「らーん?」
ノールックでマグカップに手をのばしたら、やわらかいものに触れた。薄くて骨っぽい手の甲。視線を上げる。目が合う。
「……き、てたのか、春」
「きてたのか、じゃないでしょ」
指を絡めるように右手をぎゅっと握り込まれて、やばい、とおもう。目の奥がわらってない。そうっと視線を逸らして、PCモニターの隅を見つめる。一万六千八百十二字。できれば今日中にあと二千、無理ならせめて千。この場合の「今日」は「俺が寝るまで」を指す。
「これ何杯目?」
「あー……四?」
「なんで適当なこというの?」
春の手に力が込もる。痛くはない。やんわりと握ったりゆるめたりを繰り返しながら、嵐、ねえ、嵐ちゃん、と名前を呼ばれる。こうやってまた、敵わないことを知る。いつものことだ。
「…………覚えてない」
「もう、それがいちばんよくないんだからね」
握った手がするりとほどけて、春がマグカップを口に運ぶ。すこしだけ中身を含んで、あま、と呟いた。
「これだけ砂糖入れるならコーヒーじゃなくてもよくない? ホットミルクとか飲みなよ」
「糖分とカフェインを同時に摂りたいんだよ」
「うーん、まずは生活習慣からかな……」
キッチンラックから白いカップを取りながら春が言う。できれば耳を塞ぎたいとおもうし、それをしなかったことはささやかな成長とよんでいいともおもう。
ことり、デスクの天板と陶器が触れ合う。湯気。透きとおった淡い黄金色。なんだこれ、と問うよりもはやく、春が再び口をひらく。
「ハニージンジャー。飲んだら今日はもう寝ようね。どうせ締め切りギリギリってわけでもないんでしょう?」
「それはそうだけど、でも書けるときに書いておかないと、」
「本当に書けるなら止めないよ。でもいまは行き詰まってるんじゃないの?」
飲み物を淹れている間、キーボードを叩く俺の手が完全に止まっていたことなんて、耳の良い彼にはどうせ全部バレている。ここで意地を張る意味はなかった。素直に引き下がった方がいい。これも成長。
「……すみませんでした」
「よろしい」
ファイルを上書き保存して、PCの電源を落とす。ねむるための飲み物はあたたかくて、あまくて、なによりやさしかった。冷めた砂糖味のコーヒーに口をつける春に、それ飲むのか、といえば彼は、おれは嵐ちゃんが寝るまでは起きてないといけないからね、と微笑む。だから俺は、大切にされているなあ、とおもって、すこしだけ、なきたいきもちになる。
戻る