もう何度目かになるメッセージを送って一息つく。怒ったりするのはよくない。一也が一番疲れているのに、私の都合ばかりを押し付けては駄目だ。
一也とは高校の時から付き合っているけれど、思い返せばこんなふうに連絡が途絶えるなんて日常茶飯事だったような気がする。今さらになってこうして苛立つというのは、内心私が焦ってるからなのかもしれない。付き合い始めて6年目。そろそろ色んなことを意識しても仕様がない。
机の上に置いていた携帯電話が振動した。慌てて画面を覗き込むと、連絡が遅れたことのお詫びと、それから今日の予定が書かれていた。とりあえず街に出てランチをするみたい。
ウォークインクローゼットの中からお気に入りのワンピースを取り出して、鏡の前で合わせてみる。私のとっておきの服。それから少しお化粧をして、髪を結いあげる。
連絡が遅くなったことに対して謝ってくれたし、ランチも奢ってくれるらしい。そういうところだけはキチンとしているのが流石一也だなあ。
お気に入りのパンプスを履いて、意気揚々と待ち合わせ場所へと向かう。
指定された場所に指定された時間よりも5分早く着くと、すでに一也が立っていた。今来たところと言ってほしくて「待った?」と尋ねると「おせーよ」と言われてしまった。時間より早く来たのに。私の乙女心を返してほしいものだ。
「今日はどこ行くの?」
「んー、とりあえず飯」
「お買いものとか?」
「まあ後で考えればいいだろ」
さりげなく差し出された手を握ると、ぎゅっと強く握り返されて手が痺れる。大きくて固い手。
よく知っている街並みを歩きながら、飲食店が立ち並ぶ通りの中でも一際お洒落なお店に連れられた。
「昔はさ、飯食うっつってもファーストフードだとかファミレスだったよな」
「そうそう、コスパ重視でね。だって一也すっごい食べるんだもん」
「今でも食う量はそんな変わらねえけどな」
「財力は大きく違うし?」
メニューを眺めながら高校生の時の話をして少し懐かしくなる。そういえば、たまのデートと言ってもぶらぶらとあてもなく街中を歩くことが多かったような気がする。私も一也もそういうのがあまり苦じゃなかったから、何をしても楽しかった。
「大学生の時は、周りの友達が羨ましかったなあ」
「何で?」
「彼氏とさ、ちょっとお洒落なカフェなんか入ったりして。ああいうのにも正直憧れてた」
「それはすみませんでしたね」
冗談っぽく羨ましいと言ってみれば、一也は一瞬だけ瞳を瞬かせて笑う。
「遠征ばかりの彼氏も嫌だったろ」
「うーん、もう慣れた」
店員さんを呼んでそれぞれ注文をして、先に運ばれてきたアイスティーに口をつける。こうしてまじまじと正面から見ると、一也はまた一段と精悍な顔つきになったように思う。一也だって遠征先で先輩たちから遊びに誘われたりしてもそれには応じずにずっと私のことを大切にしてくれた。それはとても大変だっただろう。
大事にされているんだな、ということは一也の言葉や振る舞いの随所に感じられた。だからこそ今までこうして続いている。
「なまえは俺たちの初デートって覚えてるか?」
「初デート?うわ、何か響きがすごく初々しい」
一也の口からまさかそんな初々しい言葉が出てくるとは思わなくて、面食らう。初デートと言えば、確か高校の近くにある大きな公園に行ったはず。寮生だった一也と実家の私との丁度中間地点にある大きな公園。
「小学生とかに混じってブランコに乗った気がする」
「はっは、よくそんなピンポイントで覚えてるな」
「だってあれ楽しかったもん」
あの時はああだった、こういうこともあった、なんて会話に花を咲かせているとすっかり気持ちが高校生に戻っていて、そういえばあの人元気かななんて同級生たちの名前が出てくる。懐かしいなあ、なんて思わず笑顔が零れる。
「今日、その公園行ってみるか」
「え、行く行く!すっごく懐かしい…。変わっちゃってたらどうしよう」
「ブランコくらいは残ってるといいな」
フォークとスプーンで麺をくるくると巻きながら、あの公園のことを想像する。午後からが何だか楽しみになってきた。
まずは久々に定番のルートを通ってみようということで、私と一也は母校を訪れていた。グラウンドの方に回ると一也の後輩たちが練習をしていた。
「挨拶していかないの?」
「突然行ったら迷惑だろ」
「そうかな?喜んでもらえると思うけどなあ」
「まあ、今日はなまえといるって決めたし。ここにはまたいつでも来れるから」
おお、百点満点の回答だね、と言うと調子に乗るなと頭を小突かれてしまった。グラウンドに背を向けて、今度は公園へと足を運ぶ。
学校の佇まいは昔と全く変わらないのに、あれだけ慣れ親しんだはずの場所は今やもう違う空間になってしまっていた。私一人、一也と一緒でも足りない。あの時のみんなが戻らない限りはあの懐かしい場所には戻れないんだと実感する。
「何かこう…、ノスタルジー…」
胸に湧いた寂しさに思わず一也を縋る。私たちは変わらないだろうか、という不安はやっとの思いで飲み込んだ。
結果から言えば、公園は何一つ変わっていなかった。相変わらず鎮座しているブランコにはしゃいで乗れば、一也は腹を抱えて笑い携帯でムービーを撮影しだした。すっごくバカにされている。
