五章 中


〜五章・"文学少年"の推理 中〜


たく、こんなときまでなにを言ってるんだ。
コンクリートに額をつけながら俺は思いきり脱力した。どんなときでも拓人先輩は、いつも拓人先輩だ。
「そして、そこに転がっている奴の、優しくて頼りになる先輩だ」
自分で言うな・・・。南雲さんも、虎丸も唖然としている。
拓人先輩は灰茶色の髪を揺らし、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってきた。
「文芸部の部室に、南雲さんの恋人と友人が訪ねてきたんだ。南雲さんが来てないかって」
拓人先輩のあとから、OBのヒロトさんと涼野さんが現れる。それを見て、南雲さんは真っ青な顔で叫んだ。
「涼野――っ、ヒロト!どうしておまえらが」
涼野さんが目を伏せながら、答えた。
「君の様子が、ずっとおかしかったから・・・。まるで何かに怯えているみたいにしていた。そうしたら、今日、君の部屋を掃除していて手紙の束を見つけたんだ。差出人が豪炎寺になっていたから、驚いて中身を読んだ。だから、何かあるんじゃないかと心配で・・・・・・」
「俺は涼野から連絡をもらって、君が剣城君に―いや、豪炎寺君に会うために学校へ来てるんじゃないかと思ったんだ。君が、豪炎寺君を刺したんだね・・・。南雲」
ヒロトさんの声も苦しげだ。
「君が豪炎寺君にコンプレックスをもっていたことは薄々感じていたよ。けど、まさか、君が豪炎寺君を殺しただなんて。それがわかっていたら、俺は・・・」
ヒロトさんが涼野さんを見て、やりきれなさそうに唇を噛む。
恋人と友人―近しい人たちに、自分の罪をさらされた南雲さんが、絶望に震える眼差しで訴える。
「仕方なかったんだ。俺にはもう豪炎寺を殺す以外、平安を得る方法がなかった―」
そのとき、拓人先輩がもう一度、凛とした声で言った。
「いや、豪炎寺さんを殺したのは南雲さんじゃない。彼はHではない。Hは別の人だ」
「そんな!でも南雲さんは剣城先輩を見たとき、一番様子がおかしかったし、それに俺が出した手紙にも動揺してました」
虎丸が反論する。
「虎丸は、重要なことを見落としている。Hは、豪炎寺さんの敵であると同時に、一番の理解者でもあったんだ。俺は、虎丸が見せてくれたと手紙の最初の部分しか読んでないから、そこから想像してゆくしかないが、豪炎寺さんは、Hは自分のすべてを見抜いている、Hにだけは道化は通じないと繰り返し書き記している。
だからHは南雲さんじゃない。
豪炎寺さんを理解していたら、コンプレックスを抱いたり、うらやんだりする必要はないからな」
虎丸がうろたえる。
「じゃあ・・・・・・Hは誰なんですか?」
「俺はベーカー街の名探偵でも、安楽椅子に座って編み物をしながら事件を解決する物知りおばあさんでもない。ただの"文学少年"だ。だから、推理ではなく妄想―もとい、想像することしかできないが・・・。
豪炎寺修也は太宰治に傾倒して、自分の本当の気持ちを綴った遺書を、『人間失格』の中に残した。彼の手紙には、太宰治の影響があちこちに感じられる。冒頭の『恥の多い生涯を送ってきました』なんて、全くそのままだな。豪炎寺修也は『人間失格』を読み、『隣人の苦しみの性質、程度がまるで見当つかないのです』『人間を極度に恐れていながら、それでいて、人間を、どうしても思い切れず』、と語る、道化を演じることでしか人への求愛を続けることのできない主人公に、自分自身の姿を見出し、深く共感したんだと思うな。
『人間失格』には、主人公の道化が演技であることを見抜いた、二人の人物が出てくるんだ。彼らは全く正反対で、一人は主人公の中学時代の同級生の、竹一という少年だ。こいつはぶかぶかの服を着て、勉強もできず、体育はいつも見学している劣等生として描かれており、この警戒なんて必要なさそうな格下の少年から、主人公はある日、自分のおちゃらけた行動が、わざとであることを指摘され、世界が地獄の業火に燃えて包まれるような衝撃を受けるんだ。以来、そいつの友人となり、そいつの側にいて、そいつを見張ることにした。
