小説 | ナノ


▼ 雪の子

 一面の雪景色だった。
 脛あたりまで積もった雪が歩みを阻み、羽のように降る雪は視界を白いまだら模様に染めている。
 晴れていたなら、雪が積もっていなければ、切り開かれた唯の道が見えていただろう。しかし今は薄暗く視界の悪い、人のいない寂しい白い世界となっていた。
 ――さくさく。
 短いブーツが雪をかき分け、白い息が冷たい空気の中に溶けていく。こんな寒空の下を少女が独り歩いていた。
 防寒対策として帽子を被り、コートを着込み、マフラーと手袋を身につけていたが、頬は寒さで赤く染まり、毛糸に包まれた指先は冷たいという感覚を通り越した痛みを感じていた。
――さくさく。
 鼻の上を滑る雪のかけらの冷たささえ感じない。彼女は立ち止まると無感動に空を見上げ、落ちてくる雪をじいっと見つめた。
 鈍色の空から落ちてくる、花びらのような白。景色ばかりか自分も雪の下に隠されてしまうのではないか。そんな不安を煽る情景だった。
 もたもたと歩いていれば、体力が持たない。早急に暖かい場所を探さなければ。そう思いつつも、この先に民家などは無く、当分温まることができないと知っていた。感覚を無くした爪先をのろのろと動かし、雪をかき分けて無理にでも前に進む。
 しかし、二三歩歩いたところで、また少女はぴたりと立ち止まってしまった。
 不安だった。周りを見回しても、自分以外の生き物がいなかった。あるとすれば雪化粧をした木々と、消えかけた道。振り返れば雪斑の先に見える自分の足跡。
 もう歩きたくない。このまま柔らかな白い雪の中に座り込んでしまいたい、と思う。
寒さを感じなくなってきたこの体は、安らかに雪の中で眠れるのではないか。いや、雪の方が体より暖かいのではないだろうか。
 少女は首を振るとマフラーを引き上げた。湿った息を吐いて目を伏せる。息の温かさが頬を僅かに濡らし、妄想の世界に行きかけた思考を留める。
 そして再び歩みを進め始めた。
 余りにも静かな道の上で、自分の足音と雪がふわりと着地する微かな音以外聞こえなかった。あるいは時折、木が抱えきれなかった雪を取り落とす囁かな落下音以外は。
 ――さくさく。
 白い雪が優しく頬や鼻の上を滑り、皮膚の上でひやりと溶けていったが、少女は気がついていなかった。
 彼女の視線は、道の先の膨らみに留められていたからだ。
 道の真ん中にある小さな隆起。単純に石ころか、枝かと考えたいところだが、それにしてはやや大きすぎる。
 少女は膨らみの前まで歩くと、しゃがみこんで覆い隠している雪を払ってみた。手袋が僅かに濡れてしまったが、どうでもいい。
 こつ、と指に硬いものを感じた。雪ごとすくい上げてやると、中から大きな氷が顔を出した。
 いや、それは氷ではなく、手のひら大の大きさの水晶だった。
 不思議なことに、淡い光がちろちろと結晶の中で踊っている。少女は物珍しげに、水晶に顔を近づけた。何か、水晶の中から聞こえてくる。
「つれてけ、つれてけ」
 囁きは耳をくすぐるように、雪の音に隠れてしまいそうなほど小さく聞こえた。孤独だった少女は、皮膚の感覚はおろか人恋しさ故に思考さえも鈍っていたようで、何の疑問も抱かず頷くと、水晶を胸に抱えて歩きだした。
「つれてけ、つれてけ」
 小さな歌が聞こえる、と思った。青い炎が揺らめく透明な友人は歩みに合わせて声を上げている。
 ――さくさく。
 ――つれてけ、つれてけ。
 奇妙なふたりはしばらく雪の中を進んだ。いつしか雪の勢いは弱まり、粉のような小さな雪がはらはらと空から振るわれるだけになっていた。鈍色の空も淡くなり、薄い雲の先には太陽があるようだった。
 と、胸の水晶がなにか違う言葉を囁きだした。耳を当ててやると、くすぐる声で歌いだす。
「かえして、かえして」
 何処に返せばいいのだろう、ふと目を上げると、木々の隙間に氷の張った湖が見えた。
 僅かに道を逸れて、凍った土の上に足を乗せる。薄氷を抱く湖が、雪の中にあった。
 少女は傾斜になっている足元を見て、慎重に坂を下りた。水晶の声が喜ぶようにだんだんと大きくなっていく。
 ――かえして、かえして。
 ――返して、帰して。
 その声は水晶ではなく、湖から聞こえた。声の主を確かめるように、岸にたどり着いた少女は湖を覗き込む。
 薄氷の下に、巨大な結晶の群生があった。透明な水の中に青い炎が鼓動するように揺らめき、手のひらの小さな欠片を呼んでいた。
 ――帰して、返して。
 囁きが合唱となり、少女の耳を貫く。求められるままに薄氷をめくって、水晶を投げ込んでやった。
 暗い水底に沈んでいく水晶。青い炎が強さを増し、湖が青く染まった。
 ―――かえった、かえった。
 満足気な声が聞こえたかと思うと、炎が消えた。囁いていた声も、揺らめいていた光も、水底で眠っていた。
 少女はそれを見届けると立ち上がり、斜面を登って再び雪の上に戻った。
 空は晴れている。ちぎれた雲の隙間から、光の筋が落ちていた。
 白い道を見やって、歩き始める。もう少女は他人を求めて振り返ることはなかった。
 ――ありがと、ありがと。
 小さな声が、無人の雪原に響いていた。



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リハビリです。

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