彼女が紅い箸の先でつつくバターが、甘い匂いで部屋を満たして、ふつふつと沸く鍋の中を溶けていく。さっと火力を切り替えた忙しない手が捕らえた包丁は軽快なリズムを刻み、鈍い換気扇の音に紛れて暢気な鼻歌が聞こえる。隣に立った僕は、調理を進める彼女がこれから欲しがるであろう調味料を背の高い棚から取り出してやり、彼女の為に踏み台を用意しようかと提案した先日の草壁を再び憎らしく思いながら、さっさと机に戻ることにした。
彼女が夕食を作る為この部屋に通い出してから今日で6日目、時刻は決まって午後5時。今日もまたスーパーの袋と、幾つか馬鹿みたいな人形のついた学生鞄がソファーの上に投げ出されているのを一瞥し、僕は用事に取り掛かる。換気扇が取り逃がした匂いは部屋の隅まで満ちて、居心地の悪さに今日も辟易する。




「できました!」


委員会に関わる書類の最後の一枚を捲ったとき、間抜けな足音をさせながら近付いて来た彼女はソファーの前に据え置かれたテーブルを指差して、ほらほらと僕を急かした。一度だけ頷いて椅子から立ち上がり、楽しげに歩く彼女の旋毛を何気なく目で追いかける。
僕の腰掛ける向かい側に座り血色の良い顔を綻ばせている彼女は、僕が箸を取るのを今か今かと待っているから、手を合わせて「いただきます」と口早に呟くと、小さな赤い唇が短く空気を吸った。


「今日はハッシュドポテトにしたんです、とても簡単なんですよ。美味しく揚げられたから、ハルもつい味見してしまって…あ、雲雀さん、火傷しないように食べてくださいね」


それから、と続ける高い声から皿の隅に添えられた小判型のハッシュドポテトへ意識を逸らし、じわじわと広がる肉汁が染み込まないうちにと口へ運ぶ。さくさくとした歯ざわりに柔らかいじゃがいもの欠片が絡み、おやつの様な食べやすさで皿から消えた。
目の前でぺらぺらと微塵切りについて喋り続けていた彼女は、今度は鞄からクリスマスケーキのカタログを取り出して悩み出す。頑なに目を合わせようとしない彼女を暫く見詰めていたが、諦めて箸の先を大きなハンバーグに突き刺した。肉汁がまたじわりと染み出して執拗に皿を汚していく。




「………」


脂っこい箸の先で刺そうとしたら、ころりと転がった。彼女の唇より華やかな彩りは空になった皿の隅を逃げてつやつやと光る。追いかけて戸惑う漆黒の箸がまたその艶やかな色を引き立て、時間が経っても劣えない美しさに困惑する。最後に残った人参のグラッセは何時も僕を思考の渦へ誘う。彼女が素材選びから丁寧に行い、心を込めて作った綺麗な甘いグラッセに、勢い良く箸を突き立てる。


「今日のハンバーグは並盛のスーパーで買いました、あらびき胡椒が美味しいって書いてありましたよ」


視線を上げると彼女の黒い瞳と搗ち合った。クリスマスケーキのカタログも、その後に引っ張り出していた英単語帳や文庫本も、全てが彼女の手から離れて床に散らかっている。


「…三浦」
「はひ、何でしょう」


デザートのようなグラッセを口に放り込んで咀嚼しながら、首を傾げて僕の言葉を待つ彼女を眺める。出来合いのハンバーグを買ってきて凡そ一週間も食べさせ続けている理由、それなのに付け合わせの人参のグラッセには執心して馬鹿ほど丁寧に料理する理由、他にも問い掛けが浮かんではどれも違う気がして選べない。
最後の一つを確かに口に入れて、ゆっくりと味わう僕を見詰める彼女は怯えている様にも、警戒している様にも見える。
朱いグラッセを飲み込んで、赤い唇を睨みつけた。


「君は僕を好きなの」




彼女の頬に何よりも鮮やかなあかが差して、とんでもない奇声が響く中、僕は勝ち誇って箸を置いた。口にしたグラッセと問いの甘ったるい後味を注ぐためコップの水を飲み干す。



追って、逃げて、追って、/2010.11.29


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