一章 中


〜一章・おやつは絶対、忘れずに 中〜

「じゃあ、そろそろ休憩にしようか」
一時間ほど作業をしたあと、ヒロト先生が、紙コップにお茶を入れてくれた。
ミルクティーみたいだが、色も風味も濃くて甘い味がする。シナモンの香りがふんわり漂う。あ、生姜も入ってるようだ。
「チャイっていうんだ。インドで飲まれてる、甘く煮たミルクティーだよ。どうかな?」
「はい、美味いです」
拓人先輩が好きそうな味だ。甘くて、あたたかくて、疲れがとれて、ホッとして……。
先生が目で微笑む。
「それはよかったよ。俺は、お客さんにチャイを振舞うのが大好きなんだ。マサキも、お気に召してくれた?」
「……まあ、美味しいよ」
「俺と結婚したら、毎日飲めるよ」
「しないっ、てか絶対無理だろそれ!」
「え、海外に行けば…」
「断固拒否させてもらいます!」
猫が毛を逆立てるようにわめく狩屋に、先生がめげずに言う。
「あ、そうだそうだ。友人が、オペラのチケットを送ってきたんだ。学生の発表会だけど、主役のテノールはプロの客演なんだって。一緒にどうかな?マサキ?」
指にチケットを挟んで見せると、少しは興味があるのか、狩屋が横目でちらりと見上げた。
「…それ、俺ももってる」
ヒロト先生が、意外そうな顔をする。
「あれ?奇遇だね?オペラ好きだったっけ?いや〜、まさかそんな趣味があうなんて。運命かな」
狩屋が慌てて否定する。
「ちが……っ、と、友達が出演するから、自分で買ったんだよ!」
「あれ、マサキにここの生徒の友達なんかいたの?ねえ、いつ知り合ったのかな?教えてよ、マサキ」
「ヒロトさんに教える義理はないです!これ以上人のデリカシーに触れないで下さいよ!」
「せ、先生、そのへんで止めたほうがいいと思いますが。狩屋も、仮にも先生なんだから、手を出そうとするな」
不穏な空気をなんとなく感じ、仲裁に入ると、狩屋は急に赤くなり、そそくさと作業に戻った。
ヒロト先生は、そんな狩屋を、甘い湯気の向こうからおだやかに目を細めて、見つめていた。


「ヒロトさんって、声楽の勉強をしてたらしいね。大学のときパリに留学してて、向こうのコンクールで入賞したこともあるらしいよ」
翌日の昼休み。シュウと弁当を食べていると、影山たちが、わざわざやってきて、ヒロト先生の話を始めた。
「なんでも、天才って呼ばれてたんだって。とろけるような、甘いテノールで歌うらしいよ。ヒロトさんなら、プロデビューしたらアイドル並みに人気出てたよね。何で教師になったんだろ。もったいないな〜」
「あ、でもさ、恋人にするなら、過去のある年上の美青年より、同年代の普通〜の人のほうがいいよね?頑張れ、剣城くん」
「そうだよね!狩屋はブランド志向じゃないから、安心してどーんと行っちゃえ!」
「あっ、狩屋くんが帰ってきた!じゃあね、狩屋くんをよろしく、剣城くん」
ばたばたと去って行く影山たちを、俺は、唖然と見送ったのだった。
「…今のどういう意味なんだ?シュウ」
「だいたいわかるけど、狩屋に恨まれるから言えないや」
シュウが、気の毒そうに箸を置く。
けど…そうか。
俺は、レタスとオムレツのサンドイッチを手にしたまま、ぼんやりと考えた。
ヒロト先生も天才と呼ばれていたのか。


