三章 中


〜三章・第一の手記〜豪炎寺修也の告白 中〜


謎は深まるばかりだった。
シュウにお礼を言い、弓道部を後にし、文芸部へ行くと、
「くしゅんっ」
くしゃみをする声が聞こえた。
部室の扉を開けると、拓人先輩が、箱からティッシュを引っ張り出して鼻をかんでいる。
「あ、やっと来たな剣城。くしゅっ!」
またくしゃみをし、鼻をかむ。
ゴミ箱の中は、ティッシュでいっぱいになっていた。
やはり昨日雨に濡れて帰り、風邪をひいたのだろう。
「・・・傘、ありがとうございました」
「どういたしまして。俺も剣城の傘、ロッカーに返しておいたから。いままでありがとう」
俺が傘をおずおず差し出すと、笑顔でそう返してくれた。
風邪の理由を尋ねると、風呂に入りながら本を読んでおり、夢中になりすぎて水風呂になっていたことに気がつかなかったと言った。まったく、この人は・・・。
こちらも遅かった理由をきかれ、弓道部に言ったことを話した。
そして、昨日の放課後、泣いている虎丸に会ったことや、弓道部に豪炎寺修也という名前の人はいなかったことを、説明した。
拓人先輩は絶句すると、思いついたように言った。
「そうだ。図書室のパソコンで、全校正の名簿を見ることができるはずだ。行ってみよう」

その後図書室に行き、カウンターにいた狩屋に睨まれながらも俺達はパソコンコーナーへ向かった。
拓人先輩は機械が使えないらしく、俺が検索することになったのだが、結果に俺達は言葉が出なかった。
フルネーム、名前、苗字。全て該当なしだったのだ。
つまり、豪炎寺修也という人間は、弓道部だけではなくこの学校に存在していないのだ。
翌日、いつもどおり俺に手紙をもらいに来た虎丸にそのことを話した。
すると虎丸は豪炎寺さんはいると真剣に訴え、俺に豪炎寺さんが書いたという手紙を渡し、去って行った。
豪炎寺さんも虎丸も、一人で抱え込むのは限界で、助けを求めていたのかもしれない。だから虎丸は俺に手紙を渡したんだろう。
手紙を読んでしまったら、やっかいなことになるとわかっていた。
今、ここで手紙を読むという行為は、虎丸の相談に乗り、虎丸を助けるという意思表示に他ならない。
波乱のない平和な毎日、それが俺の一番の望だ。
他人のやっかいごとにこちらから関わるなんて、愚かなことだ。すまない、俺には荷が重すぎるし役に立てそうにない。そう言って立ち去るのが正解だ。
しかし、もう遅いみたいだ。豪炎寺修也という人が実在するのかどうか―何故こんなすれ違いが起こったのか、俺も知りたくてたまらなくなっていたからだ・・・・・・。
受け取った便せんを開くとき、指先が痺れ、すえたような甘い匂いがした。


『恥の多い生涯を送ってきました。
俺には、人間というものが、見当つかないのだ。
優しさとか、愛しさとか、哀しさとか―誰もが当たり前のように有している感情が』

『俺は道化の仮面をかぶった。必死に害のないやつだと思われようとした。けれど、嘘に嘘を重ねるごとに、心はすり減ってゆくばかりだった』

『あの日、俺は、人を殺めた。
やわらかな肉が、押しつぶされ、甘いような酸っぱいような香りのする赤い血が、黒いアスファルトに上に広がってゆくのを乾いた心で眺めていた。
俺は、人間を、殺しました。
神様も、もう俺を助けてはくれないだろう』


