一章 下


〜一章・ごはんは、残さず食べましょう 下〜

「どういうことですか!文化祭で劇をやるなんて聞いてません!」
シュウがすっかり毒気に抜かれた顔で「考えさせてください」と呟いて出て行った後、俺は拓人先輩に詰め寄った。
拓人先輩がパイプ椅子の背を抱きかかえ、嬉しそうな顔で俺を見上げる。
「でも、もう、実行委員会には申請して、ステージを押さえたぞ」
「なっ!?」
「だって霧野に、オケ部は専用ホールでコンサートを開くが、文芸部は今年も暇だろ?って嫌味を言われて悔しかったんだ。去年だって、部誌の一冊を出せずに、古典作品の展示をしただけだし…。しかも、お客さんが全然来なくて、剣城、クロスワードをして遊んでただろ」
途中から頬を膨らませ睨んでくる。俺は呆れた。
「部誌の一冊も出せなかったのは、拓人先輩が全部食べたからでしょう」
「そうだったか?とにかく、今年は、人数が多いだけのオケ部などに負けてなんかいられないぞ。それに、文化祭の劇を見て、文芸部の素晴らしさを知り、入部してくれる奴がいるかもしれないしな」
どちらかと言えば、あとの問題のほうが切実なのだろう。前から拓人先輩は、部員の少なさを気にしており、「剣城は甲斐性なしだし、俺が卒業したとたん、文芸部がつぶされたらどうしよう…」と、心配していた。
「いいか?剣城?これは先輩命令だ。お前も、文芸部の一員として文化祭で文芸分存在をアピールし、部員を一人でも確保すべく、粉骨砕身するんだ」
出た。拓人先輩の『先輩命令だ』が。俺は目立ちたくはないし、平和に暮らしたいのだが…。
「二人しか部員がいないのに、劇なんてできるんですか?」
とたんに拓人先輩が、にっこりとする。
「だからシュウを誘ったんじゃないか。文化祭に出ると決めたときから、彼なら女子の客を呼び込めそうだって目をつけていたんだ。剣城に口説いてもらうつもりだったが、手間が省けたな。これも、俺の人徳だな」
それ、シュウの悩みと全然関係ないじゃないか。拓人先輩の一方的な都合ではないか。だが拓人先輩に弱みを握られ、わけのわからない劇に引っ張り込まれようとしているシュウに、俺は深く同情した。
「一体どんな劇をするんですか?」胡散臭そうに尋ねると、
「もちろん、文芸部にふさわしい、青春の息吹溢れる、切なく美しい文芸大作だ!衣装のことを考えると、やっぱり日本の明治以降の作品がいいと思って、この一週間、選考に選考を重ねたんだ」
それで、古い恋愛小説ばかり読んでいたのか。
拓人先輩は椅子から立ち上がり、積んであった本を手に取り、高らかに告げた。
「そうして選んだ演目が、この武者小路実篤の『愛と死』だ!」
そして拓人先輩は、ここぞとばかりに武者小路実篤の薀蓄を語り始めた。しばらくうっとりと目を閉じていたと思えば、ぱっと目を開け、うきうきと顔を近づけてくる。
「中でも彼が書いた『愛と死』のヒロインの夏子は、文学史上屈指の可憐なヒロインなんだ。
真っ白な豆腐のようにピュアで爽やかで、なにもかけずにそのままいただいても、美味しいんだ!中学してしまった主人公と手紙のやり取りをするのだが、その文面がそれはもう初々しく、胸がキュンしてしまうほどだ。それにな、それになっ、登場シーンもまた可愛いんだっ。庭で、女学生が集まり、逆立ちの競争をしているんだ。夏子は逆立ちの名人で、宙返りもできるんだ。お兄さんの誕生日の宴席で見事な宙返りを決め、お客さん達の拍手喝采を浴びるんだぞ!」
