高校時代の悪友が珍しく真面目くさった顔で忠告を入れてきたのをふと思い出した。
ああ、もしかたらもう手遅れだろうかと不安になる俺は自分勝手だろうか。
「洋一、ご飯どうする?」
「別に何でもいい」
「作るか外で食べるかだけでも決めちゃってよ」
「なまえが面倒なら外で食おうぜ」
「…少しは自分が手伝うとかいう発想はないんでしょうか」
「何か言ったか?」
「いいえ、何も」
いつものように仕事が終わった金曜の夜からなまえの家に転がり込んだ俺は、ソファでだらしなく四肢を投げ出していた。
なまえはそんな俺の横でずっと忙しく洗濯を畳んだり掃除をしたりしている。
少しは手伝うとかいう発想はないのか。
はっきりと聞こえたなまえの厭味に、心臓が嫌な風に跳ねた。
ちくしょう、御幸の変な忠告のせいだ。高校から付き合っていた彼女とあっさり結婚した奴の顔が浮かぶ。
あいつはそういうところが実に如才なく、段取りまでしっかりと組んでからプロポーズをしたらしいが、俺にそこまでの器用さはないし、何より恥ずかしい。
今さらなまえに向かってどんな面してプロポーズなんてすればいいのかわからない。
それでも家事を手伝わない(正確には手伝っても役に立たない)俺を、なまえは見捨てないだろうかという不安がここ最近ずっと胸の内に居座り続けている。
かれこれ10年近い付き合いで、すっかりお互いのことを理解し尽しているのでなまえといると居心地が良い。しかしこれはあくまで俺の勝手。
今さらなまえ以外なんて考えられないと思っているのは、もしかしたら俺だけかもしれない。
本人に気持ちを伝えるだけなのに、上手く言葉が出てこない。我ながら女々しいとは思うが。
「じゃあ今日は外で食べようよ。今から買い物してたんじゃ遅くなっちゃいそうだから」
「ん、わかった」
畳み終わった洗濯物を抱えて洗面台の方へと歩いて行ったなまえに倣って、身支度をするために起き上がった。
さすがに部屋着で外に出るわけにはいかないが、そんなに気負った格好をする必要もないし…と頭の中でなまえの家に置きっぱなしの服を並べてみる。
まあ、下だけ履き替えればいいか。と、部屋着にしていた某ファストファッションメーカーのステテコを脱ぎ掛けたところでなまえが部屋まで戻ってきた。
「あ、ごめん」
「…え、今さらじゃね?」
「それもそうなんだけど」
今さら着替えに遭遇しただけでごめんとか、ちょっと余所余所しくないか?
ネガティブモードに入った思考ではなまえの言動に他の意味を見出すことができない。
もしかして、すっかり家族みたいに打ち解けているとか思ってんのって、俺だけ?
「もう、お尻出してないで早く着替えてよ」
「お、おう…」
中途半端に膝まで下ろしていたステテコを足から抜き去って、俺専用だと用意してくれた衣装ケースからジーンズを取り出した。
考え過ぎだろうか。
さっと一言、結婚しようって言おうとする度にこうだ。言葉が出て来なくて、突然得体も知れない不安に駆られる。
「洋一何食べたい?」
どうせプロポーズをするならせめてちょっとオシャレな雰囲気の場所で言いたいものだと思っていたせいか、反射でイタリアンなんて答えていた。
珍しいね、何か。
長いまつ毛をぱしぱしと瞬かせたなまえは、それでもあっさり了承してくれた。
向かったのは駅の近くにある、なまえの好きなイタリアンの店。
曰く、あんなに美味しいのにお手頃価格で、この辺では最上級に良いお店!だそうだ。
俺としても価格の割に量が多いという点でそこそこ気に入っているから異論はない。
「私の好きなお店覚えててくれたの?」
「…ん、まあな」
「そっか。さすが洋一だね」
本当はなまえの好きな店だからという提案では全くないのだが、ここは乗るのが勝ちだろう。
上機嫌な足取りで先へ先へと急ごうとするのが危なっかしく見えて、思わず手を掴んで捕まえた。
土曜の飯時というのもあってか混み合った店内で、タイミング良く窓際の眺めの良い席に案内された。
「わ、ここ座るの初めて。タイミング良かったね」
「そうだな」
もしかして、ここならプロポーズまがいのことをしても大丈夫なんじゃないか?