「『人間失格』だな」
放課後の文芸部。
手紙を読み終えるなり、拓人先輩は断言した。
「『人間失格』って、太宰治のですか?」
「ああ。"恥の多い生涯を送って来ました"これは『人間失格』の主人公の手紙の冒頭の引用だ。他にも、『人間失格』をなぞっている文章が、いくつもあるな」
そこまで言って、くしゅんっ、とくしゃみをひとつする。
一晩たってだいぶ回復したみたいだが、まだだるそうだ。目をうるうるしている。
「なら、この手紙に書いてあることは本当のことじゃなく、『人間失格』のパロディなんですね」
そうであってほしい。虎丸から受け取った手紙を読んだとき、内容のあまりの異様さと救いのなさに真っ暗な闇の中に放り出されたような気がした。
それは豪炎寺修也という少年の凄絶な告白であり、懺悔だった。
豪炎寺は幼少の頃から、他人と気持ちを共有することができなかった。
何故、好きと思うのか。
何故、嫌いと思うのか。
そもそも、好きとはどういうことなのか。嫌いとはどういうことなのか。
自分自身に近い人間が亡くなり葬式があり、みんなが泣いている。けれど自分は少しも哀しくない。友人が転校して遠くへ行ってしまう。みんなが別れを惜しんでいるが自分は全く心が動かない。子犬や赤ん坊を見て、みんなが可愛い可愛いとかまう様子も理解できない。そんなことを積み重ねるうち、自分は人間ではなく呪われたお化けだと思うようになっていた。
他者の理解しうるものを理解できない恐怖。絶望。苦渋。
もし、自分がお化けであることがばれたら、他人はどう思うだろう。
そんな恐れから道化を装い、懸命に他人に愛されるように努めた。
周囲の人間は豪炎寺に魅了され、彼は人気者になったが、心の中に常に強烈な羞恥を抱き、もがき苦しんでいた。
嘘をついていることが恥ずかしい。人でないことが恥ずかしい。豪炎寺修也は手紙の中で繰り返しそう訴えている。

『恥ずかしい。
俺は、恥ずかしい。
生きていることが恥ずかしい』

一人だけ、豪炎寺の道化が演技であると見抜いた人物がいた。
豪炎寺は、その人をHと表記しており、自分の理解者であると同時に、自分に破滅をもたらす危険な存在であると書いていた。

『ただ一人、Hだけは、俺の道化に気づいていた』
『いずれ俺は、Hによって破滅を迎えるだろう』
『ある日Hは、俺にこう囁いた。
きみは彼のことを、心の底から誠実に愛しているのかと』