「待ってください!」
際限なく喋り続ける拓人先輩を、俺は強引に遮った。
「宙返りするヒロインって、それ、根本的に無理です。んなもん誰がやるんですか?」
「逆立ちくらい誰でもできると思うぞ。宙返りだって、でんぐり返りの練習をしてたら自然にできるって夏子も言ってるから平気だ」
能天気に笑う拓人先輩に、俺は厳しく断言した。
「無理です。少なくとも、バレーのボールを顔で受けたり、アタックをしようとしてネットに突っ込んだり、ソフトボールで、振り回したバットで自分の頭を叩いたり、水泳の授業でかっこつけてバタフライをしようとして、足がつってプールで溺れている拓人先輩には、絶対無理です」
拓人先輩が真っ赤になる。
「どうして、俺の恥ずかしい姿を、そんなに目撃してるんだ!」
「拓人先輩が、しょっちゅう恥ずかしいことをしてるからです。自分が重度の運動音痴だと自覚してください。逆立ちを宙返りも、拓人先輩には無理です」
その言葉にカチンときたらしい拓人先輩が、頬を膨らませる。
「そんなことはない。少なくとも、サッカーは常人以上できるんだからな!それに、文芸部への愛があればできる」
「どーでもいい情報をありがとうございました。つーか文芸部、関係あるんですか」
「ああ、物語への愛は、全てを可能にするんだ。逆立ちの一つや二つ、平気だ。俺の愛のパワーを見せてやろう」
壁に向かって逆立ちをしようとするのを見て、俺は慌てた。
「やめてください。怪我をしたらどうするんですか!」
「大丈夫だ!目を開いて、よく見ておけ!」
拓人先輩が両手を高く上げ、壁に向かって勢いよく踏み込む。
「!!ストップ、拓人先輩!」
そう声を上げたとき、伸びた脚が前に傾き、悲鳴が上がった。
「うわあぁっ!」
「あ、危ない!」
とっさに拓人先輩の足首をつかむ。しかし右足しか掴めず、そのまま一緒に、本の塚に向かって倒れ込んでしまった。
積み重ねられた本が雪崩のように、俺達の上に降りかかってき、塵と埃がもうもうと舞い上がる。さらに倒れた本の塚が、その隣の塚を倒し、またその隣の塚も崩れ、といった具合に、狭い部室に本が散らばり、大惨事になってしまった。大量の本の下敷きになった拓人先輩は、埃を吸い込みくしゃみをしながら、涙目で言った。
「くしゅん。やっぱり、他の話にしたほうが、いいみたいだな」


どうにかして拓人先輩に、劇の上演をやめてもらえないだろうか。
翌日。教室の席で、渋い顔で思案する俺の前に、シュウがやってきた。
思わず背筋を正すと、シュウは普段と変わらない静かな表情で言った。
「昨日は、剣城や神童先輩に面倒をかけてゴメンね」
穏やかな口調にほっとし、俺も内心ホッとした。
「気にするな。驚きはしたが、イライラすることは誰にでもあるだろ」
そこでハッとした。シュウが劇に出ないと言えば、拓人先輩も諦めるかもしれない。
俺は身を乗り出した。
「劇のことだが、拓人先輩が勝手に盛り上がっているだけだから、断ってもいいんだぞ。なんなら、俺から拓人先輩に話そうか?」
ところが、シュウは、真面目な顔で言ったのだった。
「いや、出演させてもらうよ。僕は地味な人間で役者の素養もないし、剣城たちの足を引っ張るかもしれないけど、精一杯やらせてもらうつもりだよ。よろしくね」
って、何いいいいぃぃぃぃ!