キョロキョロと辺りを窺って他の席があまり近くないことを確認した。
メニューをテーブルに広げて嬉しそうに、あれが食べたいでもこれもいいと頭を悩ませくるくると表情を変えるなまえが可愛い。柄にもなくそう思った。
白のサングリアを頼んでちびちびと飲むなまえは、アルコールに弱いためすぐに頬を赤くした。
「おい、あんま飲み過ぎんなよ」
「大丈夫大丈夫。自分のキャパくらい理解してるつもりだから」
パスタを無意味にフォークに絡めたり解いたりを繰り返すなまえはそこそこ酔っている。
食べ物で遊ぶなと注意すると少し頬を膨らませて、またサングリアを呷った。
「今度さー、私の友達が結婚するんだって」
何の脈絡もなく投げられた、しかしタイムリーな話題にぎくりとした。
これは結婚についてなまえがどう思っているのか探りを入れるチャンスじゃないか?
何気ない風を装い目線を手元に落としながらも、他はしっかりとなまえの雰囲気を探る。
「大学の時の、ほら覚えてるかな」
聞いた名前は俺の記憶にはなかった。一応、高校大学となまえの親しい友人とは面識があるはずだから、そこまで仲が良かったわけではないのかもしれない。
「もう結婚するんだって、早いよね〜」
「そうか?俺らも結構いい年だと思うけど」
「いやあ、早いよ」
しかし飛び出してきたのは、俺の期待したものではなかった。
もう。早い。ということは、なまえには現段階で結婚する意志がないということだろうか。
今日言えるかもしれないと淡い期待を抱いていただけに、なまえの言葉に思わず項垂れた。
「御幸んとこも結婚してるだろ」
縋るように御幸の名前を出してはみたが、あっさりと一蹴される。
「ああ、だってあの二人は長いし、結婚するって思ってたよ」
「何であいつが?」
「だって、御幸くんが逃がすわけないじゃん。高校の時からあんなに仲睦まじかったんだから。大方の子はみんな結婚するって思ってたと思うよ」
俺たちもう付き合って10年経つけど、それでもまだ結婚は早いのか?
思わず零れそうになった言葉をいつものように飲み込んで、今日もまたタイミングを先送りにする。
あまり長く付き合い過ぎてタイミングを逃さないように。
御幸の言葉が今さら痛い。
勢いだけで進められるほど浅い付き合いではない。かといって何の不自由もない現状から一歩前に進むためには相当の勇気が必要だ。
前にも後ろにも行く勇気はないくせに、なまえに振られやしないかって不安に思う自分が、女々しくて嫌になる。
異動があって俺の仕事が以前よりも格段に忙しくなった。終電で家に帰ることもままあれば、休日出勤も珍しくない。
残業代やら何やらの手当で貯金が貯まる一方で、なまえと会う頻度はめっきり少なくなってしまった。
使える金はあるのに使いたい相手に会えないと意味がない。
異動してから半年が経った頃、思わず零した弱音を上司に聞かれてしまっていたようで、この週末は休めと直々に言われた。
嬉しい反面、照れくさいのと申し訳ないのでややおざなりな返事しかできなかった。
久しぶりに予告なしでなまえの家に行くと、なまえは驚いた顔をしていた。
「お仕事は?」
「休みもらった」
「元々休みなんだけどね、土日って」
突然訪ねたりして迷惑じゃないかとか、もしもう俺の荷物が撤去されてしまっていたらどうしようだとか、色々と不安を抱えながらここまで来たがそれは杞憂だったようでなまえの家は相変わらずだった。
「あー、何か久々」
指定席だったソファに横になってクッションを抱き潰しながらだらしのない声をあげると、なまえにおかしそうにくすくすと笑われた。
「何だよ」
「相変わらずだなあって思って」
「…悪かったな。あんまり構ってやれなくて」
「ううん、大丈夫。洋一は仕事で忙しいんだから。それくらいちゃんとわかってるつもり」
物わかりのいい彼女でありがたいが、こういう時は少し甘えてくれてもいいのに。と思うのは贅沢だろうか。
「なまえ」
手招きしてなまえを呼び寄せ、久しぶりにキスをした。余裕なんてあったものじゃない。
このまま押し倒したら怒られるだろうかと頭の隅で考えていたが、結局は雰囲気に流された。なまえからも特に怒られることはなかった。
「ご飯、ちゃんと食べてないでしょ」
俺の腹やら腕やらをぺたぺたと確かめるように触った後で、目を三角にしたなまえの説教が始まった。
「洋一前より痩せてる。ちゃんと食べないともたないよ?体は資本なんだからしっかりしてよね」
「いや、食べてるって」