もう一人は、主人公が心中に失敗して自分だけ生き残ってしまったときに取調べをした検事で、『正しい美貌、とでも言いたいような、聡明な静謐の気配』を持つ立派な人だった。彼に、瞬時に誤魔化しを見破られ、静かな侮蔑の表情を向けられ、主人公は『冷汗三斗』の恥ずかしさを味わうんだ」
青空の下、学校の屋上で、ウェーブがかった髪をなびかせながら、拓人先輩はしゃべり続けた。
その姿や口調には、なにか常識を超えた迫力がにじんでおり、誰も一言も口を挟むことなく、拓人先輩の講釈を聞いている。
「Hは、豪炎寺修也を崇拝していた者でも、豪炎寺修也をうらやんでいた者でもない。損得のない無垢な視線で豪炎寺修也を見ていた者、または豪炎寺修也を批判的に見ていた人間だ。
豪炎寺修也が常に側に置いていた人間。豪炎寺修也を見つめ、批判し、時には助言を与えていた人間。
豪炎寺さんが唯一頭が上がらなかったときいた人物がいます。
涼野さん。
あなたがHじゃないですか?」
涼野さんがその言葉を聞き、小さく息をのむ。
拳を作っていた手にさらに力を入れ、それから拓人先輩をまっすぐに見つめ返し、決意のこもった硬い声で言った。
「ああ。私がHで、吹雪も豪炎寺も、私が殺したんだ」


「涼野!」
「なに言い出してんだよ、涼野!」
ヒロトさんと南雲さんが、同時に叫ぶ。
南雲さんが、涼野さんに駆け寄った。
「バカなこと言ってんじゃねえ!豪炎寺は俺が刺したんだぞ!それに吹雪だって――。俺は吹雪がトラックにはねられて、血を流して道路に倒れるのを見ていたんだ!」
「けど、豪炎寺を引き止め、君が吹雪を送ってゆくようにし向けたのは私なんだ。それに、覚えてないか?私は君の相談に乗る振りをして、いっそ吹雪に強引に言ってしまったらどうと、けしかけもしたよ」
「な――」
南雲さんが声をつまらせる。
「豪炎寺に、『吹雪がどんな反応を見せるか賭けないか?』と、ささやいたのも私。豪炎寺は賭けに乗り、部の仕事で遅くなると言って、南雲―君に吹雪を送らせた。あのとき、私と豪炎寺は、こっそり君たちのあとをつけていたんだ」
「そんな――。じゃあ、吹雪がはねられたとき、お前らは――」
「ああ、見ていたよ。吹雪の体が宙を飛び、道路に叩きつけられるのも、君が慌てて逃げてゆくのも全部」
南雲さんは、完全に言葉を失ってしまった。
変わりにヒロトさんが、涼野さんを問いつめる。
「どうして、君がそんなことをしたんだ、涼野?君は豪炎寺君のことを、何を考えてるかわからない奴だと嫌っていたじゃないか。それに、あの頃、俺たちは――」
「ああ、私達、つきあっていたな。君は自信家で、真っ直ぐで、とても魅力的で、大好きだったよ。
反対に、豪炎寺は自分のことは何一つ口に出さず、全然わけがわからなくて、嫌いだった。
けど、ある日、あまりに頭にきて『君の言葉に、本当のことなんてひとつもない。君は、演技をして私達をだましてるんだろう』って言ってやれば、豪炎寺は、とても驚いて、泣き出しそうな顔をしたんだ。そんな顔が、ものすごく弱々しくて、寂しそうで、彼のこと放っておけなくなってしまったんだ」
ヒロトさんも南雲さんと同じように黙り込んでしまった。
拓人先輩がつぶやく。
「そうして、あなたは豪炎寺さんの理解者になり、彼のことを放っておくことができなくなってしまったんですね」
「そう。あれ以来豪炎寺は、私の前でだけは自分を誤魔化すことはしなかったから。自分の苦しみや哀しみを、私にだけ、打ち明けてくれた。豪炎寺みたいな奴から、そんなふうに心ごと寄りかかってこられて、人間は放っておくことができると思うかい?」
拓人先輩が哀しそうな顔をする。
「いいえ」
涼野さんは微笑んだ。
