六章 上


〜六章・"文学少年"の主張 上〜


数日が過ぎた。
あの屋上での一件から虎丸とは一度も話さず、姿を見かけることもなかった。
昨日、狩屋に、「あの一年、最近来ないけど、別れちゃった?」と訊かれた。狩屋は頬を赤く染め、平然としているつもりなのだろうが落ち着かない様子で、声もどこか心配そうだった。
「もともとつきあってない。それに、相談役の必要がなくなったから、もう来ないだろうな」
「べ、別に、どうでもいいけどさ、ただ・・・・・・この間は少し・・・・・・言い過ぎたかなってさ・・・その・・・だからさ・・・・・・」
顔を上げ、目があうと狩屋はますます赤くなり、
「な、なんでもないっ」
と俺に背中を向け、早足で去ってしまった。
しかし、途中で足を止めたかと思うと、すごい勢いでこちらに戻ってき、
「だから・・・その・・・えと、や・・・・・・やっぱりなんでもないっ」
と叫ぶと走っていってしまった。
きっと、謝ろうとしたんだろうな。まあ、柄じゃないから抵抗があって言えなかったんだろうが・・・。
俺は毎日文芸部へ足を運び、拓人先輩のうんちくやら書評やらを適当に流しつつ、おやつの三題噺を書いている。
「今日のお題は、"ホチキス"と"遊園地"と"ラムしゃぶ"だ!制限時間はジャスト五十分。はい、すたーと!」
拓人先輩が、パイプ椅子の背に肘をついて身を乗り出し、カチリと銀色のストップウォッチを押した。上靴は脱ぎ捨て、椅子の上に膝立ちになっており、相変わらず行儀が悪い。
「"ラムしゃぶ"ってなんですか?」
「知らないのか?ラムの―つまり羊のしゃぶしゃぶだ。昨日ちょうど食べてな、臭みが全くなくて、舌の上でとろけるんだぞ。ちなみに、デザートは葡萄のシャーベットだったんだ。だからな、ラムしゃぶのようにとろけて、アイスのようにひんやり甘い作文を頼むな」
「わけわかりませんし注文つけないでください。まったく・・・というかラムしゃぶ食べれるとか、アンタ何者ですか。滅多に食べれないと思うんですが。だいたい、"ホチキス"と"遊園地"と"ラムしゃぶ"って、どうつなげるんですか」
「そ、こ、は、料理人の腕の見せどころだぞ。じゃ、期待してるからな」
「たまには自分で書けばいいのに」
すると拓人先輩は、人差し指を立て、真面目な顔をした。
「剣城、お前に先輩として、人生の真理をひとつ教えてやろう」
「なんですか」
「他人が作った料理は、自分が作ったものより十倍美味しいんだ」
「屁理屈です」
「でな、心のこもった料理は、さらに百倍美味しいんだ。これも本当だぞ」
うんと心を込めろよと言わんばかりに、パイプ椅子の背に頬杖をつき、ニコニコと笑顔になっている。
よし、決めた。ホチキスを背中にハリネズミのように大量につけた羊が遊園地に迷い込み、魔女にだまされ、ラムしゃぶにされる話にしてやろう。
五十枚綴りの原稿用紙にペンを走らせる俺を、拓人先輩がのんびりと眺めている。
「見られてると書きにくいんで、本でも読んでてください」
そう言うと拓人先輩はのんびりとした口調で返事をし、背を向けて部室にある古い本を読み始める。
しばらくの間、ペンを走らせる音と、本のページをめくる音だけが、狭い部屋の中を、埃と一緒にただよっていた。
ふいに拓人先輩が、俺に背を向けたままつぶやいた。
「なあ、剣城。虎丸どうしてるだろうな」
俺の手が一瞬止まる。
動揺していると思われるのは嫌だったので、すぐ続きを書きはじめる。
「さあ・・・・・・もう関係ないです」
「でも、まだレポートを提出してもらってないんだ」
拓人先輩が、くるりと俺のほうに振り返る。
「剣城、虎丸のところに行って、レポートを受け取ってきてくれないか」
俺は唖然とした。
「何を言ってるんですか。嫌ですよ、俺は」
「でもさ、契約が終わったら、レポートを書いてもらう約束だったんだ」
「そんなレポート食べたら腹壊しますよ!俺は嫌です!絶対に嫌ですから!そんなに食べたいなら、拓人先輩が自分で取り立てに言ったらいいじゃないですか」
拓人先輩が涙目になり、哀しそうな顔になる。
やばい。言い過ぎたかもしれない。
「・・・・・・剣城、虎丸は確かに、剣城に嘘をついてたかもしれないが、中には本当のこともあったんじゃないのか。
虎丸がどうしてあんなことをしたのか、剣城はまだ聞いてないだろ。このまま終わりにしてしまうのか?剣城もラブレターを書いていたとき、虎丸を助けてあげたいって思っていただろ」
「・・・・・・」
俺は無言で、三題噺の続きを書いた。
「できました」
原稿用紙を三枚、ビリッと切り離し、拓人先輩のほうへ差し出す。
「全部食べてくださいよ」

