七章 上


〜七章・暗い、暗い、土の中 上〜

「なんでいるんですか。業者テストはどうしたんですか」
内心うろたえる俺に、拓人先輩はほんのり頬を染め、ぽそぽそ言い訳した。
「すまない。どうしても気になってしまって…途中で、抜け出して来てしまった」
一瞬、目眩がした。受験生でE判定の分際で、なにをやってんだ!
拓人先輩が右手を開く。すると、青い花びらが、はらはらとこぼれ落ちた。
「この花びらを辿ってきたら、剣城たちがいたんだ」
ヒロト先生も、狩屋も、あっけにとられている。
瞳子さんが立ち上がり、拓人先輩を睨んだ。
「…っ!誰なのっ、あなた?」
拓人先輩が堂々と胸をそらし、きっぱりと答える。
「俺は、ご覧のとおりの"文学少年"だ」
その自己紹介は、瞳子さんの理解の範疇を越えていたのだろう。目を丸くし、口を半開きにし、絶句してしまう。
狭い部屋の中に、白々とした空気が流れた。
立ち尽くす瞳子さんが、ようやく我に返り、顔をしかめ、喘ぐように声を絞り出す。
「あなた、今、ファントムが知っていると言ったわね。どういうこと?この子は誰なの?」
ぼろぼろの衣装をまとった仮面の少年は、はだけた胸を隠すこともなく、しどけなく床にしゃがみこんでいた。
そうだ、彼は一体、誰なんだ。
戸惑う俺達に、拓人先輩は悠然と告げる。
「それを説明するのは、少しばかりやっかいだ。八神玲名という少女をめぐるこの物語は、さまざまな感情や思惑が絡み合い、本筋が見えにくくなっているから。
だが、どうやら舞台には代わりの人が上がったようだから、彼が、あそこへ戻る必要はなくなったな。時間はたっぷりあるので、俺は文学少年らしく、この物語を読み解いてゆこうと思う」

