四章 下


〜四章・"文学少年"の値打ち 下〜

週明け。月曜日の休み時間に職員室へ行った俺は、ヒロト先生が学校を辞めたことを知り、愕然とした。
「なっ、そんな!まだ二学期も終わってないのに、何故ですか!」
俺に、そのことを教えてくれた先生は顔をしかめ『身内に不幸があったらしいと聞いているが、よくわからない』と答え、まだ他の生徒には言わないようにと念を押した。
鉛のような不安が、胸の奥に沈んでゆく。
休日に、玲名さんが電話で話していた内容を考えているうちに、ヒロト先生が言っていた、讃美歌を聞きながら手首を切った音楽家のことを思い出した。
クリスチーヌは賛美歌を聴きながら逝ったというあの言葉と、なにか関係があるのだろうかと気になり、詳しく尋ねてみるつもりでいたのだが、先生が学校を辞めてしまったなんて…。
俺は納得できないまま、昼休みに霧野先輩のクラスへ行ってみた。しかし、霧野先輩も朝からいないという。
どうするか…。
アテもないまま、音楽準備室へ向かって歩いてゆく。先生と関わりのある場所なんて、そこくらいしか思いつかなかったからだ。
玲名さんだけではなく、ヒロト先生までいなくなってしまった。最後に話したとき、先生は、さめたチャイが入った紙コップを片手で持ち上げ、淡く微笑んで、言っていた。

―ねぇ、剣城くん。芸術家としての成功なんて儚いものだよ。俺は、そんなものよりこの一杯のチャイのほうを選ぶよ。

平穏な日常をなによりも愛していた先生が、あっさりそれを捨ててしまうなんて信じられなかった。自分を好きでいるために、今ここにいるのだと話していた、あのヒロト先生が―。
狩屋と、ヒロト先生と、三人で過ごした短い時間の中で、先生は俺に大事な言葉をくれた。
また、手伝いをさせてくださいと言ったとき、先生は「待ってるよ」と笑っていたのに。なのに、俺たちはなにも告げず、こんな風に突然いなくなってしまったことが、ひたすらショックだった。胸に、ぽっかりと大きな穴が空いてしまったような気がする。
準備室の前まで来て、ノブに手をかけようとし、ふと動作を止めて耳を澄ました。
中から、低い声が聞こえる。
ドアの隙間から、そっとのぞき見ると制服を着た女子が、床にぺたんとしゃがみ込み、泣いていた。
そいつの前に、細かく千切られた赤い紙が散乱しているのを見て、ハッとし、俺は大きくドアを開けた。
肩をビクッと震わせ、涙に濡れた目で俺を見上げたのは、子供っぽい顔立ちをした、小柄な子だった。
どこかで見たことがある。
…そうだ。前に、この部屋でヒロト先生キスをしていた…!
「あんたも、先生が学校を辞めたことを、聞いたのか?」
尋ねると、そいつはこくりと頷き、またぽろぽろ泣き出した。
そんな姿が拓人先輩と被って見えたのを軽く頭を振ってその考えを振り払い、そいつの前まで歩いてゆくと、慰めながら、落ち着くのを待った。
聞くに、そいつはヒロト先生とつきあっていたわけではなく、片想いだったという。
そいつの話に耳を傾けながら、周りに散らばる赤い紙にさりげなく目を走らせる。思ったとおり、それは封筒だった。
『発表会のチケットが入った赤い封筒が、"ウルビダ"の名前で送られてきて…』
昨日の副理事長の話を思い出し、ひやりとする。
「これは、あんたが破いたのか?どうしてだ?」
「ぐす…そのお手紙が来たときから、ヒロトさん、おかしかったから…。急に資料の整理をはじめたり、あたしが手伝うって言っても、ダメって断ったり…、あたしのこと、ずっと子供扱いしてて、相手にしてくれなかったのに、いきなりホテルに誘ったり…なのに、なんにもしないで帰っちゃったり…」
ヒロト先生はホテルに入ってからも、様子がヘンだったという。まるで、捜し物でもするように、部屋の中をそわそわと歩き回り、目の前のこの子がシャワーを浴びて戻ってくると、ベッドの脇のテーブルを、これまで見たことがないような険しい顔で見据え、呟いていた。
「なんて言ってたんだ?」
「よ、よく聞こえなかったけど…『間に合わなかった』とか、『天使が奪っていった』とか…」
天使!
「それで、いきなり部屋から出てっちゃったの」
俺が目撃した準備室でのキスは、この翌日だったという。ホテルに置き去りにされて憤慨するこいつへの、お詫びだったらしい。
先生の行動は、俺が聞いても不自然に思えた。それに、天使って…。
「ヒロトさんが封筒を見て、苦しそうにしてたから、あたし、中身が気になって…ヒロトさんの机から、こっそり持ってきちゃったの。けど、オペラのチケットが入ってただけで、手紙はなかった」
そのあと返すタイミングが掴めなくて、ずっと持っていたのと、小声で打ち明ける。
「差出人の名前は見たのか?」
「うん……。"ウルビダ"って、書いてあった」
衝撃が、頭を貫く。
あの副理事長のところへ来た封筒と同じだ、どういうことなんだ!
ヒロト先生は、ウルビダを知っているのか!?玲名さんの失踪に関わりがあるのか!?
足元が崩れてゆくような不安に、息が苦しくなってゆく。先生は、玲名さんとはそれほど親しいわけではないと言っていたのに―。
泣き続ける目の前の子をどうにか落ち着かせ、教室へ戻ったのは、昼休みが終わる直前だった。
出入り口のところで、狩屋とぶつかりそうになった。
「!」
お互い驚いて、後ずさる。
「…ご、ごめん!」
「あ、ああ」
狩屋が唇をきゅっと噛み、弱気な目で俺を見る。なにか言いたそうだ。
俺も、玲名さんから電話があったことや、ヒロト先生の事を、知らせるべきかどうか激しく迷いながら、見つめ返した。
そのとき、狩屋のポケットで、着信音がけたたましく鳴り響いた。
「!」
狩屋が真っ青になり、ポケットから携帯電話を引っ張り出し、それを見ながら、俺にくるりと背中を向けて、慌てて去ってゆく。
着信相手は一体誰なんだ?中身は、なんなんだ?
追いかけて尋ねたい気持ちではち切れそうだった。だが先生がやってきて、俺も自分の席に着いた。
狩屋は机の下に隠した携帯を、こわばった顔で凝視している。