放課後。狭い部室に集まったメンバーを見、俺はまたまた目をむいた。
「か、狩屋!?それに、虎丸まで!?」
「なんだよ?俺は、拓人先輩に頼まれたから、出てるだけだからな。剣城くんは無関係だから。というか、剣城くんと共演なんて冗談じゃないからな!」
ガンをつけてくる狩屋の隣で、ツンツンの髪をした少年がニコニコ笑っている。
「あ、俺はそーいうんじゃないんです。友達で文芸部に興味を持っている子がいて、その子のことを頼みに来たんです」
虎丸は図書委員をしている一年生だ。依然、彼のラブレターの代筆をしたことがある。そのときにいろいろあり、時々文芸部へ遊びに来るようになったのだ。
そこで虎丸の後ろに隠れているもう一人の少年の存在に気がついた。薄いエメラルドグリーンの髪にウサギの耳のようにたつ2本の髪がふわふわと揺れている。
その少年は虎丸によって前に出されると、少し恥ずかしそうに自己紹介をした。
「えっと、僕、フェイ・ルーンって言います。虎丸とは同級生でその、文芸部の話を聞いて興味を持ったので…虎丸の代わりになりますが、よろしくお願いします!」
すると、虎丸は俺にしか聞こえない小さな声で囁いた。
「フェイは俺と同じで、道化師を演じてます。それと、あの文芸部にお世話になった話は詳細まで全て話しました。もちろん、剣城先輩の話もです」
「なっ!?お前…!」
「大丈夫ですよ。フェイ、絶対言わないって約束してくれましたし」
「そういうわけじゃ…」
それを聞き、眉間に皺を寄せた。するとそれを見たフェイが子兎のような人なつこい瞳で俺を見上げ、可愛らしく首を傾げた。
「剣城、まさか僕と共演するの嫌?そりゃあそうだよね…見ず知らずの人間なんかとなんて…」
「いや、そういうわけじゃ…」
内心焦る俺を、狩屋が睨んでいる。いつもに増して視線がキツイ。大丈夫なのか?このメンバーで?
「それじゃあ、俺はこれで失礼します。フェイのことよろしくお願いします。あと、劇楽しみにしてますね!」
そういうと虎丸は颯爽と部室を去っていってしまった。
冷や汗をかく俺の隣に、シュウがまじめな顔で立っている。それを見て、フェイは声を張り上げた。
「うわぁ、シュウも出演するんだ!すっごいなあ!シュウのファンって多いし!」
そう言うと、フェイは何故か俺の腕に自分の腕を絡め、えへっと笑っみ見せる。そっぽを向いていた狩屋が、凄い勢いでこっちを振り返る。
「剣城ともども、よろしくお願いします。あっ、狩屋くんも仲良くしてね!マサキって呼んでもいいかな?」
「嫌だ」
眉をぴくぴく震わせ、狩屋が即答する。
対するフェイは、笑顔前回だ。
「うんっ、マサキって、呼ぶね!」
「嫌って言ったんだよ俺は!てか俺先輩なのになんで敬語使わないんだよ!」
「マサキ、こわいよ〜」
ひしとしがみついているフェイを見て、狩屋がキレそうな顔になる。
「〜っ、てか!剣城くん、君さ、いつまで腕組んでるわけっ!」
「え、あ、すまない」
急に矛先を向けられ、俺はすぐさまフェイの腕を解いた。フェイは残念そうな顔を出すが、初対面の相手に馴れ馴れし過ぎやしないか。
「と、とにかくさ、小学生のお遊戯会じゃないんだし、ベタベタするなよなっ」
狩屋は赤い顔でそう言い、ツンと横を向いてしまった。
そんな俺達のやり取りを、シュウは大人びた態度で見守っている。
そして、元凶の拓人先輩といえば…。
「みんな和気藹々でなによりだ。このメンバーを選出した俺の目に、狂いはなかったな」
すっかり悦に入って、頷いている。俺は家に帰りたくなってしまった。
テーブルの周りに無理矢理椅子を五つ押し込み、各自が腰かけ、やっと劇の話となった。拓人先輩が、ハードカバーの古い本を誇らしげに掲げる。
「―ということで、部内で慎重に協議を重ねた結果、演目は武者小路実篤の『友情』に決まった!」
