この日、カタクリは仕事のためにホールケーキアイランドを訪れていた。


「カタクリの兄貴!」


ちょうど仕事が一段落したとき、カタクリは廊下で名前を呼ばれた。その声につられるようにして振り向けば、ビスケット兵の鎧を纏っていないクラッカーがこちらに歩いてきていた。


「久しいなクラッカー」
「半年前のお茶会以来だな」


シャーロット家はとにかく兄弟が桁違いに多い。46男39女で長男と末っ子の年の差が42歳といえば彼らの母親シャーロット・リンリンにビック・マムという名がついたことも頷けるであろう。
そんなものだから一年間で兄弟全員に会うなんてことは意図的にやらなければまずできない。数ヶ月平気で会えないときもざらにある。


「仕事はうまくいってるか?」
「順調順調。うまくいきすぎて怖いぐらいさ」
「ならいいが、そういうときこそ気を引き締めろよクラッカー」
「あぁ。分かってるよ兄貴」


カタクリは半年ぶりのクラッカーとの会話を楽しんでいたがあいにくまだ仕事が終わっていない。そのことをカタクリがクラッカーに伝えようとしたとき、廊下の向こうからカタクリの名を呼びながらチェス戎兵が慌てた様子で走ってきた。


「こちらにおられましたかカタクリ様!」
「どうした」
「コムギ島が海賊に襲われまして町から金目のものを盗み、レナ様を人質として拐っていったとの連絡が、ヒィ!」


拐われたという言葉を聞いた瞬間にカタクリの纏う覇気が鋭く重いものへと変化した。近くにいたクラッカーも引きつった笑みを浮かべ冷や汗を流していた。


「誰だ」
「しょ、商船にうまく扮した海賊で、ただいまコムギ島沖合を逃走中とのことです!」
「ブリュレを呼べ。おれ一人で行く」
「は、はい! ただいま呼んできます!」


チェス戎兵は目にも止まらぬ速さで走って消えた。


「おれたちは行かなくていいんだな?」
「おれ一人で十分だ」
「ならおれは兄弟たちにそう伝えてくる」


そう言ってクラッカーは足早にカタクリから離れていく。
クラッカーは無知ということがどれだけ恐ろしいことか改めて実感した。

きっと海賊たちは入念で緻密な計算を立てて誰にも気付かれることなくコムギ島まで侵入できたのだろう。そして逃げるための切り札として兄貴が溺愛している妻を拐ったのだろう。考え方としては正しい。けれど妻であるレナを兄貴の弱点としたのは間違いだ。
レナの存在はまさにカタクリにとっての逆鱗。
レナを傷付けようものならその先に待つのは地獄でしかない。

無知は恐ろしい。
クラッカーはカタクリの怒りを思い出してぶるりと身体を震わせた。



*****



同時刻。コムギ島沖合を進む海賊は順調に逃走していた。


「にしても案外拍子抜けだったな」
「大臣さえいなけりゃあんなもんだろ」
「海を見る限り追っ手の船もねェ」
「ビック・マム恐るるに足らず!ってな」


下品な笑い声が甲板で生まれた。その笑い声は甲板にあるソファーに腰かけているレナにも当然聞こえる。
聞いたこともないような笑い声にレナは恐怖で肩を震わせた。レナを着飾る美しくて肌触りの良いドレスは所々汚れていて、逃げ出したりしないように手足は縄で縛られていた。

そんなレナの反応を愉快そうに眺めている男のなかに、レナと同じソファーに座っている男がいた。その男はこの海賊団の船長。商人のような清潔感溢れる髪型と服装は意地の悪そうな笑みによって台無しである。


「ヒヒヒ、そんなに怯えなくったっていいんじゃないか?」


酒瓶を片手に笑う船長に声をかけられるがレナは答えない。恐怖で口が震えないように懸命に下唇を噛んでいるレナの様子に船長の気分はなぜかさらによくなった。


「おまえもよく耐えるものだ。本当は今にも声を上げて泣きたいほど怖いんだろ? 泣きたいなら泣けばいいさ。おまえの泣き声を聞いて助けが来るかもしれないぞ」


船長の言葉に賛同するように甲板で再度下品な笑い声が響いた。
それでもレナは耐える。
そんなレナに興味は尽きないが物足りなくなったらしい船長が少しの間思考を巡らせて、そしてニタリと笑った。


「どうせあと数時間でビック・マムのナワバリから出れるんだ。そこまで根性焼きでもして遊ぶとしよう。声を出したらおまえの負けだ」


船長がそう言った瞬間に周りから狂気を孕んだ歓声が上がる。
レナは生まれてはじめて聞いた『根性焼き』という単語の意味をまったく知らないが、海賊たちの異様なほどの興奮を身体全体に浴びて、危険を察知した。
あぁ、これから私は何をされるんだろう
涙でじわりと目の縁が濡れる。
助けて、カタクリ…!
その瞬間


ドゴォォォォォォン!!!


