※静雄×臨美(♀)



朝起きてすぐ顔を洗うのが好きだ。
入念に掌を水に晒し、その手を押し付けるように顔をぎゅっと包む。冷たい水で瞼をこじ開けると、身体の芯から澱みがすっきりと流れて行くような気がした。暫くそれを繰り返してから、手近にあったタオルを片手に鏡を覗き込むと、濡れた髪が右頬にぴたりと張り付いている。それを払い退けながら唐突に、私は髪を切ろうと思い立った。


思えばこの髪は高校時代から少しずつ伸ばしてきたものだった。
昔の自分は肩に届かないくらいのショートカットで――まるで男の子みたいに――けれどその髪を、たった一人だけ褒めてくれた人がいたのだ。

「似合ってる」

私の短い髪に指を差し込んで、一房を摘み取ったその顔が、今もまだ脳裏にじりじりと焼き付いている。私にも確かに、恋をしていた時があったのだ。ほんの少しの優しさが、あの頃の私は本当に嬉しくて嬉しくて、だから密かにその髪を大切にしようと、心からそう思って――気が付けばあれから、7年が過ぎている。騙し騙し、少し切っては伸ばし続けた髪は、いつの間にか腰を過ぎるまでの長さへとなっていた。
そして私は思い出す。
彼は私の髪を褒めてはくれても、私を好きだと言ってくれたことは、一度だって無いのだ。


適当に朝食とメイクを済ませると、コートを羽織って、私は美容院に向かった。
春先だというのに風は冷たい。ヒールがかちかちと高い音を立てて、何故だか急かされているような気になる。
寒さから逃れるように滑り込んだ店内は暖かくて、小さく安堵の息を吐く。予約はしていなかったのに、席は運良く空いていたらしく、私は1番奥の椅子に通された。
カタログを手に店員が話し掛けてくる。

「今日はどうなさいますか」
「切っちゃって下さい。ばっさり」
「何センチ程」
「肩くらいまで……ううん、もう少し、短く。さっぱりしたいんです」
「分かりました」

軽やかなジャズミュージックの流れる店内は硝子張りで、そこからは外の様子がよく見えた。シャンプーとブローを終えた私がただぼうっと座っていても、目の前のスクランブル交差点では、人々が世話しなく行き交っている。その波にどこまででも流されてしまいたいと一瞬だけ考えて、すぐに止めた。私はこの人たちみたいに、悠々と歩けないのだから。
手持ち無沙汰になって近くの雑誌を手に取った。ぱらぱらとめくって、すぐにその内容の薄さに辟易とする。ふと顔を上げると、鏡越しに、店員が鋏一式を持って近付いてくるのが分かった。いよいよだ。
何束かに分けて髪が留められる度、心臓が妙に騒がしくなる。それを宥めようと深呼吸をして、私はもう一度外を見た。
交差点の手前。薄い硝子の向こう。

そこには彼がいた。

「――――」

中から外が見えるなら、外からも中は見えるのだ。
琥珀色にきらきら光る目で彼は、私をじっと見ていた。驚いたような様子はない。きっと随分前から、彼はこちらに気付いていたのだろう。だから私も彼を見つめ返す。心臓の鼓動もジャズも鋏が鳴る音も、全てが私の耳から遠ざかった。

「じゃ、鋏入れますね」

しゃきん。
遠くで聞こえた金属音と一緒に、首筋がするりと涼しくなる。


お代を払って店を出ると、案の定彼が立っていた。私に気付いて煙草を踏み消した彼と、一瞬視線がかち合って、思わず怯んでしまう。だからと言って掛ける挨拶も見付からないから、私は彼が見えないふりをして歩き出した――そんな抵抗も空しく、すぐに手を掴まれてしまったのだけれど。

「待てよ」

久々に聞く声だった。記憶の中よりも幾分低く落ち着いたその響きに、じわりと胸が温もりを持った。余りにも正直な自分を恥じ、咄嗟に俯いたけれど、視界を狭めてくれる長い髪はもうないのだ。

「離して」
「嫌だ」

即答されて言葉に詰まる。それを隠したくて腕を振り払おうとしても、彼の力は案外強くて、緩まるどころか更に私を締め付けた。痛みに顔を顰めると、彼はびくりと焦ったように腕の力を抜く。

「悪ぃ、」

小さく零された謝罪の言葉に、私は漸く、彼がずっと加減してくれていたのだと知った。彼の、私を掴んでいない方の掌が宙を彷徨う。思わず身構えてしまって――やがて彼の指が、私の髪に滑り込んだ。

「切ったんだな」

昔程ではないけれど、肩につかないくらいには短くなってしまった髪を、さらさらと梳くように撫でられる。あの頃と変わらない、優しげな手つき。皮肉にも何かが満たされていくのを感じた。

「似合ってる」

その言葉にはっとした。
恐る恐る顔を上げると彼は、はにかむように微かに笑って、私の髪に唇を落とす。緩やかなキス。こんな公衆の面前で――恥ずかしいし、擽ったい。ああ嫌だ、こんなの傍から見たらただのバカップルじゃないか。じわじわと頬に熱が集まるのが手に取るように分かる、もう本当に、馬鹿みたいだ。そこまで考えて、不意に、目の奥が熱くなった。

「臨美?」

視界が滲む。交差点の喧騒が、彼の慌てたような顔が、蕩けて全部分からなくなって。
ぼろ、と涙が落ちる。

「好き」

気が付けば私は、そう叫んでいた。
口をぽかんと開けている彼がうっすらと見える。私の髪を摘む指はそのままに、彼は驚いているようだった。

「好きなの」

堰を切ったように、言葉が溢れ出す。今まで溜め込んでいた澱んだ想いを、全て吐き出してしまおうと思った。両目からはぼろぼろと抑え切れない涙が零れてしまうけれど、それらを拭う気にもなれなくて、私はぼやけた目の前の彼を見つめるしかない。

「ずっと、好きだった…髪褒めてくれて、嬉しかった、それでずっと伸ばしてて、でもシズちゃんは、私のことなんかちっとも、だから私は、私は…!」
「臨美、好きだ」

掴まれていた腕を引かれたと思ったら、そのまま力強く抱き込まれた。掻き抱くように腰や後ろ髪に手を回して、私の首筋に顔を埋める彼が余りにも暖かいから、私もついこの両手を彼の背中に引き留めてしまう。二人して何やってるんだろうとか、そんな恥や外聞を考える暇もなく、きっと私たちは必死だったのだ。
彼の大きな掌が私の頭を撫でる。

「泣くな。いい子だから」
「…子供扱いしないで」
「子供はこんなことしねーよ」

彼の唇が今度は私のそれに降ってきて、それもまた、暖かいと感じた。随分遠回りをしてしまったけれど、今はもう、ずっと欲しがっていた温もりが、すぐそこにある。それだけで私は幸せだった。

「また俺の為に、髪、伸ばしてくれねえか」

失恋する理由もないのだから、そんなお願い、お安い御用なのである。なんて、我ながら現金だと思った、そんな3月のある日。



淘汰する愛情

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臨美さんには何があろうと幸せになってもらいたいです。




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