八章 上


〜八章・じゃあ、行くね 上〜

週明けの月曜日。閉室時間を少し過ぎた頃、俺は拓人先輩と、図書室を訪れた。
部屋は、寂しげな暗い夕日に染まっていた。
カウンターの中は空っぽで、閲覧コーナーに人影はない。耳をすますと、キーボードをたたくカチャカチャ……という音が、かすかに聞こえた。
部屋の片隅にあるパソコンコーナーへ行ってみる。
すると緑川が、夕日を頬に浴びて、慣れた様子でキーを叩いていた。
長い髪で隠れて、表情がよくわからない。
「緑川……」
そっと声を掛けると、キーを叩く手を止め、俺たちの方を見た。
その顔はとても静かで、落ち着いていた。俺たちが会いに来ることを予測していたようだった。
「玲名さんは、どこにいるんだ?あんたは、知っているだろ?」
「三分、待って」
緑川は低い声で呟き、またキーを叩きはじめ、最後にエンターキーを押した。
そうして、パソコンの電源を落として立ち上がった。
「ちょっと遠いけど、いいかな」

電車を降りたところで、メールを打つ。そこからだいぶ歩いて辿り着いたのは、人気のない草むらに立つ古い工場だった。今は閉鎖され、使われていないのだと、緑川が背中を向けたまま淡々と説明する。俺はそこでまた、メールを打った。
雑草が生い茂る敷地には、俺たちの背丈ほどのクリスマスツリーが一本だけあり、月の光に照らされていた。

―あんたは今、どこにいるんだ。
―クリスマスツリーの中。そこが私の家。

携帯での会話を思い出し、軋むような切なさが、胸の奥に広がってゆく。
緑川はツリーの前で立ち止まると、草の上にかがみ込み、そこに投げ出された電源にパチリとスイッチを入れた。すると、ツリーに飾られた星や、教会や、天使の羽根が、明るく輝いた。
「その下に…玲名さんが眠っているんだな」
拓人先輩が、哀しみのにじむ声で呟く。
緑川は俯いたまま、乾いた声で答えた。
「玲名さんはクリスマスツリーが好きだった。俺がここへツリーを運んできたときも、とてもはしゃいでた。この飾りは全部、玲名さんがつけたんだ」
クリスマスツリーに住みたいと言っていた玲名さんの望みを、緑川は、最後に叶えてあげたのだろう。
淡々と語る彼の声は、学校にいるときの低い声とも、ホールで聞いた圧倒的な高音とも、電話で話したときの凛とした少女の声とも違い、女性のアルトに近い、中世的な不思議な声だった。
一体、いくつの声を、彼は持っているのだろう。
夕べ、自宅のパソコンで、昔、パリで"天使"と呼ばれていた少年のことを調べた。
年齢、出生、経歴、すべてが謎に包まれた、東洋人の少年は、数年前、教会の合唱団で歌っていたところをスカウトされ、たちまち人気者になった。
輝くような声で奏でられる讃美歌は、神聖な響きに満ち、人々を天上の楽園へ誘う天使のようであると、誰もが賞賛し、心酔した。
変声期を過ぎても高く透明なその声に、聴衆はただただ驚嘆し、天使は男装の少女ではないかと噂する人もいた。

