九章 上


〜九章・お前が空を見ていたころ 上〜

外は、炎のような夕日に染まっていた。
病院の前に、黒塗りのリムジンが止まっており、俺たちは拓人先輩に言われるまま、それに乗った。
俺と、拓人先輩と、白竜と、シュウと狩屋の五人が辿り着いたのは、郊外にある天文台だった。真っ暗な木々に囲まれたドーム上の建物は、プラネタリウムらしい。閉館の札が下げてある扉を押し、拓人先輩が入ってゆく。
泣きすぎて真っ赤な目をした白竜は、もらわれてきた子猫のように体を縮め、俺にしっかりとしがみついて歩いていた。その後ろを、狩屋とシュウがついてくる。二人とも緊張しているのか、表情が硬い。
俺も困惑していた。
拓人先輩がなにを考えているのかわからない。
聞きそびれてしまったが、白竜と拓人先輩が電話で話したことがあるとは、どういうことなんだ…?
上映室の中は、夕日が落ちたばかりのような透明な藍色に染まっていた。丸い屋根に、ぽつぽつと浮かぶ星も、まだ淡く小さい。同心円状に並ぶ座席の中央に配置された投影機は、宇宙へ飛び立とうとしているロケットのようだった。
「いらっしゃい、神童」
下のほうで二つに結われた桃色の髪を揺らし、華やかな雰囲気で霧野先輩が出迎える。
学校の理事長の血縁者で情報通の彼は、少々変わり者で、普段は学校の音楽ホールの最上階にあるアトリエで、趣味の絵を描いている。また、拓人先輩に執着しており、ヌードモデルになってほしいと、熱烈なアプローチをしていた。
「言われたとおりに準備したぞ。これで前回の分とあわせて、貸し二つだな。卒業前に、きっちり支払ってもらうからな。体に青痣とか生傷とかつけたら嫌だぞ。もっとも、それはそれで官能的かもしれないけどさ」
拓人先輩のウェーブがかった髪を指先ですくい、怪しく微笑む。
拓人先輩が頬を赤くし、あたふたする。
「そ、その話は、受験が終わってからと言っただろ。えっと…天馬はまだなのか」
霧野先輩は口をへの字にゆがめ、少し不機嫌そうな顔になった。
「あの放浪野郎なら、とっくに恋人と一緒に来てるよ。ほら――」
指し示した先に、上のほうのシートに腰かけた松風が見えた。
松風はフェイを膝に乗せ、大事そうに髪を撫でていた。そうして顔を寄せ、囁きかけているようだった。
フェイは松風の胸にもたれたまま、ぴくりとも動かない。透明な闇の中に浮かぶ表情は人形のように虚ろでまばたきすらしておらず、まったく精気が感じられない。
そんなフェイを見て、寒気がした。
拓人先輩から、フェイの様子は聞いていたが、ここまでひどいことになっていたとは…。
白竜が俺の腕にぎゅっとしがみつき、掠れ声で呟く。
「…あいつ、どうしたんだ」
フェイの姿にショックを受けているようで、目に恐怖を浮かべ小さく震えている。
狩屋もシュウも、表情を硬くこわばらせている。
「天馬」
拓人先輩が呼びかけると、松風が俺たちのほうを見た。
拓人先輩に向かって陽気に笑いかけ、またフェイになにかを囁き、腰を支えて立たせ、肩を抱いたまま通路をおりてくる。
「久しぶり、剣城。狩屋も、無事退院したみたいでよかったね」
松風の声も表情も、俺たちが戸惑うほど普段通りであった。
「松風、フェイは…」
フェイは、まったく俺たちには関心を示さず、宙を虚ろに見つめたまま、無言で松風にもたれている。
「こっちの声は、聞こえてはいるみたいなんだけど…反応できないみたいで」
みんな、シンとしてしまう。松風はフェイの頭を抱き寄せ、からりと笑った。
「まあ、人より少しデリケートな子には、よくあることだよ。そのうち、けろっと直るよ。なんとかなるさ。ね、フェイ」
その言葉も、フェイの頭を撫でる手も、強く明るかった。
拓人先輩が、フェイに優しく微笑みかける。
「今日は、フェイに気分転換してもらおうと思って、天馬に連れてきてもらったんだ。楽しんでいってくれ」
「……」
フェイは、やはり黙ったままだった。
拓人先輩は、俺たちを席に座らせ、投影機の前に立った。
俺の右に白竜が、左に狩屋が座る。どちらの表情も硬い。シュウは白竜の後ろの席に着き、そこから横に二席ほど空けて松風とフェイが、さらにやや離れた斜め上の席で、霧野先輩が、尊大に足を組む。
