お洒落だが凝り過ぎないシンプルなインテリア。
快適なパーソナルスペースを十二分に確保出来る席間と配置。
控えめな音量でクラシックの流れる静かで落ち着いた店内。
ガラス張りの窓際席と天窓から差し込む陽光が眩しすぎない程度に明るく、爽やかな昼下がりを感じさせる。
目の前のアンティークモダンなウッドテーブルの上にはシンプルな白磁のティーセットと、一口サイズのくるみの入ったスコーンが幾つか入れられたこれまたお洒落な小さなウッドバスケット。
ティーカップに注がれた紅茶を一口飲むと、深みのある秋詰みのダージリンにアールグレイをブレンドした、この店オリジナルのキャンブリックミルクティーの香りが、喉から胸へと落ちて行く暖かさと共に心地よく鼻腔に広がった。
ここは駅から少し離れたカフェテリア。
オーナーご夫妻だけでひっそりと営まれている小さなカフェだが、青山や表参道、代官山などの名だたる有名カフェにも全く退けを取らない味と雰囲気で、地元のカフェ好きには人気の超穴場スポットだ。
ここで過ごす休日が私の密かな楽しみ。
ゆっくりと紅茶を飲みながら、先程買ったばかりの愛読している作家の新作小説を読んでいると―――
「オーナー、いつものやつね」
一人の長身の男が、そう言いながらまるで待ち合わせでもしていたかのように向かいに―――私のテーブルの席に当たり前のように座った。
―――また来たか。
「雑渡さん、席なら他にも空いてますよ」
ダークグレーのトレンチを席に掛けているその男に、私は小説から目を離す事なく素っ気なく言ってやる。
「だってここが良いんだもん。あ、またその作家?好きだねぇ本当に」
悪びれる様子も、移動するつもりも全くないのであろう彼はそう言うと私の小説を取り上げて、大して興味もなさそうにぱらぱらとページをめくった。
「・・・雑渡さん、本返してください」
大体いつものお決まりのやり取りに、私はもう怒る気もなく溜め息をつく。
「湊ちゃん、溜め息付くとしあわせ逃げるよ?」
誰のせいだ誰の。彼は小説を閉じるとテーブルの上、自分の右手前に置いた。私の側からは取りにくい位置だ。取り返そうと手を出しても先に取られてしまう。
こんなやり取りは傍から見ているときっと恋人同士かなにかだと思われているのだろうと思うが、全く以てそうではない。
彼―――雑渡昆奈門氏とは恋人どころか友人とか知り合いですらない。
お互いこの店の常連同士で、暫く前にたまたま話す機会があり、それ以来顔を合わせると挨拶するようになったというだけ。―――それが何故か最近では勝手に同じテーブルに付いてくるようになったのだが・・・。
つまりは全然、全くの、完全に、まるっきり、徹頭徹尾、完膚なきまでに、100%他人だ。子供の頃に『付いて行っちゃ行けないよ』と散々言われた、所謂知らないおじさんだ。
・・・因みに、更に言えばちょっと変なおじさんでもある。
「なんか失礼な事考えてるでしょ」
テーブルに肘を付き、頬杖を付くような形でじーっと細めた目で私を覗き込む。
「別に。ただ、友達でもないのになんでいつも一緒にお茶しなきゃならないんだろうって思ってるだけです」
「酷い。そんなに私とお茶するの嫌なの?」
「はっきり言うと面倒ですね」
さらっと言ってやると、大してショックも受けていないくせに「湊ちゃん冷たい。おじさんショック」とか言っている。
オーナーがやって来て「お待たせ致しました。コスタリカブレンドのエスプレッソでございます」と雑渡さんの前にコーヒーを置いた。
「本にコーヒーこぼさないでくださいよ?」
本を取り返す事を諦めた私はそれでもジト目で雑渡さんを睨む。
雑渡さんはオーナーと何やら一、二言話すと「こぼさないよ。子供じゃないんだから」と、私の視線など暖簾に腕押し糠に釘、馬の耳に何とやらといった具合に飄々と答えた。
人の席に勝手に座ったり読んでる本取り上げたり、構わなかったら拗ねたりする三十路越えは充分子供だと思う。
「しかし湊ちゃんも暇だねぇ」
コーヒーを飲みながらニヤニヤとからかうように私の顔を見る。
「雑渡さんこそ、お仕事は良いんですか?」
多分また仕事を抜け出して来たんだろうなと思いながらチクチクと責めるように言ってやった。
この人はだいたいいつも仕事をサボってはこの店にやって来て、暫くして探しに来た部下らしき人達に連行されて行くのである。
部下の人達の態度や会話の内容を聞いていると、驚くべき事にこの雑渡という変なおじさんは結構偉い人っぽかった。
「今日は日曜日。私だってちゃんとお休みくらいあるよ」
―――確かに今日はスーツではなく白いボタンシャツにネイビー系のニットのインナーとパンツという、お洒落だがカジュアルな服装だ。珍しい私服姿は限りなく悔しいが、メンズファッション誌から抜け出て来たかのようにカッコ良かった。
いつものスーツスタイルもカッコイイなんて言うのは歯茎から血が出そうなくらい悔しいから言わない。絶対言わない―――