放課後になると、狩屋は影山たちに囲まれて帰ってしまった。これからクレープの店へ行くらしい。狩屋の元気がないから、影山たちが気を遣ったのだろう。
シュウは部活へ行き、俺は、もどかしい気持ちのまま教室を出た。
俺たちを取り巻く日常がひび割れ、崩壊しようとしているのを、胸が押し潰されそうなほどに感じながら、それにどう対応していいのかわからない。
ヒロト先生は、何故、あの女子生徒をホテルへ誘ったんだ?先生の行動の意味は?
もう手がかりは、緑川しかいない。緑川は、ヒロト先生のことを嫌っているようだったし、俺に先生に近づくなと警告していた。俺の知らない先生を、彼なら知っているかもしれない。それに、天使のことも、玲名さんのことも……。
彼と話をするのは今も少し怖く、訊いてもまともに答えてくれるかどうかわからないが、ぶつかってみるしかない。とりあえず図書室へ行き、そこにいなければ委員の奴に、あいつのクラスを聞いて…。
そのとき、図書室へ続く通路の窓際に、黄緑の髪の少年が立っているのを見て、足がすくんだ。

緑川――。

刺すような冷たい眼差しを向けられたとたん、心臓に爪を立てられたような気がし、ビクッとしてしまう。
緑川は、脅しつけるような低い声で呟いた。
「うろちょろするな。怪我するよ。君一人じゃなく、狩屋マサキも」
その言葉を聞いたとたん、こめかみが熱くなった。
「狩屋に、なにをする気だ!まさか、狩屋に変なメールを送ったりしてないだろうな」
すると彼は、薄く笑って見せた。
「だったら?」
頭の中でなにかがはじけ、俺は彼につかみかかっていた。
普段の自分からは考えられないその行為は、真っ青な顔でメールを見ていた狩屋を思い出したからというだけではなく、今、俺が感じている体の芯が震えるような恐怖を、振り払うためでもあったのだろう。
制服の襟元を両手で握りしめ、「狩屋になにをしたんだ!あんたは、なにを知ってるんだ!」と叫んでゆすぶると、緑川は舌打ちし、軽いもみ合いになった。
そのとき、彼の襟元から、銀色のチェーンがこぼれ出た。
その先に、細い銀の指輪が下がっているのを見て、背筋に戦慄が走った。