照明がだんだんと暗くなり、天井に散らばる星の数が増えてゆく。
投影機を照らす淡いライトが、空からこぼれる月の光のように、拓人先輩の姿を浮かび上がらせた。
心地よいやわらかな声が、透明な闇の中に流れる。
「これは、岩手県の種山ヶ原から見上げた星空だ。
作家の宮沢賢治は、盛岡高等学校の三年生のとき、地質調査のためにこの地を訪れたんだ。
当時賢治は友人たちと、同人誌『アザリア』を創刊したばかりで、毎日が充実しており、未来への理想と希望に溢れていた。そんな人生でもっとも幸福な時期に見た、美しい自然に深い感銘を受けた賢治は、その後の創作活動の中で、種山ヶ原を題材にした作品をいくつも書いたんだ。たとえばこの詩は、四つのパートからなる未決定稿で、八年後の大正十四年の作品だ」
拓人先輩が賢治の見た光景を浮かべるように目を閉じ、詩の一部を暗唱する。
「『海の縞のやうに幾層流れる山稜と
  しづかにしづかにふくらみ沈む天末線
  ああ何もかももうみんな透明だ』」
伏せていたまぶたをそっとあげ、小さく微笑み、話を続ける。
「賢治の代表作『銀河鉄道の夜』も、この地から生まれたといわれている。
頭上に輝く満点の星々が、銀河ステーションと、そこから出発する列車を連想させたのだと。『銀河鉄道〜』を読んだことがない人も、あらすじくらいは耳にしたことはあるんじゃないだろうか。
主人公のジョバンニは、病気の母を助けて働きながら学校に通っているんだ。
ジョバンニには、カムパネルラという幼馴染がいたのだが、成長するにしたがい二人の間には距離が生まれてしまい、最近は口をきくこともできなくなっていた。
お祭りの夜、カムパネルラは友達に囲まれて川へ烏瓜の明かりを流しにゆくのだが、ジョバンニはひとりぼっちだった。
だが、気がつくとジョバンニは、銀河を走る列車の中にいたんだ。そこでは、カムパネルラがジョバンニを待っていた。二人は一緒に銀河鉄道の旅へ出かけるんだ」
頭上を覆う丸い空が、また少し暗くなる。
「ジョバンニとカムパネルラには、モデルがいると言われている。
内気で孤独なジョバンニは賢治自身で、カムパネルラのモデルについては、いくつか説があるが、一般的に賢治の妹のトシだと言われているな。
トシは賢治より二つ年下で、学校では常に主席の優等生だったそうだ。賢治はトシが自慢で仕方がなかったし、トシも兄の賢治を慕っていた。二人は大の仲良しで、トシが東京の学校に進学して離れている間もずっと手紙のやり取りを続けていたそうだ。
十八歳のとき法華経に目覚めた賢治は、熱心な浄土真宗の信者である父と対立を深めていった。トシはそんな賢治を理解し、家族の仲で唯一法華経の教えを信じ、賢治の支えになってくれていたんだ。賢治にとってトシは、妹である以上に、世界や思想を共有できる無二の存在だったんだ」
拓人先輩は、なにを語ろうとしているのだろうか。
心の中に、もやもやした霧が広がってゆく。けれど、澄んだ声や優しい眼差しに惹き込まれ、聴き入ってしまう。
白竜もこわばった表情のまま、拓人先輩を見つめている。
「ジョバンニとカムパネルラもそうだったな。賢いカムパネルラは、ジョバンニにとって、まぶしい憧れの存在であり、あたたかな過去を共有する相手であり、どこまでも一緒に行きたいと願った大事な道連れだった」
拓人先輩が、おだやかな目で微笑む。
「二人の関係は、白の小説に登場する二人の主人公にも、少し似ているな」
白竜が、びくっと肩を揺らす。
隣で狩屋も、身じろぎしたようだった。俺も口の中が渇くのを感じながら、息をつめた。
「この場合、少女がジョバンニになるだろうか。少女は物語の語り手で、中学二年生の少女だ。幼馴染の少年が大好きで、一緒に登下校をしたり、学校の近くの図書館で宿題をしたりし、ささやかで幸せな毎日を過ごしているな。
少年は、青空の似合う明るい少年で、少女にいつも自分が書いた小説を読んでくれるんだ。少年の夢は小説家になることで、少女はそれを応援していた。少年ならきっと本物の作家になれると」
白竜が、震える指でシートを端をつかむ。目に、ひりひりするような苛立ちが、にじんでゆく。
