大学生の純さんと新入生A

夜ご飯をごちそうになった翌日。
大学のガイダンスを受けた後、サークル勧誘のビラが舞い踊る長い列をやっとのことで抜け出して家路に着いた。
キャンパスから歩いても5分もかからない立地のマンションに到着して、自分の部屋の隣のチャイムを鳴らした。

「伊佐敷さん…ビラの山が重いです」

「お前も洗礼を受けたな」

両手に下げた紙袋を持ってもらって、私は伊佐敷さんのお家にお邪魔する。

「どうだった、ガイダンス」

「学籍番号が近くの人たちと話して、お友達とかもできましたよ」

「おー、よかったな。これで一安心だろ」

「はい、なんとか」

紙袋の中からシラバスやら要綱を取り出して、さっそく授業の組み方を教わる。ガイダンスでも説明してもらったけれど、こういうのは先輩に聞くのが一番手っ取り早い。

「まあ、必修と語学を入れたら、あとは般教と専門が5コマくらい取れるな」

「おお、何かそれっぽい」

「で、おすすめがこれとこれと…」

「伊佐敷さんも同じの取るんですか?」

「ん?一応な」

「じゃあテストとか助けてくださいね、先輩?」

わざとらしく懇願する素振りをすると、先輩呼びが効いたのだろうか満更でもなさそうな伊佐敷さんは快諾してくれた。

「伊佐敷さん。伊佐敷先輩」

「何だ?」

「純さん、純先輩」

「なっ…」

どの呼び方が一番しっくりくるのか本人を前にして反応を窺ってみたけれど、下の名前で呼ぶのはさすがに生意気過ぎたかもしれない。

「えっと、ごめんなさい、呼んでみただけです」

「………何だよ」

「何て呼ぶのがいいのかなあって考えてたんです」

「昨日から伊佐敷さんだったじゃねえか」

「そうなんですけど、何となく…。ごめんなさい」

別に謝ることでもなんでもねえよ、と言って伊佐敷さんはまた授業のチェックに戻ってしまった。私も何かをしなければと思い、乱雑に積んであるサークルのビラを綺麗に整えることにした。

「みょうじは、下の名前なんていうんだ」

伊佐敷さんが目線をシラバスに落としたまま言う。髪の隙間から見える耳が少しだけ赤く染まっているような。

「なまえ、ですよ」

「そうか」

「はい」

「じゃあ、なまえ。この授業…」

「え!!」

思わず大きな声を出してしまい、伊佐敷さんが肩をびくりと揺らした。今、伊佐敷さん私のこと名前で呼びましたよね?
驚いて目を丸くしている伊佐敷さんの耳はやっぱり赤くなっているし、私の顔もきっと赤い。異性に、しかも年上の人に下の名前で呼ばれるという体験は生まれて初めてだ。

「あ、あの…」

「………」

「純、さん。でいいですか?」

「…おう」

昨日初めて会ったばかりなのにもう名前で呼べることが嬉しいと同時に少し恥ずかしくて、ついつい笑みがこぼれる。こんなに仲良くしてもらっていいのかな。

「高校の時の部活でも、純さんって呼ばれてたからな」

「部活、何されてたんですか?」

「野球部。ちなみに今も大学で野球部だ」

「サークルとかは入ってないんですか?」

「一応、部活が忙しいんだよ」

「へえ、そうなんですか」

また今度、練習してるところとかこっそり覗きに行こうと私は勝手に心に決めた。純さんって呼ばれて、きっと部活でも慕われてたんだろうな。面倒見がいい人だし。これから入ってくる大学の後輩にもすぐに懐かれそうだなあ。

「どっかのサークルに入るとは思うけど、一応気を付けろよ」

「何に気を付けるんですか?」

「そりゃあ、その…、酒飲ませようとしたり、家に連れて行こうとしたりする奴とか」

「やっぱり、そういうのってあるんですか…?」

「ちゃんとしたサークルもあるけどな。中にはそういうのもあるらしい」

「何か怖いですね…。入る前には純さんに相談します」

「ん、そうしろ」

宥めるようにして純さんにぽんぽんと頭を撫でられた。
昨日から何だかお兄ちゃんができたみたいな気分で、ついつい純さんに甘えてしまってばかりいる。
家にお邪魔しておいて本当に今さらだけど、純さんは彼女とかいないんだろうか。だけど突然聞くのは失礼かもしれないし、また今度機会があったら聞いてみよう。

でももし、純さんに彼女がいたら、甘えられなくなったら、私ちょっと嫌かもしれない。

「私、純さんの家に入ってますけど、こういうのって危ないですか?」

「…よくもまあそんなストレートに」

言葉の意味がよくわからなくて首を傾げた私を見てバツが悪そうな表情をした純さんは、私の頭をがしりと掴んで髪の毛をわしゃわしゃとかき回す。

「わわっ、ちょっと乱れるっ!髪の毛やめてください!」

「うるせー、昨日取って食わねえって言っただろうが」

「それどういう意味ですか!」

「その中身のない頭で考えてみろ」

純さんの手が止まったと思ったら、ぽいっと放られてしまった。抗議の声を上げながら髪の毛を整えるも、純さんは笑っていて全く私の話を聞いていない。

「今日も飯食べてくか?」

「食べたいです!お買いものとかするのに、近くのスーパー連れて行ってください」

「それじゃあ良い店教えてやるよ。値段も安いけど惣菜もうまいぞ」

「純さん…、立派な主夫ですね」

「ひとり暮らししてたらお前もそのうちこうなるって」

家の鍵を持って立ち上がった純さんに倣って、私も薄手のコートを掴んで玄関へと向かった。

(20150208)

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