「休みはしっかり休む主義なんだよ」と言いながら雑渡さんは私のスコーンを一つつまむ。
「あ!ちょっと私のスコーン!」
抗議の声をあげるも虚しく、私のメープルウォールナッツスコーンは雑渡さんの口の中へと消えて行った。
―――休みはしっかりって、仕事の日も休みに来てるじゃないか。
仕事サボって職場抜け出すは、人の注文した者に当たり前のように手を出すは、こんな人を上司に持った人達には本当に同情する。
「だから今日は湊ちゃんとのんびりできるわけ」
「うん。いけるね」とか言いつつ私のスコーンを咀嚼しながらいけしゃあしゃあと言う図々しいおじさん。
・・・おのれ食べ物の恨み、いつか晴らさでおくべきか。
「ねえ湊ちゃん。今日って何の日だか知ってる?」
怒れる龍の如くのオーラを発している私に全く構う事なく、マイペースに話しかけてくる雑渡さん。
「なんのって・・・日曜日。休日」
質問の意図が理解出来ずにぱっと思いついた事を口にする私に、雑渡さんは「はぁ・・・」と溜め息をついた。
「しあわせ、逃げるんじゃないんですか?」
私は反撃ターンとばかりに先程言われた事を雑渡さんに返してやると「揚げ足取るんじゃないの」と嗜められた。
おのれぃ。人の食べ物に勝手に手に出すようなおじさんに何故私が嗜められるのだ。
「本当にわかんないの?ほら、2月の一大イベントと言えばさ」
「・・・節分?」
私の回答に雑渡さんが椅子からずり落ちんばかりにずっこける。
この人は意外に時々リアクションでかい。
「・・・それ本気で言ってる?」
体勢を立て直して再び問う雑渡さん。
うん。知ってる。流石にわかった。っていうか今まで忘れてたけど。
「・・・・・・聖バレンティヌス司祭がローマ皇帝クラウディウス2世に処刑された日ですね」
どうせ恋人居ないとかバレンタインに一人で喫茶店で本読んでるとかからかわれるんだろうと思い、悔し紛れに遠回しに―――っていうか事実ではあるけれど―――言ってみる。
「普通にバレンタインデーって言いなさいよ。っていうか詳し過ぎでしょ」
雑渡さんは「皇帝の名前なんて普通知らないよ」と呆れたように言ってコーヒーを一口。そしてちょっと考えるように口元に手を当ててジロジロと私を見る。不躾って言うんですよそういうのは、と言ってやるべきか。
「湊ちゃんは今日この後、デートの予定とか・・・」
「あるように見えますか?」
今日の私はキレイめなボーダーのニットトップスにフレアスカート。メイクはUVカットの為のファンデに色付きのリップをしただけの殆どすっぴんだ。
街を歩くには充分だが、到底『バレンタインデート』といった格好ではない。
おひとりさまをわざわざ確認されてるみたいでちょっと傷付く。
「どうせ彼氏なんて居ませんよー。寂しいおひとりさまで悪うございましたー」
拗ねたように芝居がかって言った私のその言葉に対して返されたのは「良かった」と穏やかな笑顔。
てっきりまたネチネチからかわれるもんだと思っていた私は、思っていたものとは大分違う反応に応答に困ってしまう。
雑渡さんこそバレンタインにこんな所で油売ってて良いのか、とか反撃してやるつもりだったのに。
そんな私を横目に、雑渡さんは悪戯っぽくに笑いながら「後から『実は恋人居ました』、じゃカッコ悪いもんね」なんてわけの分からない事を言いながらトレンチのポケットから何やら取り出した。
「これ。あげる」
「へ?」
ウッドテーブルの上に置かれたのは上品にラッピングされた小さな箱。
「あげる。開けてみて」
今の状況に理解の追いつかないまま固まっている私に雑渡さんは視線で促す。
「え。私が?何で・・・」
色々な考えが飛び交って何を考えて良いんだかわからなくなっている頭の中から、ようやくひねり出したのはそんな言葉。
「何でって、君にあげたからに決まってるでしょ。良いから早く開けて」
頬杖を付き私がその箱に手をかけるのを待っている、その様子はいつもの雑渡さんと変わらない。
「はッ!まさか手の込んだビックリ箱ッ!!?」
「馬鹿言ってないで早く開けなさい」
「知らない人から物を貰っちゃいけないってお母さんから・・・」
「諄いよ。私、雑渡昆奈門。君は十六夜湊ちゃん。行きつけのお店の常連同士。ほら知らない人じゃない。わかったらさっさと開ける」
ちょっと機嫌の悪くなり始めた雑渡さん。仕方なく、私はチラチラと雑渡さんの顔色を伺いながら箱を手に取った。
ありがちなカラフルで可愛らしい感じではなく、落ち着いた同色系の色目で統一された包装。一目で高級デパートやら、セレブリティーな方々がご利用されるお店の物だとわかる。
私は雑渡さんに促されるままに、不安な心境で高級そうなサテンのリボンをほどき、包みを開いていく。
その様子をこれ以上ないくらい楽しそうにニヤニヤとしながらじっと雑渡さんが見つめている。
なにコレ。何の罰ゲームなの?