「うわぁ、すごい!なんか格調高そうだね!」フェイがパチパチと拍手する。
協議を重ねた結果って…逆立ちに失敗し、無難に武者小路の代表作に落ち着いただけではないか。
拓人先輩はかまわず、続けた。
「『友情』は大正八年に、大阪毎日新聞の連載小説として書かれた作品だ。みんなは、読んだことあるか?」
「いいえ」「ないなぁ」「俺も」
シュウ、フェイ、狩屋が答える。
「じゃあ、簡単にあらすじを説明するな。登場人物は、脚本家の野島。野島の親友で小説家の大宮。野島が恋をする女学生の杉子。杉子の友達で大宮の従姉妹の武子。あとは杉子の兄で野島の友人の仲田。野島の恋敵の早川―こんなところだな。
物語は、主人公の野島が、杉子を見初めたところから始まるんだ。杉子こそ、自分の妻になる女性だと確信した野島は、彼女に会うために仲田の家へ通いつめ、一途に恋するんだ。
そんな気持ちを、野島は親友の大宮だけ打ち明けるんだ。大宮は男らしく誠実な男性で、野島の話に真剣に耳を傾け、野島の恋を応援してくれるんだ。
だが、杉子が好きになったのは、野島ではなく大宮だった。
大宮は恋と友情の間で苦しみ、友情を貫くために海外へ留学するのだが、そんな彼に、杉子は何通も手紙を書いた。そうして、ついに杉子への思いを抑えきれなくなった大宮は、彼女を自分の元へ呼び寄せるんだ」
フェイが目を丸くする。
「野島さんは失恋したうえに、親友もなくしちゃうの?可哀想だな〜」
「そうだな。だが、ラストは哀しいが、とても力強くて感動的なんだ。それに野島が杉子に恋をして一喜一憂する様子は、胸がいっぱいになるんだ。ほら、このシーンなんて素敵だぞ?野島が砂の上に杉子の名前を書き、波が十度押し寄せるまで、字が消えなかったら思いは叶うって願掛けをするんだ。ロマンチックだろ」
拓人先輩がページを開き、説明する。
フェイと狩屋が両脇から覗き込む。
それから、三人で顔がくっつきそうな距離で、ページをめくりあい、「ここが最高なんだ」や、「でもこのシーンは」とか言いながら、拾い読みを始めた。
最初は拓人先輩の独壇場で、「な?野島が愛しく思えないか?人を好きになり、世界が全く変わってしまうこの気持ち、わかるだろ?」などと熱弁をふるっていたのだが、途中で狩屋とフェイが、反論し始めた。
「えー、野島、はしゃぎすぎですよ、拓人先輩」
「僕も、ここまで熱烈に想われちゃ、引くかもなぁ。野島さんって乙女チックな女学生みたいだよね」
「そ、そうか?恋をしたら、このくらい普通じゃないのか?」
「けど杉子さんだって、大宮さんへの手紙に『野島さまの妻には死んでもならないつもりでおります』『野島さまのわきには、一時間以上は居たくないのです』とか書いちゃってるよ」
「あーわかるわかる。野島ウザイですもん。杉子のこと勝手に妻扱いして、他の男と話してるだけで、『あんな女は豚にやっちまえ、僕に愛される価値のない奴だ』とか怒ってるし。こいつ何様?」
「だよね。杉子さんに、自分だけを頼って欲しいとか、自分は帝王で杉子は女王になるとか思い切りドリーム入ってるしね。これじゃ、杉子さん、逃げるって」
「そうそう」
急に意気投合する二人に、拓人先輩が必死に、野島の弁護を続ける。
「ええっ、そこが野島のいいところじゃないか!恋をすれば、人は頭の中でいろんなストーリーを組み立てて、ドキドキワクワクするし、同時に自信が持てずに落ち込んだりイライラしたり、子供みたいな八つ当たりをしたりもするさ。
大好きな人が自分を好きになってくれたら、きっと今よりずっと素晴らしい人間になれるし、世界を支配することだってできる。そんな、心が天に舞い上がってゆくような幸せな気持ちと、我に返ったときの泣きたくなるような不安。その間で、真剣に右往左往している野島って、とてもまっすぐで、素敵だと思うが」