『クリスチーヌは、とっくに指輪をはずしてしまった』

彼の胸で光っているものは、どこにでも売っているファッションリングだ。アクセサリーをつけている男子中学生なんて、今時珍しくもない。
けど、まさか、そんなことは―。
緑川は、こぼれたリングを片手でぎゅっと握りしめ、底光りする目で、俺を睨みすえた。
「吠えるなよ。どうせ、君はなにもできないんだ。あの間抜けなラウルと一緒だよ」
そうして、愕然と立ちつくす俺に、憎しみのこもった、冷たい声で言ったのだった。
「ねぇ、白ちゃん?」
「!」
衝撃が心臓を貫き、この瞬間、見慣れた風景がぐにゃりとゆがんだような気がした。
まるで何者かが支配する別の空間に閉じ込められたような混乱と恐怖が、黒い波のように俺を襲った。
どうしてこいつが、白のことを――!
俺が、白だと、知ってるんだ!?
そんなはずない。でも、今、確かに言った!
俺が隠していた、あの禍々しい名前を、白の名を――!
この俺に向かって!
目の前に立っている少年が、得体の知れない不気味な生き物に見え、体中を悪寒が走り、足ががくがくと震えた。
混乱し、怯える俺に、彼が冷ややかな眼差しで、とどめの言葉を放つ。
「白ちゃんは、ペンより重いものなんか持ったコトないんだよね?」
俺はよろめきながら後ずさり、そのまま背中を向けて、駆け出した。
うろちょろするな。怪我するよ。
君一人じゃなく、狩屋マサキも。
ねぇ、白ちゃん。

頭の中で、彼の声が、言葉が、響き渡る。
白ちゃん、白ちゃん、白ちゃん、白ちゃん、白ちゃん、白ちゃん――。
早く、早く、この声が届かないところへ、逃げなければ。
牙をむいた天使に、噛み付かれる!

家に帰り、自室のドアを閉めても、動悸はおさまらなかった。
頭が混乱し、整理がつかない。何故、緑川は、俺にあんなことを言ったんだ?小学生の友人にも、俺が白だと、話したことはない。白の正体を知っているのは、家族と、出版社の人たちと、白竜くらいしかいないはずだ。
今にも、あの声が聞こえてきそうで、俺は夢中でヘッドホンをつけ、音楽を流し、ボリュームをあげた。そのままベッドに寝転び、頭を抱えて目を閉じる。
彼は、何者だ。あの指輪は、玲名さんの指輪なのか?
玲名さんは、彼のところにいるのか?それに、ヒロト先生は―狩屋は――。
白の名前を思い出さぬよう、必死に別のことを考える。事件のことや、ゆうべ読んだ『オペラ座の怪人』のことや―。しかし、思考が、何度も同じ処をぐるぐる回り、同じシーンが再生され続ける。
ラウルとペルシア人が、天使の仮面をかなぐり捨てたファントムに、残酷に追いつめられてゆく。
ファントムは、クリスチーヌに自分の力を誇示し、彼女への狂的な執着をあらわにし、自分を愛するように迫るのだ。

―わたしは顔を世間並みにしてくれる仮面を作った。もうみんな振り返りもしないだろう。おまえはこの世で一番幸せな妻になるんだよ。そしてわたしたちは二人だけで、死にたくなるほど歌うのだ。

―泣いているな!わたしを怖がっている!

―わたしは本当は悪人ではないんだ!私を愛してくれれば、おまえにもわかるだろう!

―愛してもらえさえすればわたしは善人になれるんだ!

―おまえはわたしを愛していない!おまえはわたしを愛していない!おまえはわたしを愛していない!

