「気をつけろよ」
 ダークブラウンのコートに包まれた背中へ向かってそう言えば、「わかってるよ」と暦はわらった。積み重ねられた消波ブロックを白いブーツが踏んでゆく。
 真冬の海風はつめたいというよりも痛かった。防波堤の縁に座って、飲みかけの缶コーヒーを両手で包む。道中に買ったそれはもう既に冷めかけていたけれど、それでも無いよりはいくらかマシだった。
 曇り空を写した灰色の海面は、雲の切れ間から差す太陽光を反射してきらきらと光をばら撒く。人の手によらない光。世界そのもののうつくしさのような光。透明な白。その輝きを纏うように、暦はテトラポッドの上をゆく。軽く、無邪気な足取りで。踊るようですらあった。
「ねえ、依澄――」
 なにか興をそそられるものでも見つけたらしい。振り返った暦は俺の名前を呼んで、こちらへ戻ってくる。背負う反射光にも劣らない、透きとおった瞳に俺だけを映して。
「あのね、向こうに……あ、」
 あとほんの数歩、というところまで近づいたそのときだった。不意に暦の体がふらりと傾く。やばい。考えるよりも先に、弾かれたように地面を蹴った。
「暦……ッ」
 バランスを崩した体を抱きとめる。足元には消波ブロック同士の間にある大きな隙間が覗いていて、その暗さと深さにゾッと背筋が冷えた。
「……わあ、ナイスキャッチ」
「バッッッカ野郎おまえ……気をつけろっつっただろ……!」
 呑気な声を上げる男をなるべく平らな場所に立たせて、それから手を握って防波堤まで戻る。半ば放るように置いた缶コーヒーは案の定倒れて、溢れた中身が地面を濡らしていた。はあ、と息を吐いたのは無意識だった。
「……依澄、ごめんね? 気をつけてたつもりなんだけど、目の前に依澄がいるっておもったら気を抜いちゃったみたい」
 眉尻を下げてしゅんとうつむいた暦の頭の上には垂れた耳が見えるようだった。成人男性にそんな態度が許されるとおもっているのか、という言葉は飲み込まざるを得なかった。許してしまう人間がここにいるので。
「……、帰るぞ」
 空き缶になってしまったスチール缶を拾って、ここからすこし離れた場所に停めてある車へと足を向ける。繋いだままの手をぎゅっと握られて、こころの奥、底の方がかすかにざわめくのを感じた。
「依澄、たすけてくれて……あと、心配もしてくれて、ありがとう」
 暦は笑っていた。顔を見なくたってわかる。どうしようもなく、ため息を吐きたくなった。吐かないけれど。

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