笑顔の拓人先輩に、狩屋がきっぱり言う。
「いくら拓人先輩の意見でも、それは同意できません。こうゆう勘違い男は、甘やかしたら、つけあがるに決まってますよ」
「うん、僕もそう思うな。それに比べて大宮さんはクールで素敵じゃないかな。卓球で杉子さん負かすところなんて、かっこいいと思ったな」
「だね。大宮はいい奴だね。外国へ行くときの別れの言葉も泣かせるなぁ」
狩屋がしたり顔で頷く。
「そんな、二人とも、野島の魅力にも、気づいてあげてくれ〜!」
小説の登場人物のことで、よくこれだけ盛り上がれるものだと、俺は感心してしまった。三人の会話にはついてゆけず、シュウと二人でボーっと眺めていると、フェイが話を振ってきた。
「剣城とシュウは、どう思う?」
「…確かに野島は、空気を読めてないかもしれないが、大宮もいきなり同人誌に杉子との往復書簡を載せ、それを野島に読めって言うのはどうか…と」
ぶつぶつと呟いたとき、シュウが急に硬い声で言った。
「僕は大宮は、杉子を受け入れるべきではなかったと思う。たとえどんな理由があっても、自分を信頼している友人を裏切るような真似は、誠意ある人間のすべきことではない」
シュウの表情も、声と同じくらい厳しく張り詰めていた。宙を見据える瞳が、強く光っている。
思い切りのマジレスに、フェイと狩屋がぽかんとする。
俺も焦ってしまった。どうしたんだ、シュウ!
空気が白けかけたとき、拓人先輩がテーブルに手をつき、身を乗り出してきた。
「誠意ある立派な男性が葛藤するからこそ、文学が生まれ、ときめきが生まれるんだ。大宮が女垂らしのプレイボーイなら、杉子との往復書簡に、こんなにヤキモチさせられたりしないだろう。俺、このシーンが大好きなんだ。お豆腐もう一丁!いや、もう三丁!四丁!いいや、ありったけ持ってこい!生姜山盛りで!みたいな感じか?」
俺は額に手を当てた。
「その例え、難解すぎです、拓人先輩」
シュウは呆気に取られており、狩屋とフェイも困惑している。
拓人先輩は右手の人差し指を立て、それを左右に振りながら嬉しげに言った。
「簡単に言えば、おなかいっぱい、だけどまだ食べるぞみたいな?」
「わけわかりません。もういいですから、話を進めましょう。時間も無いですし」
「え、本当か!?」壁の時計を振り仰ぎ、目を見張る。「じゃあ、さくさくと配役を決めよう。やっぱり野島が剣城で、大宮がシュウか?」
「嫌です。主人公なんてできません」
俺は即座に言った。劇に出るだけでも気が重いのに、とてもそこまで付き合えない。
「えー、僕も妥当なキャストだと思うけどな」
「そうだよ。俺達なんかよりもシュウくんと剣城くんがやったほうが何かしっくりくるし。ぐだぐだ言わず、やりなよ」
「僕が野島をやろうか?」シュウが申し出る。
「それはダメだよ。大宮はかっこよくておおらかで優しく、みんなから好かれるイメージがあるし、シュウにぴったりだよ」
まあ、確かにイメージ的にはそうだな…。フェイの意見はもっともだと思ったが、それはつまり俺に対して優しくなくみんなから好かれないといわれているような気もした。
すると、拓人先輩が朗らかな声で言った。
「よし、わかった!文芸部の部長として、ここは俺が、野島を引き受ける」
「はあっ、拓人先輩が!?」
「うわぁ、男装の麗人?宝塚?」
狩屋とフェイが目を丸くする。だがフェイ、お前絶対それ、意味も判らず言っているだろ…。
シュウも驚いているようだし、俺も惚けてしまった。いや、拓人先輩みたいな人は、こういうときは男役よりも女役のほうが適任だと思うんだが…。
「任せておけ、"文学少年"の俺が、最高の野島を演じてみせよう。だから、シュウは大宮をやってくれ」