と、船室が爆発したように破壊され、その音がレナを震わせていた海賊たちの歓声を遮った。突然の出来事に誰もが声を出せないでいたがその沈黙を破った人物はレナを拐った海賊ではなかった。


「覚悟はできてんだろうな?」


海賊からしてみれば、その声はまるで地獄から響いてくるような震え上がってしまうほど低い恐ろしい声。けれどもレナからしてみれば、これほど安心できるような声は他にない。
俯いていたレナは弾かれたように頭を上げた。
くゆる煙の向こう側に巨大な影が現れ、掻き分けられたその先にはレナの愛する夫であるカタクリが堂々たる風貌に怒りを纏わせ立っていた。


「カタクリッ!」


大きな声を出した反動で耐えていた涙が目の縁からぽろりとこぼれた。


「すまなかったレナ。遅くなった」
「ううん、カタクリは絶対私を助けに、キャアッ!?」
「おいおいおい、まだおれたちを倒してもねェのに何呑気に話してんだよ」


レナの隣にいた船長がレナの身体を掴み、その白い肌をした喉元にナイフを突きつけた。途端にカタクリの怒りが膨れ上がる。しかし、船長は冷や汗を流しながらも手の内に人質がいるというアドバンテージに顔は笑っていた。


「こいつがどうなってもいいのか?」


船長の腕がレナの首を圧迫した。狭まった空気の通り道にレナの口からは小さな呻き声が漏れた。
すべては自分のさじ加減一つだ、とでも言いたげな口調に三又槍を握るカタクリの手には必要以上に力が入った。


「おれの女に手を出すな。懸賞金一億ごときのおまえが触れていいような女じゃねェ」


その言葉と同時に大気が揺れるような振動がカタクリを中心に発生し、それに当てられた船長がガクリと意識を飛ばして倒れた。レナは船長の転倒に巻き込まれないようどうにか身体をひねって一緒に倒れ込むことは避けられた。


「おまえ、船長に何をした!」
「安心しろ。どうせすぐ会える」
「ふざけやがって!」


海賊たちが一斉に武器を構えてカタクリを討とうと走り出す。しかし、海賊たちとカタクリの間には手足を縛られたレナがいた。カタクリは素早くレナの前に立ち塞がり、三又槍でレナの手足を縛る縄を切った。そして突撃してくる海賊たちを見据えたまま後ろにいるレナに話しかける。


「目を閉じて耳を塞いでろ。すぐに終わらせる」
「はい」


カタクリがそう言えばレナは迷うことなくカタクリの言葉通りに目を閉じて耳を塞いだ。カタクリが今までレナに嘘をついたことは一度もない。そんなカタクリがそう言うのなら黙って信じるのが妻であるレナの役割だ。



*****



「おまえらのために時間を割くつもりはない。死んだ瞬間さえ分からないほどに殺してやる」


本心は死ぬほうがよっぽどいいと、生への執着さえも消え去ってしまうほど時間をかけて、永遠とも感じる苦しみのなかで息絶えさせたかった。だが、それよりも優先すべきは一刻も早くレナを安全で安心できる自室へと連れて帰ること。こんな者たちに時間をかけることさえ、今のカタクリは惜しいと思っていた。
恐怖を誤魔化すために上げる声が次々に迫ってくる。
カタクリは愛槍の三又槍を強く握り締めて、横一線に薙いだ。
三又槍の攻撃範囲内にいた海賊は武器と一緒に斬り伏せられた。中には攻撃をまともに受け、身体が完全に切断された者もいた。
一瞬にして甲板に血の海をつくったカタクリに海賊たちは絶望を見た。しかし、もう何もかも遅かった。


「死ね」
「うわぁあぁぁぁああああ、」


悲鳴は途切れ、カタクリが三又槍を三度振り回したあとに生き残っている海賊はいなかった。

カタクリは三又槍に付着していた血を払い、カタクリの言いつけ通り目を閉じて耳を塞いで踞っているレナに振り返る。いつの間にか開いていた距離を縮めていけば、その振動がレナに伝わったのか、レナが恐る恐ると目を開けて顔を上げた。カタクリはレナの視界に赤が映らないようにレナの頭を胸に軽く押し付ける形で抱き上げた。


「すまなかったレナ」


船内にある鏡へと歩いていく。
レナを抱くカタクリには一滴の返り血さえついていなかった。


「レナをこんな危ない目に遭わせてしまった」
「もし、……」
「なんだ?」
「もし、今回のことを申し訳なく思ってるなら、明日一日中私のそばにいて」


カタクリは驚き、思わず立ち止まる。


「それだけでいいのか?」
「それがいいの」


すべてを包み込んでくれるような慈愛に満ちた瞳でレナが微笑む。カタクリはたまらなくなって腕のなかにいるレナをギュッと抱き締めた。


「……レナ、おれはこんなことが二度と起きないようにもっともっと強くなる。どんなものからもおまえを守れる強さを手に入れると誓う」
「……例えば未来を予測できるとか?」
「それはなかなか難しい要求だな」
「だって、今でもすごく強いカタクリが未来を見れるようになれば、カタクリは無敵だよ。カタクリならできると思うんだけどなぁ」
「そうか。なら、レナの期待に応えられるよう鍛練しよう」
「ふふ、ありがとうカタクリ。でも、鍛練はほどほどにね? 私はカタクリと一緒にいれることが一番の幸せなんだから」
「あぁ。明後日からはもう少し早く帰ってくる」
「ありがとうカタクリ」


互いに額をくっつけて至近距離から相手の瞳を覗く。


「愛してる、レナ」
「私も愛してるわ、カタクリ」


噎せるような血の匂いと甲板に転がる骸を残して、愛を確かめ合った二人はブリュレの待つミロワールドへと帰っていった。


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