不思議な力が、俺達のいるこの空間を支配しているようだった。

水のように澄んだ声で語り始める拓人先輩を、瞳子さんが、ヒロト先生が、狩屋が、息をのんで見つめる。
「この事件は、ガストン=ルルーの『オペラ座の怪人』を思わせる状況ではじまる。
ルルーは一八六八年生まれのフランス人で、法律家や新聞記者として活躍したあと、三十代で作家に転進し、密室推理の名作といわれる『黄色い部屋の謎』などの作品を、次々発表していったんだ。同じ頃、フランスにはアルセーヌ・ルパンシリーズのモーリス=ルブランがおり、ルルーは彼と並び称される人気作家だったんだ。
そんなルルーが、一九一○年に発表したのが、オペラ座の地下に住む仮面の男と、彼の暗い熱情に巻き込まれてゆく人々の姿を描いた『Le Fantome de l'Opera』―『オペラ座の怪人』だ。
玲名さんはこの物語が好きで、"音楽の天使"に会いたいと、以前から話していたな。
そうして、ヒロインのクリスチーヌのように、さる人物に秘密のレッスンを受け、歌姫としての才能を開花させたんだ。
一方で玲名さんには、クリスチーヌの恋人である、ラウル的な立場の男性の影もいた。
その人の名前や素性を、玲名さんは家族同然の存在であるマサキにも最後まで存在すら明かさなかった。
何故そうしたのか?それは、彼が同年代、同学年の人物でなく、秘密にしなくては迷惑がかかってしまう人物であったであり、マサキと何らかの関わりがあるからだ」
聡明な瞳が、まっすぐにヒロト先生を見つめる。
「それから導き出される彼の正体は教師であり、なにかしろマサキにも何かしろ関わりのある人物であるということだ。いくら別の学校でも、教師と高校生の恋愛が噂になれば、彼に迷惑がかかると思ったんだろう。ここにいる男性教師は、ヒロト先生――あなたしかいません。それに、あなたもお日様園出身者でしょう。マサキとの関係もある意味で深い。
つまり、あなたが玲名さんのラウルなんです」
空気が、冷たく張りつめる。
ヒロト先生は、玲名さんの天使ではなく、恋人だったのだ!
瞳子さんは目を見開き、愕然としており、狩屋は真っ青な顔で震えている。
ヒロト先生が苛立たしげに目を光らせ、言った。その声にいつもの柔らかさはなく、口調もぞんざいだった。
「確かに―きみの言うとおり、八神玲名とつきあっていたよ。けど最近はあっていないし、向こうも連絡してこない。他に好きな男でもできたんじゃないかな?例えば玲名がレッスンを受けていた"天使"とか―。たまに会っても、玲名は、その話ばかりだった」
黒々とした不安が、胸をじわじわと締め上げる。
何故、先生はこんなに冷ややかな目で、恋人のことを語っているのだ。まるで憎むべきもの、抱きすべきものを語るように。
音楽準備室で、俺達に優しく笑いかけてくれた先生と、まるで別人ではないか!
拓人先輩が、問いかける。
「だから先生は、天使に嫉妬したんですか?ラウルが、クリスチーヌと音楽の天使の結びつきに不安を覚え、激しく身を焦がしたように……。
玲名さんが、恋人らしき人物から夜のバイトを辞めるように言われて悩んでいたことや、彼から頻繁に電話がかかってきたことは、マサキが証言しています。
先生は、玲名さんが天使に惹かれてゆくのが、心配でたまらなかったんじゃないんですか?彼女が自分の前で、別の人のことを語るのが、許せなかったのではないんですか?」
「いい加減にしてくれっ!憶測でものを言うのはよしてもらおうか!」
空気を裂くような鋭い叫びに、俺は、びくっと震えた。
ヒロト先生は、殺したそうな目で、拓人先輩を睨みつけていた。その視線を真っ向から受け止め、拓人先輩が、先生に負けないくらい強い声で言い返す。
「ああ、俺はただの"文学少年"だ!警察でも探偵でもなく、俺が語ることは、全部"想像"にすぎない。しかし、玲名さんが失踪したあとの先生の行動は、不自然に思うんです。それほど執着していた恋人が、突然いなくなってしまったのに、何故、表立って彼女を捜すことをしないのか?何故、マサキに資料の整理を頼んだのか?何故、発表会のチケットをわざと見せたりしたのか?
それに、一年生の女の子とホテルへ行ったことも、彼女を置いて先に帰ってしまったことも、なにかを捜すように、部屋の中を歩き回っていたことも、テーブルをじっと睨みつけていたことも――」
あの一年生のことを、拓人先輩が口にした途端、先生の顔に衝撃が走るのを、俺は見た。
拓人先輩が、執拗に問いかける。
「先生は、どうしても部屋に行って、確かめなければならないことが、あったんじゃないんですか?失踪した日、玲名さんは急なバイトが入って出掛けなければならないと、マサキにメールを送ったそうです。そのバイトは、お金をもらって男性とおつきあいをすること―援助交際でした。
先生は、玲名さんの浮気を疑って監視するうちに、玲名さんの秘密を知ってしまったのではないんですか?そして、あの日ホテルで、お客さんとして玲名さんと会い、玲名さんのラウルであったあなたは、嫉妬と怒りからファントムに変貌し、玲名さんの頭をテーブルに叩きつけた」