無性の天使――。

いつか彼は、そう呼ばれるようになった。
霧野先輩が話していたのは、ヒロト先生ではなく、緑川のことだったのだ。きっとわざと紛らわしい言い方をしたんだろう。芸術の世界は、ときどきとんでもない化け物を生み出すと、霧野先輩は言っていた。天使は、まさにそんな存在だった。
男性でありながら、生まれながらに女性の声域を持つ歌い手をソプラニスタと呼び、裏声を使い女性の声域を出す男性歌手をカウンターテナーと呼び、少年期のソプラノを保つため去勢を施した男性歌手を、カストラートと呼ぶ。
天使が、果たしてどれであったのかは、わからない。
けれど彼は、俺たちの前で奇跡のような歌声を響かせ、玲名さんの声を模写することまで、してのけた。
よく聞けば、その声は玲名さんの声とは違っていたと、あとで狩屋が言っていた。
話す速度や、ちょっとした癖をうまくつかんでいたこと、それにあの場の雰囲気が、まるで玲名さん自身が話しているように、錯覚させたのだと思うと。
俺が路地裏で聞いた何人もの笑い声、きっとあれも、彼の悪戯だったのだろう。
一年前の華々しい活動ののち、コンサートで自殺者を出し、天使は人々の前から忽然と姿を消した。
天使の歌は、人を死へ導く破滅の歌―。そんな風評が流れ、天使の名は穢れた。
それでも、その歌声をききたいと願う人たちは多かったが、天使が舞台に戻ることはなかった。やはりあれは少女だったのだという人も、熱狂的なファンに連れ去られたのだという人も、遅れてきた変声期が、その澄んだ歌声を奪ったのだという人もいた。
真実は、数年を経た今も明かされていない。
今、俺たちの前で、孤独な眼差しでクリスマスツリーを見つめる彼は、平凡な中学二年生の少年とは別人のように、幻想的な雰囲気を漂わせている。
本当は何歳なのだろう…。俯いた横顔は意外なほど整っていて、少年のようにも少女のようにも、大人のようにも子供のようにも見えた。
時を超えた、無性にして、無垢なるもの―そう、まるで天使のような…。
「ここで、いつも玲名さんとレッスンをしていたんだ」
感情を押し殺した、硬い厳しい声で、緑川が語る。
「…はじめは、関わるつもりはなかったんだ」
まるで自分自身に腹を立てているように、小さく舌打ちする。
出会った夜、玲名さんは、ヒールが片方折れたサンダルに、破れた服という出で立ちで、右の頬を赤く腫らし、この場所で泣きながら歌っていた。
ひどい客にあたったようで、車から放り出されたらしい。
哀しみに飲み込まれまいとするように、明るく幸せな歌を歌いながら、堪えきれず声をつまらせ、頬にこぼれる涙を、手の甲で幾度もぬぐいながら歌い続ける少女を、はじめは隠れて見ていた。けれど、彼女がいつまでも歌うのをやめないので、声を掛けずにいられなかったのだと。