「はい、僕でよければ」
シュウが頷く。
「そうか、よかった。よろしくな、シュウ!俺、シュウには、どうしても劇に出て欲しかったから、シュウが来てくれたとき、やったと思ったんだ」
とろけそうな笑顔で、そんなことまで言う。やけに力がこもってるが、そんなに文化祭で客を確保したかったのだろうか。シュウは困っているような、恥ずかしそうな、曖昧な笑みを浮かべている。
「えっと、次はヒロインの杉子だな」
「はいはい、マサキがやるのがいいと思うな!」
「えっ、フェイ!?おま、なに言ってんだよ!」
狩屋が、うろたえる。
「絶対マサキならできると直感で思ったんだよね。そう思わない、神童くん?」
「でも、俺、その…演技とか…」
「フェイの言うとおりだな。マサキなら、きっと素敵な杉子になるな。やってくれるか?マサキ?」
拓人先輩に肩に手を置かれ、狩屋が真っ赤な顔で声を詰まらせる。俺のほうを二、三度ちらちらと見てから、恥ずかしそうな小さな声で、
「…は、はい」
とつぶやいた。
「狩屋、頑張れよ」
激励のつもりで声を掛けると、もじもじしていたのが急にきっと顔を振り上げ、「役を引き受けたのは、剣城くんとは関係ないからなっ」と、念を押された。
そのあと、フェイが杉子の友人で大宮の従姉妹の武子役で決まり、俺は野島の恋敵の早川をやることになった。それなら大して出番もないだろうと安堵していると拓人先輩にシナリオを書くよう厳命されたのだった。
「来週の月曜日までに頼むな。期待してるぞ、剣城」


――月曜日なんてあと五日しかないじゃないか。本当に後輩使いが荒い人だ。
解散後。
図書室で『友情』を借りて表に出ると、校舎の壁も、校庭の桜の木も、眩い夕日に染まっていた。波のように満ちてくる朱色と金色の光の中、寒々とした秋の空気を頬に感じながら校門を通り過ぎる。
すると、少し先のほうにシュウの姿が見えた。
赤い郵便ポストの横に自転車を止め、背筋をピンと伸ばして立っており、手紙を投函しようとしているようだった。鮮やかな夕焼けに染まった横顔が、どこか張り詰め、憂鬱な影を帯びているように見え、近づきかけた足が止まる。
「……」
シュウは長方形の白い封筒を、眉根を少し寄せ、切なそうな目で見下ろしていた。
しばらくそうしていたあと、手紙をそっとポストに投函し、自転車にまたがった。
「シュウ」
駆け寄って声を掛けると、ほんの少し恥じらいを含んだ顔で振り返った。
「今、帰りだったんだな?」
「うん。部活の方へ顔を出してきたんだ」
シュウが自転車から降り、そのまま夕暮れの道路を二人で並んで歩き出す。
俺は、気になっていたことを尋ねてみた。
「シュウ、本当に劇に出ることにしてよかったのか?拓人先輩のことなら気にすることなかったんだぞ?」
端正な横顔を向けたまま、胸に染み込んでくるような静かな声でシュウが呟く。
「ごめんね。心配をかけて。だけど、神童先輩に劇に誘われたとき、普段の自分と違うことをしてみたくなったんだ。いろいろと煮詰まっていたから、気が紛れてかえってありがたいよ」
「それ、成績のことか?」
息が少し、苦しくなる。
こんなこと、俺が訊いていいのか?踏み込み過ぎないように、微妙なバランスを崩さぬよう…薄い氷を踏むように不安定な、危うい気持ちで、慎重に言葉を選ぶ。
「もしかした他にも悩んでいることがあるんじゃないのか?たとえば、恋愛や家族関係…とか」
口にしたとたん、胸の鼓動が一層高まり、後悔した。
もし、不快感を示されたら…。だが、シュウは表情を変えなかった。
「何故、そう思ったんだい?」
「いや、どちらの話を全く聞かないなと思ってな。モテてるが、彼女とかいないのか?」
空野の顔が頭に浮かぶ。しっとりとした藍色の髪。真っ直ぐ見つめてくる空色の瞳。