「違うっ!」

ヒロト先生の声が、拓人先輩の言葉を断ち切る。先生の顔はゆがみ、手足はぶるぶると震え、血走った目の中で、混乱と激情がめまぐるしく交錯していた。
闇が――闇が、空気の色を変えてゆく。
「あれは、玲名が勝手に倒れたんだっ!俺が歌をやめるように言っても、玲名はきかなかった。あんな卑しい真似までして、どうして音楽なんか続ける必要がある!
なのに玲名は泣きながら、もう自分には歌しかないと答えたんだ。天使が待ってるからレッスンに行かなければと言って、俺に背中を向けて、部屋から出て行こうとしたんだ!」
俺は愕然としていた。
先生は自分がなにを叫んだのか、気づいていないようだった。理性のタガが外れたように、わめき続ける。
「俺はカッとして、玲名の首を絞めた。そうやってもみあっているうちに、玲名が足を滑らせて、テーブルの端で頭を打ってしまったんだ。玲名は血を流し、床に倒れたまま、動かなくなった。俺は驚いて、玲名を残してホテルを飛び出したんだ」
ガシャンという音がして、瞳子さんの手からハサミが落ちた。瞳子さんは叫びをこらえるように、両手を口にあてている。
狩屋も真っ青な顔で、棚の端にしがみついている。
俺も信じられなかったし、信じたくなかった。ヒロト先生が、玲名さんに、そんなことをしたなど!
混乱する俺達の目のまで、ヒロト先生は変貌を続ける。仮面の下から嫉妬と狂気に醜くゆがんだ素顔が現れ、甘く軽やかだった声は、ヒキガエルのように聞き苦しく割れた。
「翌日になっても、ホテルで死体が見つかったというニュースは、流れなかった。玲名の携帯に電話しても繋がらないから、学校に問い合わせてみると、授業を無断欠席していて、寮にも帰ってないという。俺は、おかしくなりそうだった。玲名は、どこへ行ってしまったんだ?生きているのか?死んでいるのか?」
そんなとき"ウルビダ"の名前で、発表会のチケットが送られてきたんだ―。
そのときの先生の驚きが、ひび割れた声から、痛いほどに伝わってくる。
先生が狩屋を、資料の整理をする名目でそばに置いたのは、狩屋が今でも玲名さんと繋がっていると知っていて、玲名さんから連絡があるのではないかと疑い、監視するためだった。発表会のチケットを見せたのも、狩屋がどう反応するか試したのだ。
おだやかな表情の裏側で、先生は、焦り、もがき、苦悩しながら、俺達の言動を細かく観察していたのだ。
ヒロト先生は、ラウルであり、ファントムだった!
乱れ、震える声で、先生が言葉を続ける。
「携帯やパソコンに、ウルビダの名前で、"人殺し"“堕天使"と何通もメールが届いた。なのに、本人は俺の前に現れない。じわじわとなぶられている気分だった。きっと、天使が玲名を操っているんだ。天使が、玲名をあの場所から連れ去ったんだ。
そうだ、全部――全部、天使が悪いんだ!
玲名が天使に惹かれたりしなければ―俺を裏切ったりしなければ――。
俺は玲名を、天使から助けたかったんだ!なのに、間に合わなかった。玲名は、天使に、地下の王国に引きずり込まれてしまったんだ!」
瞳孔を開いたまま叫ぶ姿に、胸が裂けそうになる。
きっと、ヒロト先生は、玲名さんを傷つけるつもりなんてなかったんだ。
先生が憎んでいたのは、玲名さんではなく、玲名さんの心を奪った天使だった。
お日様園がなくなったことも、ヒロト先生は知らなかったのだろう。玲名さんがそれを取り戻そうとしていることも聞いていなかったのかもしれない。
だから、先生には、玲名さんの気持ちがわからなかった。
援助交際をしてまで、音楽を続けようとする玲名さんが理解できず、玲名さんが変わってしまったことを、天使のせいにし、天使を憎んだのだ。
あの一年とホテルへ行ったのも、玲名さんを置き去りにしたことを後悔し、ただ玲名さんの生死を確認したかっただけではないのか。
先生は先生なりに、玲名さんを救おうとしていたのではないか。だから、テーブルを睨みつけ、険しい声で呟いたのだ。
間に合わなかったと――。
そうだ、先生は悪い人ではないし、堕天使でもない。先生は―先生は――。
そのとき、冷ややかな声が響いた。

「裏切ったのは、私ではなくお前だろ?ヒロト」

澄んだ、少女の声。
千切れた衣装を身にまとい、壁際に立ち、氷のように美しい声を紡いでいたのは、仮面の少年だった。
「玲名さん…っ」
狩屋が、顔をこわばらせて呟く。瞳子さんも、化け物でも見る目で、彼の口元を見つめている。
拓人先輩は唇をぎゅっと結び、険しい顔で立ちつくし、俺は、頬を冷たい手で撫でられたような気がした。
その声は、前に聞いた玲名さんの声と、そっくりだった。
変声期を過ぎた少年のものではありえない。高く澄んだ少女の声――。
「!」
ヒロト先生が、声にならない恐怖の叫びを発するように、顔を大きくゆがめる。
殺戮の姫トゥーランドットの中に、祖先の姫がよみがえったように、この瞬間、玲名さんの魂が彼に乗り移り、玲名さんの声で、ヒロト先生に語りかけているようだった。

「お前が、私を殺した、私の体は、冷たい土の下で腐りかけている」





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