「少女と少年にも、ジョバンニとカムパネルラのように、モデルがいた。
現実の世界では、二人とも少年だった。そうして、小説家として華々しくデビューしたのも、少年ではなく、少女のほうだったんだ」
憎悪をむき出しにした眼差しが、拓人先輩に向けられる。拓人先輩はそれをまっすぐ見つめ返し、言葉を続けた。
「―その結果、二人は離ればなれになり、少年はもうひとつの物語を、少女の書いた物語の上に綴りはじめた。それは、少女の世界を否定するような、憎しみと痛みと絶望の物語だった」
白竜は、視線で拓人先輩を殺しかねない勢いだった。刺し貫くような張り詰めた空気が、隣にいる俺の皮膚にも突き刺さる。しかし、拓人先輩は引かない。
「それだけではない。少年は現実の世界でも、少女の復讐を開始したんだ。
少年は体を壊して入院していたから、自分では動くことができなかった。だから、少女のクラスメイトを利用しようとした。しかし、彼は誠実な少年で、少女の親友になり、試みは失敗に終わってしまった。それでも少年は諦めなかった。今度は、少女の近くにいる人間にターゲットを変え、その人に接触を試みた。
そんな中、少年に意外な協力者が現れたのだ」
「!」
白竜が息を呑む。
協力者…!?
一体、誰のことを言っているんだ?シュウ?狩屋?いや有り得ない。二人とも、白竜を俺から遠ざけようとしていた。
では、誰が――!
不穏な予感に、胸が重くなる。拓人先輩が問いかける。
「『銀河鉄道の夜』にブルカニロ博士という、謎の人物がいることを知っているか?
この博士は、現存する初稿と第二稿、第三稿までは存在していたが、その次の完成稿では、いなくなってしまう。彼は物語の最後に登場し、ジョバンニの旅が自分の実験であったことを語り、ジョバンニに未来への道を示すんだ。少年が書いたもうひとつの物語の中にも、ブルカニロ博士にあたる人物が登場するな。正確には、物語の空白に書かれた、走り書きのメモに――」
拓人先輩の言葉に導かれるように、ブルカニロの実験と書かれた赤い字が、脳裏に浮かんだ。
そう、確かにそんな言葉がメモの中にあった。それから、Bに関する記述。
"うるさい、B!""黙れ、B!""指図をするなB!"
BはブルカニロのBだったのか…!
「繰り返し出てくるこのBは、少年の計画を助ける一方で、頻繁に電話をかけ少年を苛立たせ、追いつめてもいる。Bは、少年の味方だったのか?敵だったのか?どちらにしても、現実に起こった出来事の裏には、すべてBの姿がちらついている」
拓人先輩が知的な眼差しを、俺と白竜のほうへ向け告げる。
「剣城が、病院で白竜に再会したのは、偶然ではない。
そのあと、病室で白竜の母親と剣城が、はちあわせたことも――。
二ヶ月に一度しか現れない白竜の母親は、何故、あの日病院へやってきたのだろうか?メモには、Bを裏切り者と罵る記述があった。そのことからも、母親を呼び寄せたのは、Bではないかと、俺は"想像"するんだ」
心臓が、ぎゅっと縮まる。
誰が、俺を、白竜のもとへ呼び寄せたのか。
俺と白竜の母親をわざわざ会わせ、白竜が隠していた憎しみを爆発させたのか。
狩屋が入院したことを、最初に俺に知らせたのは誰だったか。
白竜の母親と会った前の日に、俺に狩屋の見舞いに行ってくれと頼んだのは誰だったか――。
記憶を辿る俺の首筋を、冷たい手が撫でてゆく。
「俺があの日、マサキのお見舞いに行って、ロビーで剣城と会ったことも、きっと偶然ではないだろう。剣城のパソコンに、"少年の物語"を送りつけたのも、Bではないだろうか?あれだけのページをスキャンして送りつける余裕は、あのときの白竜にはなかっただろうし、そのための機材を用意することも、白竜一人ではできない」
拓人先輩の視線が、俺たちの上のほうに注がれる。
まさかという思いに、息が苦しくなる。
「Bは誰なんだ?Bの目的はなんだったんだ?天馬、お前は知っているな」
後ろで、したたかな声が応じた。

「うん。最初に、フェイと白竜を引き合わせたのは、俺だから」






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