「・・・・・・豪炎寺は、ズルくて、どうしようもなくて、子供みたいな人だった。けど、優しくて、繊細な奴なんだ。放っておくわけにはいかない奴なんだ」
「偶然ですね・・・・・・。太宰治と玉川で心中した山崎富栄も、日記に書いていました。太宰先生はずるい。けれど、愛してしまいましたって・・・・・・太宰先生は好きにならずにいられないような方なのですって・・・・・・」
「そう。豪炎寺は『人間失格』が好きで、文庫がボロボロになるほど読み返していたよ。吹雪には、本は眠くなるから読まないなんて言っていたのにね。
豪炎寺は吹雪とつきあっていたけど、吹雪は豪炎寺のことが、全然わかっていなかった。そのことがしだいに豪炎寺の負担になったんだ。だから、私は南雲をけしかけて、吹雪を豪炎寺から引き離そうとした。
いや、もしかしたら、私がただ吹雪に嫉妬していただけかもしれない。
私の愚かな企みのせいで吹雪は事故に遭って死に、豪炎寺は罪悪感から、もともと危うかった精神のバランスを完全に失い、死にたい、死にたいと、そればかり言うようになってしまった。
豪炎寺は、吹雪のことで私を責めなかった。責められたほうが私は救われたのに、ただ無言で私を見つめた。その顔に、『俺を殺してくれ』って書いてあるのを見るたびに、私は追いつめられていった。
豪炎寺を殺すなんてできない。
けれど、彼は死にたがっている。
前からずっと死にたがっていたけれど、今は心からそれを望んでいて、死ぬことでしか苦しみから解放されないと固く信じている。
どうすればいいんだろう。彼の望みを叶えてあげるのが、私が彼を救える唯一の方法なのだろうか。
吹雪が死んでから一ヶ月が過ぎたとき、学校の机の中に、豪炎寺からの手紙が入っていた。本当の話がしたいから、屋上に来てくれと書いてあった。ついに決断しなければならないときが来たことがわかって、私は目の前が真っ暗になった。
行きたくなかった。
すっぽかして家へ帰ってしまいたかった。そうすれば、待ちぼうけをくらった豪炎寺は、バカなことを考えるのをやめてくれるかもしれない。
けれどもし、豪炎寺が一人で死んでしまったら。私が現れなかったことに絶望し、暗く惨めな気持ちだけを胸に抱え、屋上から飛び降りてしまったら――。
そんなことを考えたら、とても耐えられなくなて・・・・・・やっぱり行かないわけにはいかなかった」
「涼野さんが屋上へ辿り着いたとき、豪炎寺さんは、まだ生きていたんですね」
涼野さんがうなずく。
「屋上へ向かう途中、真っ青な顔で階段から駆け下りてくる南雲を見た。屋上のドアを開けると、豪炎寺が胸にナイフを刺したまま、コンクリートの上に座り込んでいたよ。泣いているみないな、笑っているみたいな顔で、私のほうを見て『なぁ、こんなんじゃ死ねない――。こんな浅い傷じゃ、俺の心臓を止めることはできない』そんなふうにつぶやいた」
黙って話を聞いていた虎丸が、喘ぐように問いかける。
「それから―どうしたんですか」
「『殺してくれ』って・・・・・言ったよ。まるで哀願するように『もう疲れた。もう俺を殺してくれ』って」
みんなが息をのむ。
涼野さんの声も、握った手も震えた。
「豪炎寺はよろめきながら立ち上がり、『ハンカチを貸してくれ』と言った。私が差し出すと、それをナイフの柄についた指紋を拭き取り、また私に返してよこした。そのまま鉄柵のほうへふらふらと歩いていったんだ」
ゆっくりゆっくり、鉄柵のほうへ近づいてゆく豪炎寺修也。
そこに、白竜の姿が重なった。
知っている――。俺も、その絶望に満ちた光景を、確かに見た。
ゆっくりゆっくり、白竜は死に向かって歩いてゆく。
そうして、白銀の髪を風になびかせ、振り返るのだ
「――豪炎寺が、振り返って私を見た。哀しい目だった」
白竜の目は、ひどく澄んでいて、寂しそうだった。
