小説 | ナノ


▼ 夢のキミへ

「ねえ、隣のクラスの子、死んじゃったんだって」
 温かい教室に入って、一番初めに聞いた言葉だった。
 僕はずびりと鼻水をすすりながら、思わず立ちつくしそうになる。そんなことしたって邪魔なだけだという事は猿にでも分かることだから、クラスメイトのざわめきをすり抜けて、自分の席へ無感動に着いた。
「交通事故だったんだろ、あいつ」
「意識不明のち、死んだんだって」
「まだ若いのに可哀想」
「ぱっとしない奴だったよな」
 指が上手く動かないのは冷たさのせいか、それとも動揺しているからなのか。僕は嫌でも耳に入る邪推を無視するようにカバンから教科書や筆箱、携帯電話やメモ帳、音楽プレイヤーを取り出して授業の用意をする。そしてそれらが終わると、お気に入りの白いヘッドフォンに音楽プレイヤーを繋いで、煩い教室からさっさと退散した。
 廊下に出ても生徒たちの噂話は尽きない。彼らの話題は死んだ女子生徒の話で持ち切りだ。どいつもこいつも、憐れみ半分、野次馬根性半分のように思えた。
 どこへ行っても変わらない、そう諦めるとプレイヤーの音量を上げて、僕は廊下の窓の外へ目を落とした。
 僕は彼女の事を、死んだ少女の事を良く知らなかった。仲が良かったわけでもない。授業で同じクラスになったこともない。瞼の裏に彼女を思い描いても、ぼんやりとした姿が浮かぶだけ。
 それでも、妙に心に引っかかるのは、彼女と僕の唯一の接点が興味深かったからだろう。彼女と僕はおんなじ名前だったのだ。違うのは漢字ぐらいで、音は綺麗に重なっていた。
 時々廊下を歩く姿を見ただけの、知人以下の少女。
 携帯にキーホルダーを付けているのか、歩くたびに澄んだ鈴の音色を鳴らしていた子だった。
「あいつは自殺したんだよ」
 顔の知らない、興味もわかない男子の話している大声に思考が遮られた。シャットアウトされた不愉快さよりも、その無遠慮で下衆な考察を恥知らずなことにひけらかす姿が勘に触った。僕は振り返ると、そいつの顔を睨みつけていた。
 男子生徒は全く気付かない素振りで教室に入っていく。僕は唇を噛むと、投げやりにまた視線を戻した。ちらりと音楽プレイヤーに表示される時間を見ると、まだまだホームルームには程遠かった。
 彼女の死因は事故であると、察しはついていた。地方紙に書いてあった女子生徒転落事件――その生徒は学校の人間であるから。僕等にはただ、彼女は入院していると教師達から聞いていた。何故彼女が高い場所から落ちてしまったのか、理由は分からないけれど、
「彼女は、自殺する人間じゃないだろう……」
 気が付けば僕は、周りの人間と同じように彼女の死を邪推していた。そんな自分が嫌になり、余計落胆した。
 どうして彼女が、死んでしまったのだろう。
 耳の奥で鈴の音が鳴ったような気がした。
 冷たい廊下を歩き、教室に戻ると、友人達が僕を取り囲んだ。
「おはよ」
「おはよう」
「ねえ、あの子が死んだって知ってる?」
「……うん」
 ああ、またその話題か。
「あんたと同じ名前でしょ、あたしはてっきり、あんたが死んじゃったかと思ったよー」
「やば、エミったら冗談じゃないよ」
「ごめんごめん。なんかこいつ暗い顔してるからさー」
 友人は人の心を察せないほど最低な人間ではないだろう。ただ、僕は返答に困ってしまった。緩く唇をゆがませると、困った風に首を傾げて彼女らを見上げてみた。
「ごめん、あたしらあっち行くわ」
「後であんたも来いよー」
「うん、すまないね」
 賑やかな彼女らが居なくなったところで、僕は引き出しから教科書を出すと、ヘッドフォンを着けて周囲の言葉を遮った。
 どうして、彼女は。
 ――彼女は、幸せだったのだろうか
 窓の外で、枯れ葉が蝶のように風に舞っていた。



 ふと、夢を見た。
 青い蝶がひらりひらりと雪景色を飛んでいた。
 こんな寒いのに、一体どこへ。
 僕はその蝶を追いかけていた。手を伸ばせば触れられそうな、けれど触ってしまったら壊れてしまいそうな、薄く綺麗な翅をしていた。
 真っ白な雪。一面の雪。とても寂しい風景。
「待って、」
 蝶はいつしか、柔らかそうな髪の女の子になっていた。
 満足そうにこちらへ笑いかける子は、鈴の音色の、落ちてしまった――。


 そこで、目が覚めた。
 多分、彼女は幸せに逝ったのだろう。ほとんど忘れてしまった夢の代わりに、不思議な確信を胸に抱いて。


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