「嘘つかない!確実に痩せてる!特に腹回り!」
「そんなことは…」
「ある!悔しい、洋一ばっかり痩せて悔しい!」
「なまえはちょっと肉付きが良くなったな」
「そんなことに気付かなくていいから、自分の変化に気付きなさい」
ぴしゃりと言い渡されてしまい返す言葉もない。
すぐにご飯作るから待っててと言い残して、余韻もそこそこになまえはキッチンに向かってしまった。
俺としてはもう少しなまえに引っ付いていたかったが、言っても聞いてくれそうにない勢いだったので諦めることにした。
「なあ、何作んの」
「そのうちわかるよ」
一人で寝ているだけというのも暇だから、キッチンが見えるソファに移動してなまえに声をかけた。
「何分くらい?」
「えー、1時間くらい。ご飯炊けるの待たなきゃ」
「…手伝おうか」
「じゃあ机の上片付けてて」
「へいへい」
手にしているじゃがいもの皮むきくらいなら何とかと思っての提案だったのだが、言外に戦力外通告を出されてしまった。仕方がないので特に散らかってもいない机の上の物を適当に並べた。
テレビを点け中身のない番組をぼんやり眺めながら、キッチンから聞こえてくる音に耳を傾ける。
規則正しく聞こえてくる包丁の音、全く危なっかしくない手つきで何かをみじん切りにしている。
それと並行して沸騰したお湯がぐつぐついう音も聞こえる。
こういう落ち着いた時間が、ひどく懐かしい。
なまえといると気が抜けるのか、今までの疲れがどっと押し寄せるような感覚に陥った。
こんなに疲れてるってのにそれにも気付かないくらい、…なまえの言うように少し痩せてしまうくらいに働いていたんだな。
ふとなまえが何を作っているのかがわかった。
それはもうただの当てずっぽうに近いくせに、やたらと自信はあった。
「…ハンバーグ?」
「お、せいかーい。よくわかったね。それとポテトサラダもあるよ」
「何か、そんな気がした。…匂い?」
「え、ナツメグの匂いとかそこからわかるの?」
犬みたいだと笑いながら、なまえはボウルの中のひき肉を捏ねている。
「洋一好きでしょ、ハンバーグ」
「…おう」
「疲れた洋一が、少しでも元気になりますように〜って思いを込めながら精一杯捏ねてます」
なまえ、呼んで顔をあげたところで、自分でも信じられないくらいするりと言葉が零れ出た。
「結婚しよう」
「へ?」
空気を抜くために掌を往復していたタネが、ぼとりとボウルに落ちた。
なまえは数回目を瞬かせて、あっさりと返事をする。
「いいよ?」
「いいのか!?」
「うん、だって、断る理由なんてないし」
「………」
「何で洋一が驚いてんの」
こんな肉を捏ねながらプロポーズされるなんて思ってもなかったよ、と苦笑したところではっとした。
「しまった、もっとちゃんと場を整えるべきだったよな。…うわあ、何でこんなタイミングで…」
普通は記念になるものなのに何故こんな場面でと頭を抱えてももう遅い。
しかしそれよりも、なまえが結婚を了承してくれた。その方が嬉しくて感情が爆発しそうになる。
「…いや、待てよ。お前結婚はまだ早いみたいなこと言ってなかったか?」
「え、そんなこと言った?」
「いつだったか友達がもう結婚するって言ってたじゃねーか」
その言葉で気後れしてしまってしばらく引きずったことは内緒だが、記憶にはしっかり焼き付いている。
「あー。だってその子は付き合って3ヵ月とかのスピード結婚だったもん」
「はあ?お前そんなこと一言も…」
「御幸くんたちは結婚すると思ってたとも言ったでしょ、確か。長く付き合ってたら結婚してもおかしくない年だし、私たち」
何だそれはとがっくり肩を落としそうになる。そんなのわかんねーよ、普通。もう結婚するんだって、早いよねとか言われたらそっちが気になるだろうが。
余程俺がぶすくれた表情をしていたのだろう、流しで手を洗ったなまえがソファまでやってきた。
「さすがに10年も付き合ってて結婚できなかったら、ショックが大きくて泣くところだった」
「そんなことあるわけねーだろ、バカ」
「私は未だに洋一にドキドキしてるよ。ちょっと裸見ただけで恥ずかしくなっちゃうくらい。まだまだ高校の時と同じくらい、新鮮な気持ち。洋一は?」
「…それ言わすのか」
「言ってほしい」
甘えるようにすり寄ってきたなまえの腰を捕まえて、恥ずかしいからせめて顔は見られないよう耳元で囁く。
「好きだ、大好きだ。昔よりずっと」
「うん、ありがとう」
涙声につられて顔をあげると、泣き笑いみたいな変な顔をしているなまえが見れた。