俺が書いたホチキスつきの羊がしゃぶしゃぶにされる話は、よほど奇怪な味がしたのだろう。三枚の原稿用紙を、拓人先輩は目から雫を落としながら、必死に飲み込んだ。
「うぅ・・・・・・マズ・・・・・・・いや、今のは心の声だ。と、とてもユニークな味で、こ、これはこれで、マズ・・・い、いや・・・美味い・・・・・・美味いんだ・・・うぅ・・・美味いと思えば、何とかなる、さ・・・・ぅぅ・・・・・・」


全くあの人は、本当に仕方がない。
あんな滅茶苦茶な文章で書いた珍妙な話を、よく全部食べきれたもんだ。
去年の春、俺が文芸部に入ったばかりの頃をもそうだった。
俺がわざと汚い文章で書いた、句読点が一切無い、"てにをは"無視のグロい話を、泣きながら一生懸命食べ、
「ごちそうさま、えっとな・・・句読点は、話しをするときに息継ぎをするタイミングで打つのがいいと思うぞ。あまり点が多すぎると逆にリズムが悪くなってしまうが、とりあえず最初はそうしてみろ。それと、体言止めはあまり多用しないほうがいいかもな」
と、バカ真面目に添削してくれたのだ。
何度意地悪をし、おかしな作文を書き散らしても、拓人先輩はそれを食べきり、翌日になると、
「部活の時間だぞ、剣城」
と、笑顔で俺を迎えにやってきた。
それはもしかすると、あの頃の俺が、自分の殻に閉じこもって他人と交流することを避けていたので、放っておけなかったからかもしれない。
天然で自己中で、自分の世界にどっぷりのお気楽な文学少年で、周りのことなんかてんで気にしてないように見えるくせに、拓人先輩はそういうお節介なところがある。
一年間拓人先輩と一緒にいて、感化されたのだろうか。
翌日の放課後、俺は虎丸に会うために図書館を訪れた。
「虎丸が、どんな理由で俺をだましたかって、どうだっていい。拓人先輩が食い意地を張って、虎丸のレポートを食べたいって言うから、仕方なく催促に来ただけだ」
そうつぶやきながら、地下の書庫に続く錆びた階段を、螺旋状に降りた。
カンカンという足音だけが、地下の静けさに飲み込まれてゆく。
最後の段を降り、突き当たりにあるドアをノックすると、警戒しているような声が返ってきた。
「は、はい」
「・・・文芸部の剣城だが」
「剣城先輩!ちょっ、ちょっと待ってください!」
中で本が崩れる音や、バタバタと移動する音や、ねずみの鳴き声や、それを「あっちに行けってば!」と追い払う声がし、少し沈黙があった音、ドアが開かれ虎丸がおずおずと顔を出した。
「あの・・・ど、どうぞ。ねずみ、もう行っちゃったので、平気・・・ですよ」
「・・・どうも」
うながされるまま足を踏み入れた。
書庫は以前来たときと同じように、古い紙からただよう甘い匂いがし、薄暗く埃っぽかった。
学習机のスタンドの明かりが、闇の中にぽつんと立つ街灯のように、淡く光っている。
「・・・拓人先輩が、レポートはどうなってるか聞いて来いって」
虎丸がうつむく。
「すいません。下書き、してたんですけど、読み返してみたら全然・・・使えなくて・・・俺、やっぱ文才ないみたいです」
なんと答えていいのかわからず黙っていると、虎丸がうつむいたまま、体をますます縮めて言った。
「剣城先輩にも拓人先輩にも嘘をついていて、本当にすいません。俺・・・探偵になってみたかったんです。毎日、平凡で退屈だったから・・・好きな人がいれば何か変わるかなと思って、つきあって、その子のことすごく大好きで充実してて幸せって思おうとしたんですけど・・・何も変わらなかった。はじめは楽しかったけど、慣れてきたらやっぱり、結局、こんなものかって・・・。
そんなとき、豪炎寺さんの手紙を、ここで見つけたんです。
読んでいるうちに胸が苦しくなって、涙がこぼれちゃいました。
世界の色が、全く変わってしまったみたいでした。
この人のことを、もっと知りたい。
この人に近づきたい。
そうすれば、今とは違う自分になれるかもしれない。こんな俺でも、ドキドキするような、わくわくするような、素敵な物語が訪れるかもしれない。
そんなふうに・・・思ったんです」
「・・・卒業アルバムの写真を切り取ったのも、お前なんだな」
「はい。豪炎寺さんのことを調べるうちに、豪炎寺さんが本当に自殺だったのかどうか知りたいという気持ちがどんどん高まって・・・。
放課後この部屋にこもって、一人あれこれ推理するのは、とても楽しかったです。本当に探偵になったみたいな気分でした。
それでやめておけばよかったのに・・・。
昇降口で、新入生勧誘のビラを配っていた剣城先輩を見たとき―あまりにも豪炎寺さんにそっくりで、息が止まるかと思いました。
そのとき、思ったんです。
剣城先輩を弓道部のOBに会わせることができたら、Hが誰かはっきりして、豪炎寺さんの死の真相もわかるんじゃないかって」
そうして虎丸は、拓人先輩が設置した恋愛相談ポストをダシにして俺に近づき、目的を遂げた。
豪炎寺さんは、ちゃんと存在しているんです!本当です。
繰り返し俺に訴えていた虎丸。
虎丸にとって豪炎寺修也という人物は、手紙でしか知らない幻の人でなく、血肉を備えた実在の人物だった。
虎丸は、そう信じたかったんだ。
それほど虎丸の中で、豪炎寺さんの存在は大きかった。
しかし今、虎丸はとても寂しそうだ。
「俺がバカなことをしたせいで、剣城先輩にたくさん迷惑をかけてしまってすみません。本当のことを知っても辛いだけで、なにも変わりませんでした」
哀しみが滲んでいる瞳を見て、俺は気づけば口を開いていた。
「虎丸・・・俺は、平凡な人生も悪くないと思うぞ。少なくとも俺は、そっちのほうが好きだ」
「そうですね・・・」
虎丸が寂しそうに微笑む。
そこから顔を上げ、急に明るい口調で言った。
「知ってますか?今日は豪炎寺さんの十周忌なんですよ。だからちょっと・・・最後の思い出にひたってたんです。でももう、俺行かないと。待ち合わせをしているので」
虎丸は笑顔を浮かべていたが、目が涙で滲んでおり、それがこぼれてしまわないよう一生懸命目を見開き、ときどき不自然なまばたきをした。
「じゃあ失礼します。剣城先輩とお話できて、嬉しかったです。会いに来てくれてありがとうございました」
「虎丸・・・レポートは無理して書かないくてもいいからな。気持ちのいい作業じゃないだろうし、書いてもなにも変わらないと思うからな・・・」
虎丸が一瞬、儚げな顔をし、またまばたきをして、少し上を向き、それからまた俺を見て、唇の端を持ち上げた。
「そうですね・・・書いても・・・きっと、惨めなだけなんですよね・・・・・・。なにも変わらないんですよね・・・・・・」
自分で言っておきながら、その言葉は俺の胸を刺した。
そうだ。書いたってなにも変わらない。
書くことは人を救わない。
虎丸がつぶやく。
「さようなら」
最後の笑顔は晴れやかだった。


