新しき年の始の初春の
今日ふる雪のいや重け吉事
平泉にもお正月がやってくる。
一面銀世界の年越しなんて生まれて初めてで、気分が浮ついていた。
衣川館の隅々を散歩して回っていたのはほんの数分前までで。
「あのね四郎、オオツゴモリって何?」
四郎の部屋に入るなりそう口にした私を振り返ると、暫くして「‥‥ああ」と気怠そうに頷いた。
「楓は知らないの?」
「えっと、前に聞いた事があるような気はするけど‥‥」
ふうん、とどうでも良さそうに頷く四郎は、私の事情を何となく察しているらしい。
今までもこの時代の人なら知ってて当然なことを何度も尋ねているけれど、知らない私を馬鹿にしたり、不審に思う様子は決してなかったから。
こんな時、さり気なく優しい人だとしみじみと思う。
‥‥‥態度は素っ気無いけれど。
「今すれ違った女房さんがね、今日はオオツゴモリですからあまり出歩かないで下さい、って言ってた」
「‥‥‥あんた、渡廊を走ってたのか」
「えっ?」
思い切り呆れたと顔に書いて四郎が尋ねてはじめて、墓穴を掘ってしまった事に気付く。
「あ‥‥あはは」
「へぇ。三郎兄上が、あんなに言い聞かせたのにね」
「ううっ‥‥ごめんなさい」
美形に見下ろされるのも心臓に悪いけれど、座った位置から上目遣いで見つめられるのもかなり迫力はある。
この四郎に対して素直に謝ってしまうほどには。
「俺は別にいいけど。ただ、平泉は大鳥城じゃないんだ。何処に人の目があるか分からないから、極力一人で出歩かない方がいい」
「‥‥‥私なら、陰で何を言われても気にしないのに」
「俺は兎も角、兄上は気にするんだろ?あんた一応女だし」
「一応って何よ。ちゃんと女です」
例の如く四郎の言葉に呆れながら、三郎くんの心配そうな眼差しを思い出した。
うん、心配してくれているもんね。
私が此処の人にうまく溶け込める為にと気を配ってくれているのは伝わったから、今度から気をつけよう。
‥‥今更な気も凄くするけれど、主に御曹司への態度辺りで。
「うん、三郎くんに心配掛けたくないもんね。次から気をつけるよ」
「そうしたら?それから、話は戻るけど」
「そうそう!オオツゴモリ」
「の前に、寒いから閉めてよ」
私の背後を指差して、四郎は眉間を顰めた。
外から来た私は気付かなかったけれど、寒風が室内に入り込んで冷えてきたに違いない。
慌てて戸を閉めてから、薄着で文机の前に座っている四郎の隣に腰を降ろした。
「ごめんね、いつも急に来て」
「今更だろ」
四郎が鼻で笑った。
確かにその通りだけど、そんなにはっきり言われると見も蓋もない。
「そ、そりゃ今更だけど‥‥‥頼れるの四郎しかいないの」
「‥‥‥っ」
「でも迷惑だったら言ってね」
「‥‥‥」
四郎は何も応えない。
不思議に思って隣から顔を覗き込むと、今度は横に背けた。
「四郎‥何か私、怒らせちゃった?」
「‥‥‥人の気も知らないで」
「え?ごめん聞こえなかった。何?」
「別に。あんたはあんただなって思っただけ」
「えーと‥‥?」
今度はは溜息と、意味不明な言葉。
そうして文机から書き付け途中な報告書だかの紙を床に退けると、新しい紙を文鎮の下に敷いた。
それから、言葉少なに筆を墨に浸す。
「‥‥こう書くんだよ」
相変わらず惚れ惚れするほどの達筆だ。
「あれ?これ、大晦日だ」
「オオミソカ?ふうん、あんたの国はそう読むのか」
「国って言うか‥‥‥あ、うん。私の国ではそうだよ。一年最後の日って意味は一緒だよね」
「ああ。晦日は『月隠り』とも書く」
「なるほどー。オオツゴモリは『大月隠り』とも書くんだね!これなら意味が分かりやすい」
紙の余白に再び四郎が書いてくれた『月隠り』という漢字に、大の字を足した。
普段流れる字を書く四郎が、草書体が読めない私の為に記す文字は読みやすい。
見ているだけで、小さな優しさに胸がほっこりと暖まった。
「分かった?大晦日の今日は室内で大人しく心身を潔斎する日だ。女房でもないのに歩き回るのは以ての外。ましてや走るなんて、兄上が聞いたら卒倒するだろ?」
「はい、以後気をつけます。それから、いつも色々と教えてくれてありがとう」
「‥‥別に。あんたの世話ぐらい片手間で済むし。その代わり俺だけにしといて」
「う、うん?質問出来るのは四郎だけってさっき言った通りなんだけど」
首を傾げると、四郎はふと笑った。
外で見せる隙のない笑顔じゃなくて、悪戯に弧を描く口元。
四郎には絶対に内緒だけれど、私は彼の素を出した笑顔が好き。
「それもだけど。他の男の部屋に行くなよ」
「う、ん。‥‥‥っ!?」
にやりと、今度は四郎の瞳まで煌く。
何だか物凄く意味深な言葉に聞こえたんだけれど、それって‥‥‥。
まさかね、ないない。
うん、ない。相手は四郎だよ?
頭では分かりながらも、思わず頬に熱が集まるのを感じる。
赤くなったであろう顔を見られたくなくて俯いた私は、「さっきの仕返し」とか小さな呟き声は聞き取れなかった。
胸に芽生えていた想いに気付くのは、もう少し後のこと。
「ねえ四郎、明けましておめでとう!」
「は?」
「私のいた国では、新年を迎えた日にこう言うんだよ。新しい一年に願いを込めて、おめでとうって言うの」
「‥‥‥ふうん。じゃあ、『明けましておめでとう』」
「ふふ、よろしいです」
嬉しくて、にこにこと笑いながら握った四郎の手が振り払われない事が、また嬉しくて。
あれはまだ、穏やかな日々を送っていた───平泉の正月のこと。
新年の始めに降り積もる雪のように
今年も良い事が重なりますように
(大伴家持・万葉集4540)
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