四章 上


〜四章・過去から来た少女 上〜

シュウの家は、学校からバスで三十分ほど行き、そこから十分ほど歩いた閑静な住宅地に建つ和風の建物だった。
事件の翌日。俺は拓人先輩と一緒に彼の自宅を訪れた。
喉と胸を彫刻刀で切り裂かれた先輩は、病院で療養している。傷は、出血の割には大したことはないということだったが、事件については口を閉ざし、語るのを拒んでいるらしい。
空野もショックが強かったようで、学校を休んでいる。シュウは担任の先生から、しばらく家で謹慎するよう言い渡された。
クラスの奴らも事件のことを知っており、教室の中は、朝からその話題で騒然としていた。
こちらのクラスまでわざわざ様子を見に来たフェイと拓人先輩、それに、昨日俺に寄りかかって震えていた狩屋は、三人とも暗い顔をしていた。
「そうか、シュウ来てないのか」
「俺、シュウが人を刺すなんて、まだ信じられない」
「シュウ…先輩に、葵さんのことで呼び出されて、もみあいになって、先輩を刺しちゃったって、話してるんだよね?」
「ああ。でも、どうしてシュウは、彫刻刀なんて持っていたんだろう」
「そうだよね。ヘンだよ。ホールから飛び出していったとき、シュウくん、何も持ってなかったと思うんだけど」
「……シュウ、今頃どうしてんのかな……」
「劇も、どうなっちゃうんだろ…」
うなだれる狩屋とフェイを励ますように、拓人先輩が言う。
「放課後、俺と剣城で、シュウの家へ行ってみる」
その言葉に、俺は異議を申し立てることはできなかった。

シュウが住んでいる家の門を、拓人先輩と並んで見上げる。
「立派な家だな」
「……そうですね」
正直、このまま回れ右をして家へ帰りたい気持ちで一杯だった。
シュウと会っても、どんな話をすればいいかも、なんと言ってやればいいのかもわからない。胃の辺りがじくじくする。
嫌だ…。これ以上、進みたくない。
しかし、拓人先輩はさっさと門を通り抜け、地面に埋め込まれた石を踏みながら玄関まで歩いてゆくと、インターホンを鳴らした。
『はい、どなたですか?』
俺たちとさして変わらない年頃くらいの男の声が返ってくる。拓人先輩がシュウに会いに来たと告げると、引き戸が開き、動物の耳のような水色の髪の少年が顔を出した。
拓人先輩と並んで挨拶をすると、「シュウの幼馴染の、カイです」と名乗り、「シュウのこと、心配してくれてありがと」と、ぎこちなく微笑んだ。きっとシュウの周りの人たちも今回のことで心を痛めているのだろう。
「待っててくれよ、今、シュウを呼んでくるから」
そう言って、どっしりした木の階段を上ってゆく。
「シュウ、お客さんだって。聞こえてるか?」
襖は開く音がし、カイの叫び声が耳に突き刺さった。
「なにしてんだっ!シュウ!」
拓人先輩が靴を脱ぎ捨てて家に上がりこみ、階段を駆け上ってゆく。俺もとっさに後に続いた。
カイは、襖を開けた部屋の前で、真っ青な顔で立ち尽くしていた。
八畳ほどの和室は、ひどい有様だった。
壁に貼られた幾枚もの賞状、襖、窓の障子が、縦に、斜めに、引き裂かれている。畳の上に、本やノート、学校の教科書が投げ出され、表紙やページに、刃物で滅茶苦茶に切った痕が残っている。
さらに、手作りと思われるクッキーやカップケーキが、しわくちゃのラップや、可愛らしい赤やピンクのリボンと共にばら撒かれており、ケーキの表面に、死斑のような紫色の黴が転々と浮かび上がっている。
俺は吐き気が込み上げ、喉を押さえた。
そんな部屋の真ん中に―。シュウは、シャツにスラックスという格好で座り込んでいた。
目が、死んだ魚のように精気に欠け、半開きになった唇は乾き、右手に折りたたみのカッターを握りしめている。カッターの先から血が滴っている。
袖をまくってむき出しにした左腕に何本もの切り傷があり、そこから鮮やかな赤い血が流れ出ていた。放心する彼のすぐ傍らに、首と足を切断したヤギのマスコットが無造作に転がっており、上からぽたぽたと零れ落ちる血を、吸い込んでいた。
「シュウ、お前―お前、なにやってるんだよ…っ。腕、血が出てるじゃんか」
カイが、震える声で言う。
シュウは乾いた目をしたまま、淡々とつぶやいた。
「試しに…切ってみたんだ。簡単に、切れるんだね…人間に皮膚って」
カイの顔が、恐怖に引きつる。
「て、手当てを、しないと」
ためらいがちに伸ばされた手を、シュウが叩くように振り払う。精気のなかった顔が不気味にゆがみ、青ざめた唇からひび割れた声がほとばしった。
「ダメだ!これは償いなんだ。あの子は、まだ僕を許していない!あの子の傷はまだ癒えていない!」
カイがびくっと方を跳ね上げ、立ちすくむ。その横を拓人先輩が通り過ぎ、カッターを握りしめるシュウの手をつかんだ。
とっさのことで、俺は止めることができなかった。シュウが困惑の表情で、拓人先輩を見上げる。
「なんで、神童先輩がいるの?」
「お前が、先輩や友達に心配をかけるからだ」
驚きで緩んだ手からカッターを取り上げ、拓人先輩はそれを俺のほうへ寄こした。
「預かっててくれ、剣城」
片手でずいっと差し出されて、慌てて受け取る。
「カイ、水を張った洗面器とタオル何枚かを持ってきてくれ!それから剣城は、タクシーを呼べ!」



