「もう、がんばれないです。」 雲雀さんに立ちあがれと腕を掴まれましたが、ハルは腰を冷たい廊下に下ろしたままで動こうとはしませんでした。 言う事を聞いてくれないのです。まるで下半身がハルのものではないように、もしかしたら廊下にガムでも落ちていたのかもしれません。そんな事、冗談でも言ってしまったらハルは雲雀さんに怒られて嫌われちゃうのですが。 「うん。」 ぐい、と雲雀さんは引っ張り上げようとします。 廊下の真ん中に座り込むハルを、でもハルはもっと精神的な深淵に落ちたハルを引き上げてくれるような救済に見えるのです。 雲雀さんはこの学校の指定制服とは違う学ランを着ています。ハルはこの学校の指定の征服とは違う制服を着ています。緑中で、進学校。 自らそんな看板を持ち歩いて歩いているようなものなのです。 「立ち上がれない、かもです。」 「うん。でも君は立ちあがるよ。立たなくちゃ君は家に帰れないからね。」 「でも、立ちたくないです。」 「たとえが悪かったかな。ケーキ食べられないよ。立ちあがって帰らないと。」 「ケーキなんて、」 そんなのいらない。 欲しいのはもっと違うもの。 胃袋は満たさなくていいから、心を満たしたいだけなのです。 ハルはそう思いますが、他の人は頭を知識で満たしてほしいのでしょう。 参考書や辞書の入ったカバンがとても重く感じられる。錘を持って、ハルは学校へ向かって授業を受ける。 もらうプリントには進路の事やら他の偏差値の高い高校のパンフレットなどが配られる。 先生のくすりと笑える小話もすべて進路や将来の話になっている。周りの友達も、全員受験の話題をしているかぴりぴりと参考書を睨みつけていたりする。 家では両親は隠しているつもりでしょうけど、期待をしている。 ハルがいい学校へ入る事を期待している眼をするんです。 「子供じゃないんだから、立って。」 どうしたらいいんですか。 将来何をしたいかなんてハルはまだ分かりません。偏差値の高い高校に行って何になるのか、ハルはまだ理解できない子供なのです。 子供だから大人の言う事を聞いてがんばって、そういう高校に入って、もしかしたら将来役にたったと安心するのかもしれませんけど、今はそんな事に納得できるほど寛容でも大人でも無いのです。 学校の友達の様子に不安定になって、親のプレッシャーに押しつぶされそうになって、今立っている場所が分からなくて。 劣等感と優越感に左右されているあのクラスが嫌になってしまった事がとても今、悲しい。 受験という言葉に嫌でも縛られる年齢になってしまった事が自然な事だというのに、ハルはとても悲劇的な事だと思うのです。 「・・・もう、やだ・・・」 こんな黒い想いを抱えているハルなんて見てほしくない。でも構ってほしい。 こんな顔をしているハルなんて見ないでほしい。でも愛してほしい。 少し太ったかな、と更にストレスが増えるような事を考えたりしているのですが、ぶよぶよの二の腕は離してほしくなくて。 いつもならすぐにやめてほしいと思ったのですが、 「・・・どうすればいいんですか・・・」 嫌なのはハルなんです。 嫌、 いや。 「じゃあやめればいい。」 「そうしたいですけど、」 「じゃあそうすればいい。」 「そんな事したら、周りに迷惑が・・・」 「君の人生はそんな事で諦めるの?」 「・・・・・」 「自分のしたいように生きればいい。そうしないと損だよ。」 「・・・・・・・・。」 確かに、雲雀さんはそういう生き方をしている人だ。周りから恐怖の象徴として見られ、自由奔放に、唯我独尊に生きている。 並盛を愛する事を何の躊躇も無く、その感情のままに生きている。そんな所が堪らなく好きで嫌いで憧れだった。 自分と同じく中学校という場所に来て立って、その場所が当たり前のものなのに、どうしてこんなに余裕しゃくしゃくなのか。 