『そんな風に歌っちゃダメだよ。それじゃ喉が、いかれちゃう』

草の香りのたちこめる夏。
月明かりに照らされて、不意に現れた彼を見て、玲名さんはひどく驚いた顔をしていたという。
途切れた歌を、彼が続けて歌うと、玲名さんは目を見張って聞き入った。
そうして、自分も彼の声にあわせて、歌いはじめたのだった。
時折、彼が玲名さんに短いアドバイスをしながら、二人の合唱はずいぶん長い時間続いた。玲名さんの声は、彼の声に引き上げられるようにして、どんどん伸びてゆき、輝くような笑みが、玲名さんの顔いっぱいに広がった。
人前で歌うことを封印してきた彼は、誰かと声を合わせて歌うことなど、本当に久しぶりだったのだ。自分の声が、別の誰かの声と重なり合い一つに溶け合ってゆくのが、嬉しくて楽しくて、いつまでも歌っていたい気分だった。
朝が来ると、彼は玲名さんに服を用意し、名前を告げることも、約束することもなく去った。
他人と交流を持つつもりは彼にはなかったし、なんの期待もしたくなかった。
なのに玲名さんは、次の夜も、また次の夜も、その次の夜も、彼のもとへやってきて、レッスンをしてほしいと頼んだのだ。
彼が名前を教えないと、『じゃあ、"天使"と呼ぶからいい。"オペラ座の怪人"の、音楽の天使のことだ。それが嫌なら名前を教えてほしい』と、笑いながら言った。
彼は意地を張って名乗らすにいたので、"天使"が彼の名前になった。
そう呼ばれるのは苦痛でしかなかったはずなのに、玲名さんに澄んだ声で『天使』と呼ばれるのは、心地がよかった。
根負けした彼の指導を受け、玲名さんの声はどんどん変わっていった。技術的な面よりも、心が解放されたことが大きかったのかもしれない。
歌っているとき、玲名さんはいつも楽しそうで、生き生きしていた。
玲名さんは、彼にいろんな話をした。
家族の狩屋のこと、恋人のヒロト先生のこと、好きな本のこと、将来の夢のこと――楽しいことばかりではなく、辛いことも、すべて彼に打ち明け、
『私は、道を踏み外してしまったのだろうか。いつかすべてを失ってしまうのか』
と、寂しそうに呟き、
『けど、仕方ない。お日様園を再建して、みんなの…マサキの帰る家を取り戻したかった。私は、私にできることをするしかなかったから。…そう、仕方ない。今は歌えるだけで幸せ』
そう言って、笑っていた。
『ヒロトや、マサキを騙してるのは辛いが、昼間の私は、これまでとなにも変わらない元の私なのだと、思っていたいんだ。夜のことは全部悪い夢で、目が覚めているときの私が、本当の私なんだと』
そう言ったあとで、急に哀しそうな顔になり、
『けど最近は、夜の私が本当の私で、昼間の私が幻想じゃないかという気がするときがある』
と、呟いた。
「俺は、歌うことをやめた人間だけど…玲名さんは、本当に歌が好きだった。とてもいい人で、才能もあったから、自分みたいに闇に身を潜めて、人から隠れて暮らすような生き方はしてほしくなかった。日の当たる場所で成功してほしかったんだ」
クリスマスツリーに灯るほのかな明かりを見つめ、玲名さんとの思い出を、静かに語り続ける緑川の声にも、横顔にも、大切なものを失ってしまった人間の哀しみと孤独がにじんでいる。
長い間、一人でいた緑川にとって、玲名さんは光とぬくもりをもたらしてくれた人だったのかもしれない。
そう、闇の中で、一本だけ輝く小さなクリスマスツリーのように。
玲名さんは、緑川の希望だったのではないか。
二人がここで、どんな時間を過ごしたのか。どんな話をしたのか。それを想像すると、どうしようもなく胸が震え、まぶたと喉が焼けるように熱くなり、ひりひりと痛んだ。
拓人先輩も、俺と同じ想いを感じているのだろう。目に涙を溜め、哀しそうに唇を結んでいる。
玲名さんが、異様なほど歌にのめり込むきっかけになったのは、お日様園がなくなったという悲報だった。過酷な現実を忘れようとするように、玲名さんは歌い、同時に、成功を強く求めるようになったという。
副理事長を脅し、発表会で主役を勝ち取り、稽古に明け暮れた。祖先の姫の怨みをはらそうとするトゥーランドットを演じる玲名さんは、まるで自分に苦しみを与えた世界に対して絶叫しているように見え、緑川は不安だった。
そんな中、悲劇は起きたのだ。
「…あの夜、玲名さんはぼろぼろに傷ついて、ここへ現れた。首に、絞められたあとが紫に浮き上がっていて、頭にも怪我をしていた。客とトラブルがあったとした、玲名さん話さなかったし、はじめは元気そうに見えた。けれど、だんだん様子がおかしくなって…翌朝、息を引き取ったんだよ」
拓人先輩が、憂いを含んだ眼差しで緑川を見つめ、呟く。
「それでお前は、玲名さんの客達に、ウルビダの名前で、チケットを送ったのか?そうやって、あの場所へ犯人を導いたんだな」
「…そんなことしなくても、玲名さんの態度から…だいたい予想は、ついていたんだ」
緑川の声が掠れ、痛みに堪えるように、手をぎゅっと握りしめた。
「玲名さんが、誰かを庇うとしたら、あいつしか考えられなかったから…」
唇を噛み、じっと空を睨んでいる緑川を見て、胸が裂けそうになる。
玲名さんの遺体をツリーの下に隠した緑川は、ヒロト先生の周辺を、細かく調べはじめた。先生の動向を見守りながら、込み上げてくる疑惑を、そっと幾度も否定したのだろう。どうか犯人は別の人間であって欲しいと、必死に願ったのだろう。
なによりも玲名さんのために、ヒロト先生が犯人とは信じたくはなかったのだろう。
しかし、彼の望みは、叶わなかった。
玲名さんは、最愛の人の手で殺されたのだ。そして、恋人を庇ったまま死んでいった。
「玲名さんは亡くなった後も指輪を離さなかったから、俺は玲名さんの手首を切り落として、無理矢理、指輪を取り上げたんだ。復讐の誓いのために…」
感情を表に出すまいと、緑川は必死に堪えているようだった。
拓人先輩が、優しい声で尋ねる。
「玲名さんの携帯から、マサキにメールを送り続けていたのは、マサキに、心配をかけたくなかったからだな」
表情を見られまいとするように、緑川が顔をそむける。
「急に連絡が途絶えて、マサキが玲名さんの部屋に訪ねてきたら困るから…」
後ろで、かさりと草を踏む音がした。
多分、狩屋だ。俺が送ったメールを読んだのだろう。駅から遠いから、タクシーを使うよう打っておいた。
今日、狩屋は熱を出して学校を休んだのだ。昼休みに電話をすると、ごめんなさいと謝っていた。熱も引いたから、明日はちゃんと登校するからと。
そっと振り返ると、建物の陰に、息を切らし頬を高潮させた狩屋が、泣きそうな目をして立っていた。
緑川は、気づかずに話を続けている。
「あのとき、マサキがヒロトの方へ歩き出していなかったら―玲名さんの指輪をして、ヒロトが涙をこぼしていなかったら―きっと、ヒロトの喉を切り裂いて殺してた。そんなこと玲名さんは望んでないとわかっていても、やっていたと思う。マサキが…とめてくれた」
あのときの真っ暗な絶望を、どうにもならない閉塞感を、俺もまた、灼けるような痛みとともに思い出す。
決して、わかりあうことのない、永遠の平行線。
傷つけあうためだけに、ぶつけあう言葉の礫。
あの絶望的な状況を覆したのは、狩屋のまっすぐな想いだった。