【何故、二人は出会ってしまったのだろう。
幼い日、あの小さな教室で。
僕が本当に切り裂きたいものは、過去の自分であり、君だった。
僕を責め、僕に不実な行為を命じる君を―
僕に決して心を開かない君を―
僕を拒絶し続ける君を―
ナイフでずたずたに切り裂きたい。
君の白い顔が、血みどろになり、皮膚に無数の印が刻まれ、その下の肉がぐちゃぐちゃに爛れ落ちるまで、君を切り刻みたい。
君の足を、腕を、手を、指を切り裂き、皮膚を削ぎ落としたいんだ。
そうしたら僕は、ようやく心安らかになれるだろう。】



病院でシュウが治療を受けている間、俺と拓人先輩は、カイと一緒にロビーのソファーで待っていた。
「ありがとう。あんたたちがいてくれて、助かった」
カイが青ざめた顔で言う。
俺はタクシーを呼んだくらいで、シュウの腕をタオルで縛って止血したのも、タクシーに無理矢理押し込んだのも、拓人先輩なのだが。
「…シュウは、一体どうしちゃったんだろうな、シュウになにがあったんだ…」
掠れた声で、カイはつぶやいた。
「あいつは昔から優等生で、幼馴染の俺よりずっとしっかりしてて、すっげーいいやつなんだ。なのに、どうしてこんなこと…」
拓人先輩が、そっと尋ねる。
「シュウは、なにかを悩んでいるようだったんだ。君たちに、心当たりはないのか?」
その言葉にカイの顔がゆがみ、泣きそうな表情になる。
「…シュウは、心配事があっても俺たちに打ち明けたり、頼ったり…しないんだ」
哀しそうな声だった。拓人先輩の眉も下がる。
「あの…シュウが言っていた"あの子"って。誰なんだ?君は知っているか?」
その質問に、カイの肩が揺れた。潤んだ瞳には動揺が浮かぶ。
「もしよかったら、話してくれないか?」
拓人先輩に促され、カイは小さな声でつぶやいた。
「"あの子"は、シュウが小学五年生まで一緒にいた妹のことだ。けれど、二学期に、事情があってシュウの前から姿を消したんだ」
「事情って?」
カイが、言いにくそうに口ごもる。
「クラスメイトから、ひどいいじめにあっていたんだ。教科書や体操服が切り裂かれたりして…それで、図工の時間に、彫刻刀で、自分をいじめていたやつに、切りかかったんだ」
彫刻刀だって!?
俺は息をのんだ。拓人先輩も目を見張る。
「そのあとすぐ、あの子は姿を消してしまったが…。そのときの担任の先生が、みんなの前でシュウに、『あなたのせいで、こんなことになったのよ』って言ったらしいんだ。シュウはそのことを誰にも話さなかったから、ずいぶん後になって、人から聞いて驚いたんだ。」
「シュウのせいって、どうしてなんだ?」
「…わからないんだ」
カイが首を横に振る。
「シュウが先生に嘘をついたせいで、あの子がいじめられるようになったって聞いたけど…事件から半年もたっていたし、今更シュウに尋ねたりできなかったんだ。」
胸が―締めつけられた。
俺の知っているシュウは、真面目で、優等生で、いつも穏やかで、みんなに信頼されている立派な奴だ。そうした自分を、シュウは自分の意思で作り上げてきたのだろうか。
「だから…シュウは本当に辛かったと思うんだ。けど、俺も、自分のことで手一杯で、シュウを気遣う余裕がなかったんだ。大人びているけど、あのときのシュウはまだ、たった十一歳の小学五年生の少年だったのにな…」