手紙はここで終わっている。
彼が誰を指すのかも、Hが誰かということもわからない。
豪炎寺がHにどう答えたということも。
手紙を読み終えたとき、なんともいえない胸苦しさを感じた。それは以前にどこかで経験したことのある感覚だった。拓人先輩の言葉を聞いて、俺は納得した。
(そうか、あの手紙の冒頭は『人間失格』だったのか)
小学生のとき、俺も太宰治の代表作であるその本を読んだことがある。暗いタイトルだなというのが第一印象で、何故手に取ったのかといえば、夏休みの読書感想文の課題図書だったからだ。四冊の本の中から一冊を選んで感想を書くことになっており、背伸びしたい年頃だったこともあり、一番難しそうなこの本にしたんだ。
しかし小学生の俺は、主人公の苦悩を理解するには未熟すぎだった。主人公の鬱々とした告白がずっと続くよくわからない話という印象しか持てず、結局感想文も別の本で書いて提出した。
もうずいぶん昔のことなのに、頭の奥に当時読んだ文章が残っていたらしい。それで豪炎寺修也の手紙を読んだとき、以前同じ内容のものを読んだことがあるような気がしたのだ。
「うぅ・・・この手紙が全て太宰のパロディとは言い切れないな。『人間失格』をなぞりながら、自分の本当の気持ちを誰かに知ってほしくて書いた手紙のように、俺は思えるんだ」
「じゃあ、人を殺しましたっていうのも、本当なんでしょうか。それと、死にたい、死にたいって訴えてる部分も」
「殺したのが本当だったら大変だぞ」
どちらにしても豪炎寺修也は『ちょっと悩んでるみたいなんです』どころではない。早急に助けが必要だ。人を殺しました云々という部分が妄想だとしても、そんな妄想を書き連ねる時点で危ない人であるし、ここまで自分自身に絶望し、自分を嫌悪し痛めつけながら、人は生きていけるものなのか。
「太宰治は『人間失格』を書き上げた一ヵ月後くらいに自殺したんですよね。それ、ヤバくないですか?」
この手紙も、まるで遺書のように思える。豪炎寺修也はどういうつもりで、こんな手紙を虎丸に渡したのだろう。
拓人先輩はパイプ椅子の上で膝を抱えると、考え沈んだ。
「太宰治の『人間失格』は、『はしがき』と『第一の手記』と『第二の手記』『第さんの手記』『あとがき』から構成されていて、当時、雑誌『展望』に六月号、七月号、八月号の三回に渡って連載されていた。物語のプロローグである『はしがき』と、主人公葉蔵の幼少時代を告白した『第一の手記』が掲載されたのが五月。そのおよそ一ヵ月後の六月十三日に、愛人の山崎富栄と玉川上水に身を投げたんだ・・・。連載の二回目が発表されたのは、川で遺体を探している最中で、二人の遺体が引き上げられたのが六月十九日。『第三の手記』と、エピローグにあたる『あとがき』が発表されたのが、さらに一ヵ月後の七月。『人間失格』は、まるで太宰の人生をなぞったかのような内容だった。
田舎の名門旧家に生まれた主人公が、他者と違う自分に恐れと羞恥を抱き、自分を偽り道化を演じ、やがて危険な社会運動に身を投じてゆく。けれどそれも中途半端でしかなく、自分で自分に嫌気がさし、絶望から逃れるために退廃的な生活を続ける。
そんな中でカフェの女給と心中騒ぎを起こし、相手は亡くなり自分だけが生き残り、絶望と自己否定に陥り、それでも自分に無垢な信頼を寄せてくれた清純な娘を妻にし、ささやかな幸せを得たけれども、結局、貧困と内省と退廃の日々に逆戻り。
妻もその無垢ゆえに汚され、主人公は次第に薬に溺れ、友人達によって脳病院へ送られ、廃人同然となる―。
作者の太宰治も、青森の大地主の家に生まれ、社会運動に参加するが、所詮自分は裕福な家のお坊ちゃまでしかないことに悩み、カフェの女給と心中未遂を起こした。
このとき太宰は助かったけれど、相手は亡くなってしまったんだ。そのあと、故郷から呼び寄せた芸妓の小山初代と結婚するが、彼女の過ちを知って衝撃を受け、また心中未遂。パビナール中毒になり、武蔵野の病院に入れられているんだ。
退院後に『人間失格』の前身に当たる『HUMAN LOST』を書き上げ、その直後に妻の初代と服毒自殺をくわだてたが、これも未遂に終わっている。
それからあとの太宰は、多くの素晴らしい物語を書き上げ、流行作家として華々しい活躍をするんだ。そうしておよそ十年の歳月を経て、あらためて『人間失格』を完成させたんだ。けれど、そのすぐあとに心中し、今度は太宰も相手の女性も助からなかった。そんなことから『人間失格』は太宰治の遺書と言われたんだ」