『マサキを、巻き込むな』
『剣城、あなたはマサキだけを見てればいい』

緑川が唇を噛みしめ、俯く。
玲名さんが大切にしていた家族を、彼もまた、守りたかったのだろう。
玲名さんのフリをし、電話をかけてきたのも、俺に厳しくあたったのも、狩屋を心配していたから…。きっと俺が頼りなく見え、苛立っていたのだろう。
緑川が、ぎこちなく視線をあげ、不器用そうな硬い眼差しで、俺を見る。
「…偽善者って言ったの、悪かったよ。…マサキを支えてくれて、ありがとう」
その言葉に、胸が震えた。
「支えてもらったのは、俺のほうだ」
張りつめていた瞳が、少しだけ気弱になり、寂しそうな影が浮かぶ。
今のは別れの挨拶だったのだろうかと気づき、俺はハッとした。
「あんたは、このあとどうするんだ?」
緑川がまた急に厳しい顔になり、視線をすっとそらす。
「どこか別の場所へ行くよ。今までもずっと、そうやって旅を続けてきたから」
「学校は?」
「辞める。あそこにいたのは"契約"を結んでいたからなんだ。それも終わったから」
拓人先輩が尋ねる。
「契約って…霧野とか?」
「触らぬ神に祟りなし。それは答えられないよ」
毅然と言い捨てる彼が、いろんなことを諦め、絶望しているような気がし、胸が締め付けられ、俺は言った。
「どうして行かなければならないんだ?ここにいてはいけないのか?あんたは自由なんだろ?だったら、この場所で、これまでどおり暮らせるだろ?」
「無理だよ…。俺のマネージメントをしていた養父母が、今も俺を必死に捜させてる。まだ俺に、商品価値があると思ってるんだろうね。ひとつの場所に、長くとどまるのは、危険すぎる」
「なら、ずっと隠れながら生きていくのか?もう、みんなの前で歌わないのか?」
ツリーの灯りに淡く照らされた孤独な横顔を、泣きそうな気持ちで、見つめる。

彼は、俺に似ていた。

輝かしい賞賛の中にありながら、突然に人々の前から姿を消した、少女の声を持つ少年。
一冊のベストセラーを出版して書くことをやめた、少女の名を持つ小説家だった俺。
まるで自分の姿を見るようで、切なくなる。
緑川は顔を上げ、暗く哀しそうな目で俺を見た。
「白は、二冊目を書くと思う?」
心臓を突かれたようだった。
俺は、二度と、小説は書かない。
作家にだけは、絶対にならない。
二年前、泣きながらそう誓った。
何故、緑川が俺の秘密を知っているのかは、わからない。もしかすると、俺のことも調べたのかもしれない。
だが、俺が胸に抱いている共感を、あんたも感じてくれていたのだろうか。
俺たちは似ていると。
だから逆に、俺に問いかけたんだろう。白は二作目を書くかと。
俺が答えられないことを、きっと彼はわかっていたのだろう。
そして、それが自分の答えだと、伝えたかったのだろう。

天使は、もう、歌わない。






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