出来るだけ奇麗に包装を取ると、現れたのは光沢のある黒い生地に金のオーナメントの付いた箱。多分・・・っていうか見たまんまならこれはジュエリーケースだ。
―――めっちゃくちゃ高そう。
「えーと・・・あの・・・これは・・・?」
流石にこの展開はなんか怖くて手が止まる。
顔を上げ、視線を雑渡さんに向けて助けを請うも、にべもなく「それも開けて」と一言で急かされる。
「いや、だって・・・」
「開けなさい」
どうやら私に選択権はないらしい。
私は恐る恐るそのケースを開けた。
箱の中には曇り一つない銀色のクロスのネックレス。
私の顔が映りそうなくらいに磨き上げられた滑らかな表面と輝きは、決して安い物ではないという事は、せいぜいゼロが四つ付くか付かないかのアクセサリーしか買った事のない私が見ても想像に難くない。
「ちょっ・・・」
「ダメ」
講義の声はあげる前に一蹴された。
だが私が雑渡さんにこんな高そうな物を貰う理由がない。流石にこれで『じゃあいただきます』とは引き下がれない。
「こんなの貰えないですよ!」
「なんで」
「なんで・・・って常識的に考えて普通単なる顔見知りにこんな高そうな物貰える分けないじゃないですか!」
私はもう半ば怒鳴っているに近い。
いきなりこんな物貰って、困らない方がどうかしている。またいつもの冗談なら、本気でいい加減にして欲しい所だ。
「大丈夫。だって単なる顔見知りじゃなくなるから」
更なる講義の声を上げようとする私を遮って雑渡さんが言った。
―――は?
「付き合って」
―――どこへ?
「君の事、好きなんだけど」
―――好き?誰が誰を?
「ちょっと。聞いてる?」
―――聞いてる。でもわかんない。
今頭が真っ白です。思考回路はショート寸前です。
どうしようどうなってるのどういうことなにがなんだかわかりません。
「ちょッ・・・!なんで泣くの!?」
「へ?」
―――あら本当だ。泣いてるわ私。なんでだろ。
「湊ちゃんは私の事、嫌い?私の勘違いだったのかな?」
―――雑渡さんの事?雑渡さんの事、私は・・・
「好きです」
「びっくりした。怒るし、急に泣いちゃうし。私、嫌われたかと思って焦ったよ」
「びっくりしたのはこっちの方です。普通もう少し順序とか色々あると思います」
昼下がりのカフェテリア。
向かい合って座る私と雑渡さん。
「だってここに良く来るって以外殆ど何も知らないし、いきなりデートとか誘っても嫌がられるかと思って」
「こんな高そうなプレゼントをいきなり貰う方が困ります。お菓子とか花とかならまだしも・・・」
私の胸元にはシルバーのクロスが揺れている。
「そんなに高くないよ。せっかく付き合い始めた日の記念品になるんだし、形に残る物の方が良いと思って」
いつものように他愛無い会話をしているけれど、少し変わった事がある。
「多分私と雑渡さんじゃ経済感覚が違うと思います。私こんなの誕生日でも貰った事ないですし。だいたい、付き合ってもない女性にアクセサリーとか贈らないですよ普通」
「だって女の子の身に付けてる物の相場とかよくわかんないし。他に何あげて良いかもわかんなかったし。それに絶対両想いだと思ったんだもん」
雑渡昆奈門さんと私は、単なる顔見知りの常連客同士から恋人同士になってしまった模様です。
「凄い自信。今までどういうお付き合いして来たんですか・・・」
「でも当たってたでしょ。知らない子を好きになるなんておじさんも初めてだったからね。これでも色々悩んだんだよ」
オーナーがやって来て恭しく頭を垂れる。
「お待たせ致しました。本日限定のバレンタインスペシャルパンケーキでございます」
私と雑渡さんの前に置かれたのは大きめの二段重ねのパンケーキの上に、いちごのアイスクリームと生クリーム、チョコソース、そしてハート形にくり抜かれた小さなチョコパンケーキと四つ切りのいちごがたくさんトッピングされた可愛らしいデザートだった。
添えられたナイフフォークのシルバーセットは二人分だ。
「え。なにこれ・・・」
「さっきオーナーに頼んだの。プレゼント、成功したら持って来てって」
さっきオーナーと話していたのはこれの事だったらしい。―――何それ恥ずかしい。っていうかキザ過ぎじゃない?
「ここのデザート、好きでしょ。せっかくのバレンタインだし、一緒に食べよ」
そう言うと雑渡さんはナイフフォークを手に取った。
・・・メープルウォールナッツスコーンの恨みは帳消しにしてもおつりが有り余りそうだ。
サプライズだらけのバレンタインデー。
さて、差し当たってはホワイトデーのお返しはどうしたら良いものか。
私はこれから嬉しくも、難しい問題で頭を悩ませる事になりそうだ。
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