「『涼野。お前だけが、俺を殺すことができる。この期に及んでも、俺は人の心というものがわからない。何故、南雲が俺なんかをうらやむか、刺されるほどに憎まれなければならないか、少しも理解できない。吹雪が目の前で死んだことも、夕香が俺の元に向かう途中に死んだことも、これっぽっちも哀しいと思えないんだ。"死にたい、いっそ、死にたい、もう取り返しがつかないんだ、どんなことをしても、何をしても、駄目になるだけだ、恥の上塗りをするだけだ"なぁ・・・・・・この文章を、太宰はどんな気持ちで書いたんだろうな?俺は今彼に一番近いところに立っている気がするんだ。彼の気持ちが、俺にはわかる。こんな俺に、生きている価値はあるんだろうか。涼野、お前なら答えられるだろ。どうか教えてくれ』」
白竜は言った。
――剣城には、きっと、わからないだろうな。
「もう、私は豪炎寺の最後の望みを叶え、救ってやるしかない。
だから私は言っあげたんだ。
『君は、人間失格だよ』って」
俺は――なにも言えなかった。
声が出ず、足が動かず、白竜が言っていることが、少しも理解できず。
「豪炎寺は、今まで以上に優しく微笑んだよ。
ありがとうって言われてるみたいだった。
そうして、そのまま屋上から飛び降りたんだ。
私と太宰治が、豪炎寺を殺したんだ」
白竜は寂しげに微笑んで、頭から、仰向けに堕ちていった。
俺はなにもできなかった。
俺が、彼を見殺しにした――!
「もうやめろっ!」
空気を引き裂くような叫び声を聞いたとき、自分の声かと思った。
しかし、それは南雲さんの声だった。南雲さんはコンクリートの上に膝をつき、頭を抱えてすすり泣いていた。
「やめろ、そんな話は聞きたくねえ。俺が豪炎寺を殺したほうがマシだった。豪炎寺を野放しにできなかっただって?それじゃあ、俺は一体なんだったんだ。涼野、お前はどうして、俺を選んだんだ」
涼野さんは静かに答えた。
「私と君が、共犯者だからだよ。だから・・・・・・ヒロトではダメだった」
ヒロトさんが顔を引きつらせ、唇を噛む。
涼野さんは自分も膝を折り、南雲さんを抱きしめ、ささやいた。
「ねぇ、南雲。君は今でも豪炎寺のことを憎み続け、思い続けているだろう?一生、豪炎寺のことを忘れられないだろう?私もだ・・・私も、一日だって豪炎寺のことを忘れたことなんかなかった。これからも決して忘れたりしない。ずっと覚えてる。
もう、あきらめよう。南雲。私達は、同じ人物にとらわれてる。同じ罪を犯した共犯者だ」
「なら・・・これからどうやってお前と暮らしていけばいいんだ。まるで、地獄だ」
覆った手のひらの間から涙が零れ落ち、コンクリートの上にシミを作る。
その様子を、虎丸が、力がすっかり抜け落ちた表情で見つめている。
「私達は、一生地獄で生き続けるんだよ。大丈夫、覚悟を決めれば、どこでだって生きてゆくことはできる。
それに、この世でたった一人、私だけは南雲が豪炎寺にしたことを非難したりしない。南雲のことを卑怯者だとも思わないし、情けないとも惨めだとも思わないよ。むしろ愛おしく思う。そんなふうに考えたら少しだけ気持ちが楽になるだろ?
南雲。豪炎寺のことを思い続けながら、囚われ続けながら、私たちは普通に平和に暮らしていこう。これからもずっと地獄の中で生きてゆこう。それがきっと、豪炎寺への罪滅ぼしなんだよ」
南雲さんのすすり泣きが、屋上に響く。
拓人先輩も、虎丸も、ヒロトさんも沈黙している。
俺は――。俺はどうやって償えばいいんだ。
どうしたら癒され、救われるんだ。
白竜・・・・・・。答えてくれ、白竜。
「剣城!」
拓人先輩が俺を呼ぶ声がする。
それから駆けてくる足音と、顔に落ちてくる柔らかな髪と、抱きしめられる感触と、優しいピアノの音色のような香りと――。
それが最後だった。
俺は苦しさのあまり意識を手放した。




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