驚きを顔いっぱいににじませた加州殿がわたしに掴みかかる。
けれど何を言われてもわたしの知るここは戦国、天下分け目の合戦前。

ここ金ヶ崎を本拠にしている織田残党軍もそろそろどちらにつくかを決めなければならない時期ではあるけれど、兵たちは関ヶ原などいざ知らず。
次はどこへ戦を仕掛けるか≠ニいう話しかしていないというのだから困ったものです。




「どういう…ッ!!」

「名前に……意地悪、しないで…」




後ろからのっそり伸びてきた白魚を思わせる白い細腕がわたしを抱きとめる。
加州殿は二つ三つ後ろへ下がるといつでも刀を抜けるよう構えた。




「いけませんよ市姫様。お部屋からお付もなしに出ると兵たちに怒られます」

「名前がいるもの……。怒られないわ…」

「ふふふ、そう言われては叱るに叱れないではありませんか。仕方ないですねぇ」




子供のように甘え擦り寄ってくる市姫様をそっと撫でて、ゆったりと抱きしめる。
わたしの自慢でもないが多少は豊満である胸元にそっと顔を寄せた市姫様の髪を撫でながら加州殿を見ればわたしの仕草にぎょっと目を見開いているところであった。




「アンタ主に何してんの…?無礼だと思わない?」

「仕方ないではありませんか。この方はもう何も覚えておられないし、覚えていることすらできないのですから」

「…………かわいそうな人、ってこと?」

「かわいそう≠ニいってはなんですが……ええ、とてもおかわいそうな方ですよ」




心の底から愛した殿方である浅井殿は盟約が違う!≠ニいうことで朝倉の味方をした。
それにより彼は織田家臣、明智光秀公に討たれ命を落としたのだ。
その時壊れかけた市姫様の心は織田が滅んだことにより完全に崩落した。

最愛の人。
そしてどんな扱いをされようがそれなりに慕っていた兄。
自分を形成してきたものの崩壊。

彼女の元から弱き心が耐えられるべくもなく、彼女はただただ一人何も分からぬ内に闇に堕ちた。




「姫様がわたしを認識してくださったのはその頃でした。今はもう使われぬ薙刀ですがこうして世話役のようにおそばに置いてくださって」

「名前……?」




頬に手を寄せれば姫様はわたしの手に自身の手を重ね首を傾げられた。
優しく細められた瞳にわたしが映るけれど、その瞳は本当にわたしを映しているのだろうか。




「貴方様は……私を覚えておいでなのでしょうか…」

「どうしたの…?泣きそう……」

「いいえ、なんでもございませんよ姫様。さ、そろそろお眠りになりませんと」

「……うん…。でも、怖い夢を見るから…傍にいてね……?」

「ええ、もちろんでございます。すぐ参りますのでお部屋にお戻りになっていてくださいませ」




襖を開けた先にいる太介(彼はうちでは珍しい正気を保ったものなので姫様のお付きにしている)に市姫様を託し加州殿に向き直る。
気まずそうに目を落としている彼の傍に座り庭を見つめた。

庭は荒れ果てており決して綺麗とは言えない。
当たり前でしょうけどね、誰も手入れなどしないのだから。




「加州殿」

「なに」

「貴方様を元の場所へとお戻しすることはわたしめには出来ませんが、それまでここにいてくださって構いません。ゆるりとお過ごしくださいませ」

「俺、アンタの主を殺すかも知れないよ」

「ふふふ。わざとそのようなことを申されるので?」

「………。
まず俺はアンタのこと信用してないし、少しでもなんかしたら寝首かく所存だってことっだけは覚えといてよ。それでいいなら世話になってあげるから」

「あい、わかりました。それでは加州殿。今日(こんにち)よりよろしくお願いいたしまする」
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