――お願い。好きな子ができたのか、シュウに訊いてほしいの。
シュウはそういうのを隠せるような奴ではないと思う。だが。
「いや。彼女はいないし、家族関係もとくにはないよ」
答える声が、少し硬い。
「そうか、意外だな」
「そんなことないよ」
空野のことは知られたくないようだな。まあ、両親が離婚したというならば言いたくないのも当たり前だろう。
「剣城こそ、どうなの?」
「俺?そういうのは全く無縁だな。恋愛に関すれば、お前とは違って女子に呼び出されることもないしな」
「神童先輩とは仲がいいようだけど。恋人じゃないの?」
俺は、コケそうになった。
「やめろ。それだけは絶対に有り得ない。俺は拓人先輩のおやつ係―いや、パシリだ。いつもこき使われてるんだよ。後輩虐待だ。あの人は横暴だ」
そこだけは、はっきりと主張する。
「そっか…なら」何か口にしかけ、「いや、やっぱいいや」と呟く。
飲み込まれた言葉が気になった。俺に、何を訊こうとしたんだ。
「じゃあ、シュウはどんな奴がタイプなんだ?」
今度は少し遠まわしに訪ねてみる。シュウは考え込むように俯いた。
「…タイプっていうのは、特にないと思う。けど」
一瞬、口を閉じ、切なそうな眼差しになる。
「…相手の意外な一面を見せられると、気になってしまう。普段は強気で意地っ張りな人が、一人で泣いている姿を見てしまったときとか」
それは単なる譬えにしては実感がこもっていた。決して泣かないはずの勝気な奴が見せた涙に、シュウは心を揺らされた経験があるんだろうか…。
ふと、夏休みに入る前、病院のベッドで狩屋が見せたか弱げな顔が頭に浮かんだ。
いつもツンとしている狩屋が、目に涙を滲ませて俯いていたとき、俺は内心動揺した。あのときの狩屋を思い出すと、少し落ち着かない気持ちになる。
狩屋を好きになってしまったなど、そんなことはないだろうが…。
「剣城は?どんな人がタイプなんだい?」
不意に問われ、俺は答えに詰まってしまった。
陽炎のように頭に浮かぶ懐かしい、愛しい、人物のことを打ち明けるわけには行かず、胸が裂けそうになり、
「わからないな…」
無理にポーカーフェイスを貫き、呟いた。
空気はいつの間にか暗く冷たくなり、街灯に照らされたアスファルトに黒い影が浮かんでいる。あとは当たり障りのない会話をし、俺達は別れた。



【君への手紙は、何通目になるだろうね。
先日出した手紙では、感情的になって、きついことを書いてしまったと後悔してる。
君が今現在も、長く辛い戦いの最中にあるということを僕は失念していた。君は、世界の何もかもが自分に敵意を持ち、槍を冷たく閃かせて向かってくると感じてるんだろう。幾度も裏切られ、傷つけられ、最後の望みすら、最も近しい人間によって断ち切られてしまったから、この世に味方なんて一人もいないと固く信じてるのかもしれない。
君の強靭な意志と、火のような勝気さが、世界への憎しみと拒絶から来るものであることは、もうわかってる。今の君にとっては、憎しみこそが自らを立たせるために必要な杖だってことも。
それでも、君に憎悪に満ちた眼差しを向けられるのはたまらない。僕は君の手助けをしたいと、胸が潰れそうなほどに願ってる。君に会うことを避けている僕が、そんなことを言っても信じてもらえないかもしれない。だけど、僕は本当に君の味方になりたいんだ。
もし君が、あんな不誠実な行為を僕に望むのではなければ、僕は喜んで君の元に駆けつけるつもりだよ。
だからどうか、冷静になってほしい。ほんの少しでいいから、心を開いてほしい。
君が泣いているのではないか気がかりで眠れないと言ったら、君は怒って僕の頬を叩くかな。】




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