▼ 第五楽章〜動き出す物語〜
王の間でリュッフェルデン16世は自分の他に誰にも聞こえぬように声を潜め、言葉を紡いでいた。
普段であれば威厳に満ち、迷うことなく命を下すその声は動揺によって微かに震え、空気に溶けいるようであった。
「では、予言は動き始めたのか?」
彼が語りかける者の姿は見えない。ただ老いが見え始めた手のひらに光輝く紫の蝶が一匹、翅を休めるように止まっているだけ。
≪ええ。予定通りに。これでこの国はあと幾千年は栄え、世界の終わりまで存続するでしょうねぇ≫
その蝶から妖艶な女の声が響いた。幻影の魔女ファフニールが魔術で作り出した蝶を媒体として声を王に伝えているのだ。
魔女はまるで愛する人に歌を歌うように愛らしく言葉を発する。子供のように無邪気で、透明な声を。
「……では、犠牲はもう用意されてしまったのだな、魔女よ」
≪勿論ばっちりよ。貴方の国のため、栄光のために舞台は整ったわ。後は時が来るのを待つだけ……≫
「皮肉なものだな……」
深く深く、まるで魂を吐きだすかのようにリッフェルデン16世は息を吐いた。白くなり始めた眉を寄せ、髭を撫でる。
蝶が笑うかのようにはたはたと翅を羽ばたかせると手のひらから離れ、王の周囲を舞うと窓辺に飾られていた植物へ止まった。
羽ばたくたびに零れては空気に消えゆく光の粉の軌跡を眺め、彼は蝶に語りかけた。
「ファフニール。あの子はちゃんと与えられたことをこなしているよ。真面目で少々硬いが、いい子だ」
≪あら。当り前よ。そういう性格になるように育てたんだもの≫
窓から見える城下町は太陽の光によって白く輝き、甘い花の香りが風に運ばれてふわりと空間を満たした。
窓辺に立った王は蝶と共に中庭を覗く。石畳により整備され、中央には噴水がある。渡り廊下が離れている棟と棟を結び、季節の花が咲いている。
そこでは王の騎士と、森からやってきた青の少女が賑やかに騒ぎながら走り回っていた。
≪心配はなさそうね≫
ふわ、と蝶が植物から離れ王の肩に止まり、柔らかな声を発した。
その時リッフェルデン16世は声の主が笑ったように感じた。まるで母親のような温かな感情を込めた優しい声色が、あの魔女から聞こえるなんて珍しいことである。
しばらく中庭を蝶と共に眺めていたが、不意に蝶の翅の輝きが弱まり、蝶は名残惜しそうに葉から離れた。
「帰るのか?」
≪もう時間だから。それに、幻影は永遠に留まることができないのよ≫
くすくすと笑い、蝶は一度だけリッフェルデン16世の頬に軽く触れると開け放たれた窓から飛び出し、青い空に溶けていった。
肩にまだ残っている光の粉を払い、丁寧に手入れされた中庭を駈け回る若い二人に視線を落とす。
もう一度だけため息をつくと、甘やかな風を拒絶するように窓を閉めた。
薄闇の落ちる無駄に広い部屋の中で、彼は一人苦悩する。
1*4
prev / next