「一也も乗ればいいよ、楽しいよ」
「んー、じゃあ隣に失礼しようか」
「どうぞどうぞー」
かしゃん、と一也の体重がかかったことでブランコが軋んだ。大丈夫これ、壊れない?と狼狽える一也が面白くて、仕返しと言わんばかりにその様子を連写してやった。
「ああー、おもしろ。何だろうね、こんな日もいいかも」
ブランコに揺られながらはためくワンピースをちょっと手で押さえる。こんなことならもう少しラフにジーンズとかでもよかったかもしれない。
「なまえ」
名前を呼ばれて一也の方を見る。ブランコは軋みながらも一也の体重を支えている。
「今の仕事続けんのか?」
「えー。もうせっかく高校生気分だったのに仕事の話はやめてよ」
「なまえ」
そんな野暮なことしないでよと手をぱたぱた振ると、思ったより真剣なトーンの一也に気が付いた。
「一也…?」
「仕事、辞めたいって前に言ってたけど、今も?」
一回だけ、本当に一回だけ今の仕事場の人間関係に心底嫌気がさして一也に電話で愚痴を漏らしたことがある。未だにその時のことを覚えていたようだ。
「う、ん…。正直今のところは居心地悪くて、あんまり続けたくはない」
本当は一也に心配をかけたり負担になりたくないから自分のことは黙っていようと思ったんだけど、たった一回だけ零した言葉を今でも覚えていてくれてとても嬉しい。
「一也にあんまり迷惑とかかけたくないから言わないようにしてたんだけどね、ちょーっとしんどいかなあ、なんて…」
誤魔化すように笑って見せるも、一也の顔は真剣なままで心臓がドキリと跳ねた。
「俺が、守るよ」
「え、一也?」
ブランコを降りた一也は私の正面に回ると、同じ目線になるように膝を折った。
「俺がなまえを一生守る」
「一生って…」
「結婚、しよう」
突然プロポーズをされて、私は戸惑った。いやそんな、私たちがこの先どうなるか不安だったけれど、結婚だなんて。まずは同棲を始めたりとか色々な段階があって然るべきなのに結婚なんて。そして恐ろしいことに私の第一声はこうだった。
「え、仕事…」
あれだけ日頃から辞めたい、転職したいと思っていたのにいざ辞めることができるとなったら踏ん切りがつかない。何て臆病なんだ。
「もしなまえが辞めたいなら辞めればいい。辞めたくないなら続ければいい」
「野球選手の奥さんって、専業主婦じゃないの?」
「そんなの人それぞれだろ」
「結婚って…。同棲とかでお試し期間設けたりは」
「どうせお試しで同棲するんだったら、最初から婚約した方が色々楽だろ?」
「楽って?」
「お前実家出ることになるし」
言われてみてはたと気付く。ああそっか。結婚するということは家を出なければいけないのか。私も苗字が変わるんだ、御幸なまえに。そう思うと突然不安が込み上げてきた。今とは大きく環境が変わってしまう、そのことに対する不安。実家を出て御幸家に嫁ぐことになるし、仕事も辞めるかもしれない。専業主婦として一也のことを支えられるのか。その重圧に肺が潰れそうな錯覚に陥る。
「まあ、突然のことで混乱するのは想定済みだし、ゆっくり考えてみろよ」
「え、それでいいの?」
「別に今さら返事を急く必要もないだろ」
「そ、そうなんだけど…」
「そうだ、これこれ」
ごそごそとボディバックを漁り始めた一也。そういえばこのボディバックは数年前の一也の誕生日に私がプレゼントしたものだ。一也の好きなブランドのものだということで、まだ大学生だった私にとっては高価な買い物だったけれど、未だにこうして使ってくれているのは素直に嬉しい。
やっぱり、愛しいなあ。
「左手出して」
言われるがままに左手を出すと、薬指にシャンパンゴールドで華奢なデザインの指輪をはめられた。
「この色、なまえ好きだろ」
「…うん」
「やっぱり、似合うと思った」
私のことを考えて、私が好きだと言った色や私のサイズまで覚えていて、一也が選んでくれた指輪。婚約指輪。そう思うと胸に色んな感情が込み上げてきて上手く喋ることができなくなる。
「泣くなって、化粧崩れるぞ」
私はいつのまにか自分でも気付かないうちに泣いていたようだ。バッグからハンカチを取り出してマスカラが落ちないようにそっと目の周りを拭う。その時薬指の指輪がきらりと光るものだから、余計に涙が溢れてしまう。
「…私、一也と結婚する」
「いいのか?」
「うん、一也がいい。仕事のこととかはもう少しゆっくり考えてもいい?」
「ああ、もちろん」
ぎゅうっと抱きしめられた耳元で、すっげー嬉しい、と一也が呟いた。そっと一也の背中に両手を回すと、より一層きつく抱きしめられた。
「じゃあ、なまえの家に挨拶に行くか」
「今から?」
「もう話はつけてあるから」
「うそ、いつの間に」
「籍入れるのは半年後の俺らの記念日な」
どうやら今日のプロポーズについて知らないのは私だけだったようだ。丁度記念日の半年前にプロポーズをするあたり、余程入念に下準備をされているに違いない。
「お母さん、何か言ってた?」
「すっげー喜んでた」
「それで今朝のご飯が豪華だったのか…」
公園を出て、来た道とは反対の私の家へと二人並んで歩いていく。私は繋いでいない側の手、左手をしげしげと見つめた。