夢現
※気持ちいい話ではないです。
しくしく、と泣いていた。
身体がふわふわとする意識のあるようでないその気持ち悪い空間で確かなのは、自分の前で誰かが泣いているということ。だけど、その空間で自分はその場から指をぴくりとも動かすことなどできなくて、うるさい、と眉を寄せるだけであった。
(おれが、なにをしたっていうんだよ。)
ああ、ぽたぽた零れる涙にまたうんざりして、視界を全て、自分の全てを閉じてしまうのだ。次開けたらきっと、そこには部屋の天井が見えることだろう。
*
予想通りに、身体に少し汗を感じながら見たのは天井だった。
もやもやとしながらも段々と覚めていく意識にゆっくり息を吐く。夢の内容など詳しくなんて覚えていられるはずがなくて、残ったのは変な不快感だけで、とても質の悪い夢だといらいらを舌打ちで消すようにして起き上がる。
「あ、朝練…やば、」
思わず声に出してしまった独り言も気にならず、携帯を閉じて急いで布団から出た。
「おはよーございます…。」
「お、財前、おはようさん。」
部室に入って1番に見たのは部長だった。
まだコートに行ってなかったのか、たまたま戻ってきていたのか。いつ見ても整った顔しているなぁなんて思っても、俺は滅多に、この白石蔵ノ介という人物の部長であるときの表情以外目にしたことがなく、今の俺みたいな眠そうだろう顔や、ましてや泣いてるなんてのも見たことはない。(俺も泣いたりなんて最近してないけど)
「眠そうやなぁ財前。」
「あぁ、はい、まぁ。」
「ちゃんと寝れとるんか?」
「まぁ、普通に。」
普通にてなんやねん、と笑いながら俺の肩をぽんぽん叩いてコートに行ってしまった。俺が髪を触られるのがあまり好きではないことを知っているのだろうか、まぁ固めてるから見れば分かるかもしれないけど。
とりあえず早く着替えて朝練を始めなければ、ロッカーの前に立ち、ひとつ溜息を吐いた。
着替えようとしたときの一瞬、くらっと立ちくらみがして、手をロッカーについて身体を支える。いつもと比べれば寝不足ではないし、熱だってないはずだけれど、なんだか疲れていた。でもそれだけで部活を休む気になんてなれなくて、急いで着替えてコートに向かう。ちゃんとした意識があったのはそこまでだったように思う。
*
しくしく、泣いてる、泣いてる、うるさい。お前は誰だと質問したって相手は答えなどくれないのだ、今度は自由に動いた身体さえ、そいつに触れることを躊躇わせるほどに壊れてしまいそうな泣き声を、ただ俺は頭に響かせながらうるさいうるさいと繰り返した。どうしたら泣き止むのか、なぜ泣くのか、聞きたいことは山ほどある。お前は、誰、
少し見えたそれは、綺麗な涙に、綺麗な泣き声に、綺麗な泣き顔に、綺麗な、なにもかも綺麗な、あのひと。
――財前。*
「財前…?」
目が覚めた、天井では無かった、それはあのひとであった。
整った顔立ちをいつまでだったろう、俺の意識がはっきりしてからもしばらく見つめて、心配そうに眉を下げているその表情は、たしかに部長としてのものではあったけれど、
よく見ればここは保健室だった。やっと自分が倒れたのだと理解した。
「なんで具合悪いならすぐに言わんのや、びっくりしたやろ。」
「そない悪かったわけとちゃうかったんすわ。」
悪かったわけじゃない、まぁ良くはなかったけど、やっぱり、疲れていたのだろうか。怖い夢でもないし楽しい夢でもない。ただ、もやもやとしたのだ。夢で見たこのひとは、目が溶けるのではないかと言うほど泣いていたものだから、こうして笑っていられるこのひとは、夢のあのひとと違う人物だったのか。なんて、所詮は俺の夢なんだけど。
だけど、この綺麗な髪の毛や、肌の色、髪に似て綺麗な瞳は、今思えば怖くなるほどにリアルで、このひとがあのひとのように今にでも泣き出してしまうのではないかと心配になった。
あのひとに触れていたら、このひとと俺の関係は、変わっていたのだろうか。
そう考えると、俺は恐ろしくて恐ろしくて、このひとにすら触れることなんてできなくなる。
夢は願望か恐怖、だと、どこかで聞いた。俺はどっちものように思えた。
白石蔵ノ介という存在を求めながら恐れていたのだ。
「財前、顔色悪いで?」
「え、」
「もうちょい寝ときや。」
眉を下げて笑った部長が、俺の肩に触れようとした。俺は、その手をバッと振り払ってしまった。望むことより、恐怖が勝ったのかもしれない。だけど、謝ろうと思って部長に向けた視線こそ俺の恐れていたことを映した。
「ぶちょ、お?」
潤んだ瞳が、見開かれていて、瞬きをしたら、いや、しなくても涙が零れそうだった。嘘やろ、どうしよう、泣かれてもどうしていいかわからない、どうしよう、どうしよう。俺はなぜか、またくらくらしてきて、また意識が薄れてきた。このひとが泣く?あのひとが泣く?俺には、わからない。だって、あのひとにもこのひとにも、俺には何もできないから。
*
しくしく、とは、聞こえない。あのひとは、一体どこにいる。不安で、不安で仕方ない、なぁ、いつもみたいに泣いて、泣いてください。辺りを見渡すと、後ろにはあのひとが立っていた。しくしく、なんて聞こえなかった。
だって、このひとは、笑っているのだ。
優しい優しい笑顔を浮かべて、俺を見ているのだ。
なんで、なんでなんで、なんでお前が笑っているんだ、お前が笑っているなら、あのひとは?あのひとは今なにをしている、お前が泣けばあのひとは笑った、お前が笑っている、あのひとは泣いている?そんなの嫌だ、あのひとが俺に笑顔を向けてくれないなら俺は、俺は、現実こそ恐怖となる。笑うな、お前が笑ったって仕方ないだろ。
「財前、」
やめろ、と俺は情けない声が出た。お前とは話したくないんだ、早く覚めてくれ、こんな夢、覚めてくれ。
「ざいぜ、」
気付いたら俺は、このひとの首を掴んでいた。驚いたように目を見開く彼の首を、両手で掴む。ああなんだ、簡単に触れてしまうじゃないか、なにを躊躇っていた?
「か、はっ…、」
苦しさに歪む表情は、白石蔵ノ介のものだった。*
「ぶ、ちょお、」
額に乗っていた手は、あのひとのものだった。
今度は、恐怖なんて感じなくて、部長の顔を見ると、少し目が赤かった。ああ、泣いたのだろうか。気付けば俺は部長の頬に触れて、目の下を指でなぞった。
「部長、ごめん。」
そう言うと、あなたは、綺麗な笑顔を浮かべた。
「部長、好きですよ」
あのひとは俺を憎むだろうか、それもいいだろう。あのひとが俺を憎むなら、このひとはきっと
ふと、部長の首を見ると、そこには白い綺麗な首があった。
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