拓人先輩が、中に浮かせていた視線を俺にあてて問う。
「剣城は、太宰治の作品を読んだことがあるか?」
「『人間失格』は読みました。あとは教科書に載っていた『走れメロス』とかくらいですかね」
「『走れメロス』を国語の教科書に載せるのはどうかと、俺的には思うな。確かにいい話だが・・・なんかちがうんだ。くしゅんっ!くしゅんっ!」
しゃべりっぱなしの反動か、立て続けにくしゃみを連発する。
「大丈夫ですか」
「ぐす、平気・・・ずずっ。それで、剣城は太宰を読んでどう思った?」
「よくわかりませんでした。モノローグばかりで重苦しい話だな・・・と。あ、『走れメロス』は熱血してたな。ラストがご都合主義で、感動するよりぽかんとしましたけど。けど、なんだか作者に話しかけられているような感じで」
「そう、そこが太宰の作品の魅力にひとつだ!」
ティッシュで鼻をかみ、まるめてゴミ箱に入れ、拓人先輩は熱っぽい口調で再び語りだした。
「太宰の作品は、まるで作者自身に語りかけられているような親近感と臨場感があるんだ。イスカリオテのユダを題材にした『駆け込み訴え』なんか口述筆記で、あれだけの文章でほとんどつっかえることなく立て板に水状態でしゃべりっぱなしだったというからすごいよな。この潜在的二人称が生み出す太宰の最大のマジック。それは、作者の作品への"共感"だ」
「共感?」
「ああ。太宰は好き嫌いがわかれる作家で、暗いとか重いとかうじうじしているから読みたくないという人もいるが、好きな人にとってはとことんハマってしまう魅力を持った作家なんだ。太宰の死を悼む年に一度の桜桃忌には、今でも大勢の人たちが参加しているんだ。ファンの熱烈さでは他の文豪より頭一つ飛びぬけているんじゃないかと俺は思うな。
何故、太宰がこれほど愛されているのか、それは、読み手が太宰の作品の中に自分の悩みや痛みを見るからだ。
ああ、この気持ちはわかる。自分もそうだった。この人は自分と同じだ・・・・・・・・・本を読んでそんなふうに思ったことがあるだろ。
太宰の作品には、そんな共感を呼び起こす魔法があるんだ。
誰だって、理解されたいし、自分をわかってほしいと思ってる。
人と違うことはとても怖い。孤独は寂しくて辛い。太宰の作品は、そんなとき、心に直接ささやきかけてくるんだ。本のページをめくりながら、ああ、これは自分のことだ。この主人公は自分自身だ・・・そんなふうに思ってしまうんだ。
生前太宰のもとへは、読者から悩みを打ち明ける手紙や日記がたくさん届いたそうだ。それにアレンジを加えて書いた話もあるぞ。平凡な少女の一日を綴った『女生徒』なんか元になったもののほぼそのままなんだぞ。太宰の作品に影響を受けて、文体までそっくりだったから、そのまま太宰の作品といっても通用するくらいだったんだぞ。」
「豪炎寺修也も、『人間失格』に共感して、こんな手紙を書いたんでしょうか」
「そうかもしれないな。彼にとっては『人間失格』の主人公が、自分自身であるように思えたのかもしれないな。太宰の文学はそこが魅力的で、そして、怖いんだ・・・。落ち込んでいるときに読んだら、どんどん真っ暗な海に引きずりこまれてしまう・・・・・・」
豪炎寺修也も、太宰に魅せられ、ひきずりこまれてしまったのだろうか。
「だが、この手紙、途中ですよね。『人間失格』みたいに、第二、第三の手記があるんですかね」
「くしゅんっ、そんなんだったら、第二の手記を読む前に悩みを解決してやらないと、心中してしまう」
「縁起でもないコト言わないでください」
「でも、手紙を読むとだいぶ追いつめられてるみたいだし・・・俺、おなかがすいててもこの手紙は食べる気にはなれないな。食べたら毒を飲んだみたいになって、俺も死にたくなっちゃいそう」
拓人先輩がぶるっと震えた。
「Hっていうのは誰なんでしょう。それと彼っていうのは・・・虎丸のことなのか。それ以前に、豪炎寺修也は一体どこにいるんでしょう」
「そうだな。そこが一番問題だな。早く豪炎寺さんを見つけて、彼が心中とか殺人とか本気で考えてるようなら止めなくちゃな」
「結局・・・・・・手がかりは、虎丸しかないんだな・・・」



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