カンカンと螺旋階段を上る虎丸の足音が遠ざかってゆくのを、俺は書庫で聞いていた。
雨の中、泣きながら俺に抱きついてきた虎丸を思い出す。
それから、中庭で恋人と楽しそうに昼食を食べていた虎丸の笑顔。
南雲さんと涼野さんは、豪炎寺修也を想いながら一緒に生きてゆくことを選んだ。
虎丸は、豪炎寺さんから卒業できたんだろうか。
これから先は、恋人と平凡におだやかに、日々を過ごしてゆくんだろうか。
それは虎丸にとって幸せなことのように、俺は思えた。
ただ、時間は過ぎていく。

太宰も『人間失格』で、そんなふうに言っていたな。時間の経過は、人間に平等を与えられた癒しであり、救いなのかもしれない。
メランコリックな気分になり、俺はただ立っているだけの本棚の間を歩き、タイトルを眺めていった。
知っているタイトル、知らないタイトル、かすれて読めないタイトル、様々なタイトルが、薄い闇の中、俺の視界の中を流れてゆく。
「あ・・・・・・」
そのタイトルを目にし、俺は足を止めた。
「『人間失格』・・・・・・」
ひょっとすると、豪炎寺さんの手紙が挟んであったのは、この本だったのか。
人差し指をひっかけ、抜き出してみる。本は箱状のカバーの中に入っており、カバーは黄色に変色し、茶色いシミがついていた。
「・・・硬いな」
なかなか本が出てこない。
思い切り力を込め、無理矢理引っ張り出したとたん、本と一緒にメモ帳のようなものが飛び出してきて、床に落ちた。
腰をかがめて拾い上げようとして、心臓が大きく跳ねた。
ハサミでそこだけ切り取ったかのような小さな写真が床に落ちており、そこに映っている男子生徒が、俺と似た顔で俺を見上げていたのだ――。
写真の横に、表紙の虎とサッカーボールの絵がプリントされた小さいノートが投げ出されている。
この写真・・・、卒業アルバムの写真か?それに、これは虎丸が持っていたノートだ。
何故こんなところに、隠すように置いてあるんだ。
よりによって、『人間失格』の中に。
これじゃあまるで――。
嫌な胸騒ぎがした。
広がってしまったノートを手に取り、細かな字で一面に隙間無く書いてある文章に目を走らせる。
最初の文を読んだ瞬間、足元に大きな穴が空き、そこに真っ逆さまに落ちてゆくような気がした。
しばらく読み進め、我慢できず最後の目ページを見たあと、俺は自分の愚かさを呪いながらノートを閉じ、駆け出した。




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