放課後。拓人先輩が中庭に不法設置した恋愛相談ポストに、差し入れの三題噺を投函してから音楽準備室へ行くと、ドアの前に知らない男子生徒がいた。
背丈は俺より小さい。綺麗な黄緑色の髪をしていて、細身で髪をポニーテールにしている、これと言って変わったところのない、ごく普通の生徒だ。
彼は顔を伏せ、俺の傍らを空気のようにするりと通り抜けていってしまった。
今の奴、準備室に用があったんじゃないのか…?
ドアを開けると、ヒロト先生がパイプ椅子に腰かけ、チャイを飲んでいた。考え事をしているのか、指を口元に当て、無防備のぼぉっとしている様子が、どこかのゆるいウェーブの髪の文学少年を思い出させ、苦笑いした。手首で、重そうな時計がきらきら光っている。
「あれ?剣城くん、一人かい?マサキは?」
「用があって遅れるそうです」
「あー、それはよかった。昨日いじりすぎたから、逃げられちゃったかと思って、ひやっとしたよ」
「…自覚があるなら、自重してやってください」
「それは嫌だな。だって、反応が楽しくてつい」
内緒だよというように、眼鏡のレンズの向こうから、目で笑いかけてくる。
昨日から先生は、そんな風に、仲良しの親戚のお兄さんのような親しげな視線を投げてくる。そうされると、胸が少しくすぐったくなる。
「先生は、海外のコンクールで入賞して、天才って呼ばれたそうですね」
「あ〜、そういうこともあったね」
ヒロト先生が、軽やかに笑う。
その笑顔が、あまりにも自然だったので、俺はつい訊いてしまった。
「どうして、プロにならなかったんですか」
口にしたとたん、胸の奥がズキッとした。答えを待つ俺は、息をつめ真剣だった。
「……」
なぜなら、俺も、かつて天才と呼ばれたことがあったからだ。
平凡な小学生だった俺を、大きな波が飲み込んだのは、小学六年の春だった。
たまたま応募した小説雑誌の新人賞を、史上最年少の十一歳で受賞し、ペンネームを白なんて性別がはっきりしない名だったせいで、謎の覆面天才美少女作家という大層な呼び名を頂戴し、全国区の有名人になってしまったのだ。
二年以上の歳月が流れた今、俺はおだやかな日常を生きている。友人もでき、前よりも笑えるようにもなった。
ヒロト先生は――どうだったのだろうか?
周囲に天才と賞賛され、将来を嘱望されながら、何故、教師になったのだろうか?
そのことを、今、どう思っているのだろう?
先生は甘い湯気の向こうで、優しく口元を緩めた。
「俺は、好きな人と一緒にゆっくり過ごす時間を、なによりも大切にしたいんだ。華やかなステージとか、胃が引き絞られるような修練とか、過密なスケジュールとか、そういったものは、肌にあわなかったんだ」
濁りのない澄み切った声だった。
目をやわらかく細め、金色の蜜がとろけるように笑うと、乾杯するように紙コップを持ち上げる。
「だから、自分の選択を後悔はしてないし、断言するよ。一杯のチャイがあれば、人生は素晴らしいし、平凡な日常は何物にも勝るってね」
その言葉も、声も、光のように俺の心にまっすぐ差し込み、シナモンの香りが漂う甘いチャイのように、ぴりっとした刺激を残しながら、体の隅々にまで、ゆっくりとあたたかく澄み渡った。
先生の笑顔から、目が離せなかった。
ああ、いいな。
俺もいつか、こんな風に自分の人生を肯定できるようになりたい。
ささやかな日常を愛おしみながら、ゆったりと自然に、毎日を過ごしたい。
変人だとばかり思っていたヒロト先生が、とても広くて大きな人に見えた。
やがて、狩屋が息を切らして現れた。
「いらっしゃい、マサキ。そんなに大急ぎで走ってくるほど、俺に会うのを楽しみにしてたんだね」
「ち、違います…っ」
「あれ、蛇が」
「うわああぁぁぁぁっ!!」
「狩屋、蛇がこんなところに来るわけないだろ」
「ぅぅっ、うるさいよ、剣城くんっ」
昨日と同じように、ヒロト先生が狩屋をからかう。
狩屋が真っ赤な顔で怒ったり、俺が仲裁したり…。
そんな、どうってことのないやりとりが、楽しくて、あたたかで、心地よかった。


『こんにちは、剣城。
ポストのおやつ、いただいたよ。
"校門"と"くじら"と"バンジージャンプ"のフレッシュミントゼリー風味。
ゼリーが甘くて、ミントというよりは、濃いミルクティーのようだったが、口の中で、さっと溶けていって、シナモンと生姜の香りだして美味しかったよ。そう、まるでチャイの味だな。ラストの一文は、熱でとろとろにとろけたゼリーが、おなかの中にあたたかく落ちていったよ。とても幸せな気分だった。ごちそうさま。
模試の結果がE判定で、少し落ち込んでしまったが、剣城の話を食べて元気が出たよ。また、美味しいおやつを頼むな。
 神童 』

うわっ。見抜かれてる。
放課後。ポストに入っていた、拓人先輩からの便りを読み、頬がじわじわと熱くなった。チャイの味…まさにその通りだ。意識したつもりはなかったんだが。
それにしてもE判定って―。拓人先輩、大丈夫か?
受験の前に、腹をくだされたら困るので、当分幽霊の特盛りはやめておこう。
授業中に仕上げた新しい"おやつ"を投函し、俺は音楽準備室へ向かった。



【天使が、もみの木を運んできてくれた。
夕べ私がバイトのことで、ひどく落ち込んでいたから、励ましのつもりだったのだろう。私のこと、なんでも知っている。私も天使にだけは、なんでも話す。
マサキにも打ち明けられないこと、醜いこと、汚いことも、全部。
クリスマスにはまだ早いが、天使と二人で土を掘って、もみの木を植えた。私と天使の大事なクリスマスツリー。
明日は、天使の羽根や、クリスタルの聖堂や、金色の鐘や星を飾ろうと約束した。それから、電灯も灯さないと。
天使は、神様を信じてないから、クリスマスも賛美歌も嫌いだと言う。私が賛美歌を歌ったら、耳をふさぎ、やめろと叫んだ。私も神様は信じられないが、クリスマスは好きだ。ツリーのイルミネーションを、一晩中だって見上げていられる。そうすると、神様は信じていなくても、とても神聖な清らかな気持ちになる。光の中に、心が、すーっと吸い込まれていく感じ。
ツリーの中に、住めたら良かったのにな。そうしたらきっと、私の醜さも、白い光の中に溶けて消えてしまうのに。

