四郎は私が望んでこの時代に来たことを知らない。
今の言葉だって、純粋に私の為を思って言ってくれている。
私が心細いのだと心配してくれている。
とてもとても優しい人だから、そんな事は分かっているのに。
だけど苦しい。
拒絶されたようで、苦しい。
「嫌だよ、四郎」
でも‥‥‥馬鹿だ、私。
まだ何も言ってないのに。
四郎の言葉にショックを受ける前に、言うべき言葉があるじゃない。
「私は四郎と、ずっと」
「‥‥って、あんたが消えてから散々考えたんだけど、やめた」
「え?」
四郎の右手が伸びて、私の手を掴んだ。
「楓の幸せなんて俺は知らない」
口調とは温度の違った、切ない瞳が私を射抜く。
この瞳。
何処かで見た覚えが‥‥。
ああそうだ、熱を出した四郎と初めてキスをした時の眼と同じなんだ。
「えっと‥‥今のどういう意味?」
「は?分からないの?」
四郎が、物凄く眼を見開いた。
元の世界に戻るのが幸せなら、幸せになんてなる必要がない。
帰らなくていい。
そんな意味に聞こえたけど。
でも私の勘違いじゃないかと、思ったんだから仕方ないじゃない。
「分からないって言うか、確かめたい?ね、教えてよ」
「‥‥忘れた」
「忘れてないでしょ!」
「俺は忙しいの。だからどうでもいい事は忘れると決めてるんだよ」
「どうでもいいって、もう‥‥‥相変わらず素直じゃないんだから。じゃぁいいよ、都合よく受け取るから」
「はいはい、好きにすれば?」
好きにするよ。
だって、四郎の顔が燭の明かりよりも、赤い。
手だっていつの間にか繋いでるの、気付いてないのかな。
明日にはまた、四郎の気持ちに悶々と悩むかもしれない。
だけど今は幸せを噛み締めている。
このまますぐにでも、ぐっすりと眠れそうだ。
現に瞼が落ちてきている。
‥‥‥いつの間にか私は船を漕いでいたらしい。
背中に浮遊感を覚えて眼を開けば、背中に冷たい布の感触。
それから、四郎のくすくす笑う小さな声。
「いきなり寝るから驚いた」
「‥‥ん」
身体は夜具の上に横たわっている。
頭を滑る温もりが気持ちいい。
「ゆっくり寝なよ、楓」
「‥ん‥四郎、は‥?」
「俺も戻って寝る」
優しい手が額から離れるのが悲しくて、夢中で掴んだ。
「楓?」
「離れていかないで」
「あのさ‥‥‥自分が何言ってるか、分かってるの?」
四郎が溜息混じりに告げるから、掴んだ手を引き寄せた。
「分かってる。一緒に寝ようって言ってるの」
「‥‥‥‥は」
ぴしっと石の如く固まる気配がして、思わず微笑む。
緊張するなんておかしいの、四郎のくせに。
「だめ?」
心底不本意だと言わんばかりの盛大な溜息とは裏腹に、夜具の中に潜り込んで私の背中を包む腕はとても暖かい。
「四郎、あったかい」
「あんたが冷えてるんだよ。手足冷たいし年寄りと変わらないんじゃない?」
「女は冷え性なんです。大人の女性は皆こうなのよ」
「‥‥大人の女?何処に」
「あら四郎ってば眼でも悪いのね、可哀相」
とんとんとあやすようにリズムを取る、背中の手。
耳の近くで掠れる笑い声も。
見た目と違ってしっかりと堅い胸も。
四郎の匂いも。
ずっと、ずっと。
「ね、聞いていい?」
「何?」
「‥‥どうして、花音って呼ばないの?」
「‥‥‥‥」
眠りに落ちる直前、一つ疑問に思ったことを問いかけてみる。
舘の山に戻ってから、四郎は私の本当の名を呼ばない。
暫く沈黙が訪れ漸く四郎が重たい口を開いたのは、私の意識が夢を紡ぎ始めた頃で。
「あんたは、──‥‥‥、‥‥‥から」
遠くでぼやけた声が聞こえた気がするのに、内容が落ちてこない。
ごめん、聞こえない。
‥‥その答えを再び尋ねる前に、睡魔に襲われた。
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