うなだれるカイの表情から、幼馴染に対してすまないと思っている気持ちが伝わり、俺の胸はますます胸が痛くなり、喉が苦しくなった。
これ以上、聞いてはいけない。
どす黒い不安が、胸に広がってゆく。
聞いたら引き返せなくなる。
「シュウが彫刻刀で人を切ったと聞いたとき、小学校のときの事件を思い出したんだ。さっき、あの子の名前をシュウが口にしたときも、頭を殴られたような気がした…。きっと…シュウはずっと、あの事件のことを引きずっていたんだな」
拓人先輩は眉を下げ、辛そうな顔で、カイの言葉に耳を傾けている。
そのとき、腕に包帯を巻いたシュウが戻ってきた。
「シュウ!」
カイが、シュウに駆け寄る。
シュウは、不自然なほどに静かな顔をしていた。
「心配をかけてごめん。怪我は大したことないよ。すぐに治るって」
その落ち着きように、カイが声をつまらせる。
「お前って、本当に―優等生のくせに、なにやってんだ、ごめんじゃないだろ。本当に、本当に―」
泣き出してしまったカイを、シュウが片手でそっと抱き寄せる。騒ぎを起こして病院へ連れてこられたのはシュウのほうなのに、まるで立場が逆だった。カイの肩を抱いたまま、俺たちの方へも頭を下げる。
「神童先輩達にも、迷惑をかけました。まだ学校側の処分も決まっていないし、今日は取り込んでいるから、また今度、話をさせてもらえますか」
淡々と語られたその言葉は、遠まわしな拒絶のように感じられた。
意外なことに、拓人先輩はあっさり引き下がった。
シュウを見て、涼やかに微笑む。
「わかった。だが、もしお前に、悩んでいることや困っていることがあったら、ちゃんと言ってくれ。俺も剣城も、お前の力になりたいと思ってるんだからな」
俺は、その通りだとはとても言えず、視線を微妙に下へ向けて黙っていた。


病院を出ると、外はすっかり暗くなり、肌に突き刺さるような冷たい風が吹いていた。
停留所で、並んでバスを待つ。
沈黙が一、二分続いたあと、拓人先輩が言った。
「俺、シュウたちが言っていた事件を調べてみようと思うんだ。何故、シュウがここまで追いつめられてしまったのか、なにを苦しんでいるのか―。図書室の本が切られたことも、シュウが彫刻刀であの先輩を切ったことも、全部、その事件に繋がっているような気がするんだ」
「俺は反対です。そんなのお節介です。他人の秘密をほじくり返す権利は、俺らにはありません」
拓人先輩が、少し眉を下げる。
「剣城はいつもそうだな。でも、シュウは他人ではなく、剣城の友達だろ?」
とっさに叫びそうになった。
そんなの拓人先輩が、勝手にそう思っているだけじゃないですか!シュウは友人じゃない!俺は友人なんかこの先も作らない!
しかし、そう言えば、きっと拓人先輩は目に涙を溜め、今よりもっと哀しそうな顔で、俺を見るだろう。一年生のとき文芸部に入ったばかりの頃、時折俺に向けられたその顔が、俺は苦手だった。
黙っている俺に、拓人先輩は今度は毅然とした顔になり、言った。
「取り返しがつかないことになってから後悔しても遅いんだ。剣城が嫌って言うなら、俺は一人でシュウが卒業した小学校に行くからな」







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