クリスチーヌの心が自分にはないと知ったファントムの怒りは、恋敵のラウルへと向かう。クリスチーヌはラウルを庇おうとするが、ファントムが作り上げた広大な地下の迷宮の中で、ラウルは翻弄され、追いつめられてゆく。ファントムの存在はあまりにも強く、圧倒的で、反撃することもままならない。


『どうせ、君は、なにもできないんだ。あの間抜けなラウルと一緒だよ』

侮蔑に満ちた冷たい声が、くすくすという少女の笑い声とともに、頭に忍び込んでくる。

―ぼくがきみを彼の魔力から救ってあげるよ、クリスチーヌ。誓うよ!だからきみはもう彼のことなんか考えないで。それが必要なことだよ。

誠意と情熱だけで、ファントムを倒すことなど、できやしない。
それに、クリスチーヌは、救われることを望んでいるのだろうか?もし、クリスチーヌが、ファントムとともに地下の帝国で女王として君臨することを選んだとしたら、ラウルは救われない。
いつの間にか、俺はラウルになっていた。
地下の闇の中を、逃げ回る俺を、くすくすという笑い声が追いかけてくる。
来るな、向こうへ行け!その声を、俺に聞かせるな!
前方に、ほのかな明かりが浮かび上がる。あそこまで行けば!
けれど、必死に辿り着いた先に立っていたのは、黒く長いマントに体を包み、顔を白い仮面で覆ったファントムだった。
ふいに、笑い声が止んだ。
凍りつくような静寂に包まれた闇の中、怯える俺の前で、ファントムがゆっくりと仮面をはずす。
そこに現れたのは、俺がよく知っている人物だった。

白竜!

悲鳴のような不協和音がとどろき、闇が砕け散ってゆく。
お前が、ファントムだったのか!
張り裂けそうな声で叫ぶ俺を指さし、白竜が冷たい瞳で告げる。

違う。ファントムはお前だ、剣城。

頬に当たる携帯電話の振動で、俺は目覚めた。
全身が汗でびっしょりで、前髪が額に張りついている。相手を確かめずに出ると、切羽詰った声が、耳に飛び込んできた。
「剣城くん!二回も留守電入れたんですよ!」
「影山…?すまない。眠ってて聴いてない。なにかあったのか?」
影山は、早口に叫んだ、
「狩屋くんがいなくなっちゃったんです!黙って家を出て行ったみたいで、携帯にかけても全く繋がらないんですよ!」



【どうかラウルが来ないように。
ラウルが来たら、ファントムは、ラウルを殺してしまう。
お願い、ラウルには手を出さないで。ラウルを傷つけないで。
ラウルは、私たちとは違う。暖かな太陽の下で生きるのに相応しい、優しく純粋な人。可愛く、善良で、哀しみを隠して笑っている―切なく、愛しく、大好きな人、大事な人、愛している!
彼と私が添い遂げることは、青い薔薇を作るように不可能なことだと、わかっている。
青い薔薇は白い薔薇を染めた偽物の薔薇で、本物の青い薔薇は純粋な青には見えない。
青い薔薇の花言葉は"有り得ないこと"のままで、私たちの愛も、偽りの青い薔薇のようなものなのだと。けれども、たとえ幻想でも、私はラウルを愛している。
どうか、来ないで。来るな、ラウル。あなたが、ファントムの仕掛けた罠にからめとられ、闇に引きずり込まれ、地で染まるのは見たくない。
来るな。来るな、ラウル。
くるなっっっ!

マサキから、メールと留守電。
着メロのクリスマスソングが、何度も鳴った。
マサキは、とても混乱して、泣いている。会いたいと言っている。帰ってきてと言ってる。どうしていいのかわからないと、なんでもするから、玲名さんがいないとダメだから、帰ってきてと。帰ってきて、帰ってきて、帰ってきて。
この世でただ一人、マサキだけは傷つけたくない。幸せに笑っていてほしい。穢れきった私と、穢れきった恋。穢れきった夢。穢れきった名前。
だけど、マサキのことを思うとき、心が澄んでゆくような気がするから。今の私が望むのは、マサキの幸せだけ。
なのに、マサキが泣いているのに、私は、マサキを慰めてあげられない。大事な、大事な、マサキが泣いているのに、抱きしめてあげられない。ふれることも、言葉をかけることもできない。泣いているのに。あんなに怖がり、怯え、傷つき、一人ぼっちで、泣いているのに。
――心臓が、裂けてしまう。】





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