木曜五限、B棟二階の大講義室、前から三列目、左端。伊月芹はそこにいる。
 すっと通った鼻筋、切れ長の瞳、薄い唇。美しく清廉なその容姿は、すべての無駄を削ぎ落とした氷像のようにつめたく、鋭利に研ぎ澄まされていた。

 国憲の講義はレジュメさえ確保しておけば学期末に困ることはまずない、いわゆる楽単だ。持ち込んだ内職に精を出す者、机に突っ伏して眠りこける者、スマホでネットサーフィンに興じる者。おおよそ何でもありの空間で、俺は隣の席に座る伊月芹の横顔をただ眺めていた。四月に一目見て気に入ったその造形は、十月も終わろうかという現在になってもなお見飽きる気配がない。前期末、伊月から無理やり後期の時間割を聞き出して同じ講義をねじ込んだ自分は間違っていなかった。よくやったと言いたい。伊月にとってはいい迷惑だったろうけれど。
 週に一度の至福の九十分間はあっという間に過ぎていく。チャイムが鳴り響いて、初老の教授がマイク越しに本日の閉講を告げる。照明に鈍く輝くシルバーの指輪で飾られた手が筆記用具をまとめ、ノート類を片づけていく。その様を見ている。彼が椅子から腰を浮かせたところで、俺は唯一机の上に置いていたレジュメを自分の少ない荷物の中に放り込んだ。にわかに騒がしくなり出した講義室を足早に後にしようとする伊月の、その背中に「ねえ」と声をかける。彼はやや面倒くさそうに、こちらを振り返った。
「……何?」
 伊月の声は、その涼やかで線の細い容姿に反してやや低く、ざらついている。独特のアクセントは近畿圏のものだ。声フェチの気はなかったつもりだけれど、伊月の声は、良い。ギャップ的なところもそうだし、温度も湿度も低く、荒い質感の声は、伊月のいっそ無機質的ですらある美貌とそれが纏う凄みのようなものを一層際立たせる。綺麗なだけではない、どこか暴力の荒々しさに似た苛烈さを感じさせる。そのアンバランスさこそが俺が伊月芹という人間の佇まいに惚れ込んだ理由だった。
「ね、このあと飯、行かない?」
 俺の誘いに、今度はあからさまに嫌そうな顔をする。眉間に皺を寄せたその表情も芸術点が高い。絵画かと思った。
「行かん」
「ええ、なんで」
「自分の胸に聞いてみてもらってもええかな」
「うーん…………わかんないってさ」
 言えば、伊月はチ、とひとつ舌を鳴らす。そういうの隠さないとこすげーいいと思う。気の強い美人なんか誰だって好きだろ。いや誰だってはさすがに主語がでかかったかもしれない。俺は好き。めちゃくちゃ。
「ガン見されながら食事する趣味、ないんで」
「酒ならいい?」
「アホ、ひとの顔を肴にしようとすな」
「わは、バレたか。えーじゃあ何ならいい?」
 俺の問いに伊月はため息を吐く。それから数秒の沈黙の後、ほんとうに渋々、という様子で「……一蘭」と絞り出した。
「顔見れないじゃん」
「見るな言うてんのが伝わらへんかったかなきみには」
「えー、減るもんじゃあるまいに」
「浅間、おまえ講義中に許したってるだけでも感謝せえよ。ストーカーや言うて大学に突き出してやってもええねんでこっちは」
 絶対零度の視線と声音を浴びて、背筋をぞくりとつめたいものが這う。でもそれすら悪くないなとおもってしまっている俺は結構ちゃんとどうしようもない域にきているのかもしれない。それこそどうしようもないから仕方がない。
「……で、どないすんの。行くの、行かんの」
「全然いく!」
「あっそ。ほな早よ行こ」
 踵を返し、伊月は出口へ向かう。そういうあっさりした態度もいいんだよなあ。伊月芹のみせるすべてがツボでどうにかなってしまいそう。もうなってる。思いながら、自らの右手にはめたシルバーリングを撫でる。これは優越感。あーあ、たまんねー。そうして俺は、世界一好みで、すきで仕方がない、凍てつく月光のようなその人を追いかける。

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