今年のイブは、彼と過ごす。
クリスマスは、マサキと過ごす。

マサキは、剣城とうまくやってるだろうか?昨日の電話では、また剣城くんのことを睨んじゃった…、キツイこと言っちゃった…どうしよう…と、落ち込んでいた。
マサキは、すごく可愛くてイイコだから、もう少しだけ積極的になれば、剣城も絶対惚れると思うんだがな。
いつか、マサキと剣城と私と彼でWデートなんてできるといいなと、話したとき、自分がひどい嘘つきのような気がして、胸が痛くなって、泣きそうになって困った。】



「狩屋って、ヒロト先生と仲良いよな」
「ば、バカだろ、剣城くん…!なに言ってんだよ。そんなわけないだろ」
一時間後――。日差しのあたたかな準備室で、俺は狩屋と仕事をしていた。
ヒロト先生が職員室に用があり、出て行ったので、部屋の中は俺と狩屋の二人きりだ。狩屋は俺の隣で、紙をばさばさめくりながら、唸った。
「剣城くん、目、おかしくなったんじゃないの」
「狩屋、先生とだと、いつもよりよく喋ってるみたいだからな」
「…そ、それは」
なにか言いかけて、「なんでもない」と、そっぽをむいて黙ってしまう。
そのまま、すごい勢いで作業を続ける。
そういえば、狩屋に訊きたいことがあった。…思いきって、今、訊いてしまうか。
「なあ、狩屋」
「な、なにっ」
「狩屋と俺って、小学生のとき、どこで会ったんだ?よく考えたんだが、思い出せないんだ」
ああ、言ってしまった。
でもこの際だからはっきりさせておこう。文化祭の劇の練習で、狩屋が泣きながら口走ったこと――。

『剣城くんはきっと覚えてないよ。けど、俺にとっては特別なことだった』

『いつも剣城くんと一緒にいたあいつが、作家の白なんだろ!』

何故、狩屋が白を、白竜と誤解したのか?
何故、俺は狩屋と会ったことを覚えていないのか?
狩屋の不自然なほどのかたくなさも、多分そこに原因があるんだろうから…。
狩屋は、うなだれたまま石のように動かない。唇を噛みしめ、青ざめている。
聞いてはいけなかったのか……。
後悔したとき、苦しそうに声を押し出した。。
「…名札」
「は?」
「名札……で、わからない、かな?」
「あの小学生が胸につけてる名札のことだよな?」
狩屋の肩が、ぴくっと揺れる。
「待ってくれ。今、思い出す。名札……名札………」
俺の小学校の名札は、学年ごとに色が違っていて、狩屋が俺と会ったのは、五年生の冬頃か?なら、名札の色は青で……。
「もう、いいよっ」
激昂した声が、思考を断ち切る。
狩屋は手を固く握りしめ、震えていた。
「む…無理して思い出すことないよ」
空気が冷たく凍りつき、俺は途方に暮れてしまった。
そこへ、ヒロト先生が戻ってきた。
「ごめんね。職員室から塩大福をかすめてきたから、お茶にしよう。あれ?マサキ、どうしたの?」
先生の顔が、キスしそうなほど接近し、狩屋が慌てて飛びのく。
「な、なんでもないですっ!」
「ああ、俺がいなくて寂しかったんだね」
ほのぼの笑う先生に、
「バカ!変態!宇宙人モドキ!違うし!」
と、真っ赤な顔でわめく。
少し元気になったみたいだが、そのあと狩屋は、俺と目をあわせようとしなかった。


校舎が茜色に染まる頃、三人で音楽準備室を出た。
「明日と明後日は、所用で出かけるから、次は木曜日だね。よろしくね、二人とも」
「はい、さようなら、先生、狩屋」
「…さよなら」
職員室へ戻るという先生と、図書室へ行くという狩屋と別れて、歩き出そうとしたとき。
ふと、視線を感じた。
突き刺すような暗い眼差しが、こちらを見ている。だが、人の姿がない。
一体どこからだ?
階段の前で、周囲を見渡したとき、頭上から風の唸りのような低い呟きが、舌打ちとともに聞こえた。
「…全く、いい気なものだ」
背筋がざわつき、皮膚が粟立つ。
視線を上に向け、四階へ続く階段を、一段一段、息を押し殺して、なめるように見つめる。だが、そこには誰もいなかった。
なんだったんだ…今の声?
誰に向かって言ったんだ?俺?先生?それとも狩屋?
再び耳を済ませてみたが、もう足音すら聞こえなかった。






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