そこからはじまる
糸に繋がれている丸い風船は、当然手を離せば躊躇いもなく あっという間に空へと飛んでいく。何かに引っ掛からない限り追いかけても追いかけても決して掴まることはない。それなのに風船に繋がれた糸は細くて頼りなく今にも切れてしまいそう。私は怖くていつも手が汗ばむくらいギュッと風船の糸を強く握りしめていた。
なのに――――……
わかっているのに、わかっていたのに、気を緩めた瞬間するりと隙間を通り空へと逃げる。優々と広がる青空にポツンと赤い風船が飛び立つ。遠く遠く、手が届かない所まで遠くにいってしまって緩やかに白い雲の中に隠れてしまう。汗ばんだ手は寂しく解放されスゥーと風を心地よく受ける。その爽やかさとは正反対に私の顔は歪み泣きじゃくるのだ。
風船さん、帰ってきて。と。
「いいね」
彼はボールペンをカチリと音をさせ書類に目を向けながら言った。
「何がです?」
ハルは憂鬱そうにソファーに体を深く預けながら視線だけを彼に向ける。
「面白いよ君の頭の中」
あ、馬鹿にしたな…彼の微笑みと最後の一文で彼女は判断した。けど怒るわけにもいかない、本当に馬鹿みたいな話だからだ。そう、これは馬鹿みたいな夢の話。なのにハルは、起きた時ぼろぼろに泣いてた。本当馬鹿みたい。
「面白くないです不安です」
「何で?」
「その風船まるで誰かさんみたいじゃないですか」
そう言うと彼は意地悪そうに笑った。どう見ても悪役の顔にしか見えません。
「僕もあっちこっち愛嬌振りまく猫が心配でね、まるで誰かさんみたいに」
「何を言いますか、ご主人様は一人です。猫もさぞかし心外でしょうね」
そう言いハルは猫のポーズをし、にゃーと言ってみる。洒落のつもりが、本当に猫っぽい。と雲雀に真顔で言われて複雑な気持ちになった。
「で、君はその誰かさんにどうして欲しいわけ?」
「早く仕事を終わらせてギュッとして欲しいです」
「さかりかい?」
「学生はオイタしちゃいけませんよ、風紀委員長さん」
「同感だ。しかし義務教育までね」
本当ですか?と小言を溢す。確かこの前 押し倒されそうになったのだけれど…果たして義務教育が終わる頃にはハルは純潔のままでいられるのだろうか。雲雀さんは好きだけど、エロいのはやっぱり嫌だなぁ。ハルはまだまだ多感なお年頃なのである。
そんな雑談をしているうちに雲雀は書類を片付け始めた。ハルはそれに気づき窓の鍵を閉め、暖房も消して何時でも帰れる準備をする。
「…風船が逃げるのが怖いのなら最初から持たなきゃいいのに」
「そういう訳にはいかないんですハルは風船が好きだから」
見つめ合う。雲雀を見るハルの目はいつも真っ直ぐだ。もう、夢の中の話か相手に対する例え話だがよくわからなくなってきた。雲雀は無言のまま学ランを羽織り教室を出た。電気を消し、ハルも雲雀に続くよう教室を出た。
外はもう真っ暗だ。月と星だけが廊下を照らしていて時間が止まったような感覚に落ちる。雲雀は外を見たまま動かない。怒らせてしまったんじゃないかと少し不安になりハルは雲雀を覗き込むように隣に立つ。
「……いい加減、僕たちはお互いを試しすぎてるかもね」
雲雀はゆっくりと外の景色を見ながらそう言った。何時もと変わらない無表情だが彼の目に何かの強い意志が見えた気がした。
「僕はどこにも行きようがないよ。例え行っても君は必死に付いてくるだろうし、そもそも君を離すつもりなんて微塵もない」
「…雲雀さん」
「好きだから」
ポツリと最後の言葉は小声で言い、ハルを力強く抱きしめた。抱きしめるだけで、どうしてこんなに体も心も温かくなるのだろう。空気が回らないくらいじわじわと幸せを噛み締める。ハルは緩くなる涙腺をぐっと堪えて笑顔で言った。
「大好きです、恭弥さん」
2010/11/14/Web