「・・・卒業したくないんです。」 「それは無理だね。義務教育だから。」 「でも、雲雀さんはずっと此処に居るじゃないですか。」 「義務だの教育だの、僕には必要ないからね。」 確かに、こうして我儘に付き合ってくれる寛容な人間性を培っているのなら、それはいらないのでしょうけど。 ハルは中学生というものに小学校の頃憧れて、中学生になってドタバタして、楽しくて、色々悩んだ事もあったけど楽しくて。小学生の頃は中学生に憧れた。新しい場所、新しい校舎。そこに行けば、今悩んでいる事なんてきっと無意味なものになると信じていた。 それなのに、中学生になったとたんに小学生から引きずってきた悩みに足を絡め取られ、更にその場所の茨の道に身体全部傷つけられて。 だから、高校は更にとんでもない所なんじゃないかと、ただ恐怖しているだけなのです。 今度は一体どんな地獄なのでしょうか。 地面が鉄板のように熱くて、歩く事すらままならないかもしれません。 まだ見ぬ地に恐怖しているだけだと知ったら、きっと雲雀さんはこうして腕を掴んで立たせようとはしないでしょう。 「がんばれって言わないんですね。」 「もし言ったら、君はきっと此処から立ちあがろうとしないだろうから。」 だから立って、と言われた。そんな身勝手なと思ったのですけど、ハルの重たかった腰は軽くなって両足で立つことができました。 あまりにもあっけなく立ちあがれたものだからハルは吃驚しました。 雲雀さんは当たり前だと思っているようで、それよりもやっと立ったと呆れたようなため息を吐いて、 「その鞄、貸して。」 「え・・・?」 「いいから。」 半ば奪い取るようにハルの手から鞄を奪って、チャックを開けて中にたっぷり入っていた参考書を出しました。 片手で一気に掴んで出すと、ハルはいつも手がつってしまうので一冊ずつ取り出しているのですが、 雲雀さんは窓を開けて、またなんの迷いも無くその参考書を投げ飛ばしたのです。 真っ赤な夕日に焼け焦げるように、参考書は塵にはなりませんでしたが、重力に従って落ちて行くと、木の枝に引っかかっていました。 「な・・・な・・・!」 ハルが窓から乗り出してそれを見ていると、雲雀さんは窓を閉めようとしているので思わず後ろへ二、三歩ほど下がりました。 「またダダこねられるとやだから。」 「・・・だって・・・」 「だからもう勉強しなくていいよ。君、一応頭いいんだし。いい所じゃなくて普通の所に入ればいい。」 「あ、・・・」 「底辺の高校にも入れないって言うなら、勉強する事を進めるけどね。」 無理するな。 たった一言で表せるのはそれでした。 ハルが勉強していると、皆必ずがんばれといいます。 ハルはそれを言ってほしくなくて、雲雀さんの前で密かにその人たちへのストライキをしていただけなのです。 もしかしたら、雲雀さんはそういう事を全部分かっているのかもしれません。並盛の住人であるハルの心中なんて、彼にとっては微々たる情報なのかも、しれません。 「・・・でも、」 「面倒ならやめればいい。」 「・・・・・」 「嫌なら嫌だって言えばいい。」 「・・・・・・。」 「それだけでしょ?」 それだけ、なんて簡単に言ってくれる。 そのそれだけを凡人がどれほど辛く懊悩し続けているのかなんて、貴方は知らないのでしょう。 全知のように見えて無知なのだから、貴方は。 「・・・参考書、やっぱりとってきます。」 「・・・そう。」 そう言って階段に向かうと、後ろからついて来てくれる。 赤い廊下はこの受験シーズンになると苛々してとても悲しい。 三浦ハルは凡人ながら、ほーんのちょっとだけで、がんばってみようと思います。 願わくば溺れて沈め/2010.9.1 |