えて貰っていたのに。
「今日はこの辺にしとこうよ。花音も疲れてるみたいだしさ」
「私は大丈夫だって。家でゴロゴロしてるだけなんだし」
退院してもなかなか体調が良くならず、学校も休みがちだった。
このままでは出席日数が危ないからと何とか通える日は通い、後の単位分は特例として課題とテストをこなす事で貰えるようになった。本当に有り難いと思う。
「花音はそれでいいんだってば。やっと元気になったのに、また倒れてどうすんのよ」
きっぱり言って、カヤが教科書を閉じた。
私の体調を慮って「今日はここまでね」と私の筆記用具まで片付けてから、自分の家に帰っていった。
ぽつんと取り残された私は、仕方なしにベッドに転がり眼を閉じる。
今度こそ、今度こそ。
あの色を夢に見られればいいのに。
‥‥‥そう願い始めて、時間だけが過ぎていた。
『楓!──楓っ!!』
苦しそうに叫ぶ声が消えて。
代わりに浮上するかのように聞こえたのは、ピッ、ピッ、と正しくリズムを刻む音。
「先生」を呼べと指示する声。バタバタと慌しく走るような、複数人の足音。
次に嗅覚が、消毒薬独特のツンとした匂いを嗅ぎ取った。
眼を開ければ真っ白な世界と、蛍光灯の眩しい光。
夜闇と燭の明かりに慣れていた眼には、刺激がきつい。
「あ‥‥ぁ、‥っ」
ここは何処か。
問おうとしたけれど、喉が張り付いて声にならない。
まるで長い間、発声を放置していたかのように。
焦る私に気付いた看護師さんが、子供をあやすように笑いかけてくれた。
「もうすぐ先生が来られますからね、藤崎花音さん」
藤崎、花音
ああそうか、それは私の名前だ。
呼ばれた瞬間、いろんなことを悟ってしまった。
───帰ってきたのだと。
眼を瞑る。
もう一度、戻りたくて眼をきつく瞑る。
此処が現実で、私の居場所だったのに。
そうしないと、心が絶望に染まりそうで。
夢だったのかもしれないと、何処かで納得しそうな自分に絶望しそうで。
診察を終えた頃、息を切らして駆けつけた両親が泣きながら震える手で抱きしめてくれて、ようやくこれが『現実』なのだと認めた。
戻りたい、と思うのが間違っている。
『此処』に、戻ってきたのだから。
死んでしまうのかと、思ったのは覚えてる。
四郎の腕の感触もリアルで、それが切なさと微かな幸福を覚えたことも、覚えてる。
あれは夢じゃない。
夢なんかじゃなく、私は確かにあの時代にいたのに。
あの時代で死んでしまった筈なのに。
どうして、私は此処にいるのだろう。
どう考えても分からないまま、時間だけが過ぎてゆく。
一月後退院した私へ、「記念になるでしょ」とカヤが見せてくれた地方新聞に、つい苦笑してしまった。
それは、私が目覚めた翌日の朝刊。
地方欄の片隅に、私の『現実』が簡潔に記されていた。
暑い盛りの夏の日、駅前のロータリーで脇見運転をしていたトラックに撥ねられ重体だった女子高生が、半年振りに意識が戻ったと。
‥‥‥意識なんて、ほんとうは迷子になっているのに。
心はまだ、遠い場所に置き去りのまま。
一月経った今も、抜け殻だけが此処にいる。
あの声を。
呼ばれることのなくなった名を。
求めて、焦がれて、探している。
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