novel | ナノ



(成長した跡ジロ)
(お互い一人暮らし)




あれ、俺は今までどうやって呼吸をしていたんだっけ?

ひゅ、ひゅ、と全く呼吸の足しにならない酸素を必死に喉の奥に押し込んで、そのくせ腹から逆流してくる吐き気に耐えながら、俺は小さく小さくうずくまっていた。せめてもの思いでトイレに身体を引きずったけれど上体を起こす事が出来ず満足に吐く事もままならなかった。
次第に意識も白濁としてきて、ああこれが過呼吸ってやつなのかなぁと依然として上手く出来ない呼吸に俺は諦めにも近いものを抱いてそのまま意識を失った。




つん、とキツイ香水の匂いがして目を覚ますと目の前には見慣れた顔が俺を見下ろしていた。相変わらず綺麗なその顔は大好きだったはずなのに今ではとても憎らしくていっそもっとブサイクに生まれてくれればよかったのに、なんて思ってしまう。跡部の事はどうしたって嫌いになれないくせに跡部の顔は吐き気を催すほど嫌いになってしまった。

「お前、寝るならもっとマシな場所があっただろ」

不躾にそう口にして癖の強い俺の頭をぐしぐしとかき回す。目は開いているのに全く反応のない俺を運ぼうとしたのか、跡部が俺を抱え込もうと身体を密着させた時、だるくて指一本さえ動かなかったはずの自分の身体がびくっと一度だけ震えて途端に吐き気が強くなった。
咄嗟にぐいっと跡部の肩に腕を突っぱねて拒否をするが、だるくて力の入らない身体ではなんの意味もなさなかった。もともと香水のような刺激の強い匂いは苦手だったのに今の跡部から香ってくるのはどう考えても女の子がつけるような甘ったるいそれだ。少なくとも跡部が好んでつけるような爽やかなものではなくて、跡部に運ばれている最中、俺はがむしゃらに息を止めその匂いを嗅がないよう必死に努めていた。

それもこれも全部跡部の顔が綺麗なせいだ。

「酒でも飲んできたのか。トイレで寝る理由なんて、それぐらいしかわからん」
「……あとべにもわからない事あるんだ?」
「なに、馬鹿な事言ってんだ」

俺をソファに座らせて呆れたように頭を撫でてきた跡部の手を迷惑そうに振り払う。「触んな」なんて悪態までついて、ああ、まったく可愛くない。
そもそも可愛いなんて一度も思われた事ないんだろうけど。

「珍しく不機嫌だな」
「別に珍しくない」
「朝飯食うか?」
「……跡部が作んの?」
「まさか。さっき下の喫茶店でテイクアウトしてきた」

どうせお前もいると思ってな、なんて言ってガサリと目の前のテーブルに朝食を置いた跡部は飲み物をどうするか聞いてきた。なんだか無性にイライラして、目を閉じて無視をした。
俺が不機嫌なのは別に珍しい事ではないけれど、それを表に出して跡部にぶつけるのは確かに珍しい事である。普段の俺は不機嫌になればなるほど夢の世界にダイブしていた。

「やけ酒でもしてたのか?」

答えない俺に跡部はまた話を戻してそう問いかけてきた。俺から酒の匂いを感じているんだったら耳鼻科行け。感じないのにそう言っているなら黙ってろ。イライラ、イライラ、なんだか確かにアル中みたいだ、今の俺。

「そのわりにはまったくストレス解消出来てないみたいだが」
「呑んでないよ。確かめれば?」

そう言って口を開いて舌を出した。確かに気持ちは悪いし吐き気はするし頭も少しガンガンするけど、あいにく一滴も呑んでない。どうせわかってて質問したくせに、跡部は俺の言う通り出した舌をぱくりと食べて唇を合わせ、口内をぐるりと舐めてから「確かに酒の味しねぇな」なんて言い放った。
俺はそれにしかめ面をして「跡部は臭いけど」と口を拭う。

「酒か?」
「違う」
「だろうな、たいして呑んでない」
「あーもう嫌い。嫌い嫌い嫌い」
「匂いがか?それとも、俺がか?」
「うざいもう黙れ馬鹿」
「あいにく馬鹿じゃあねぇが」
「うるさい」
「素直じゃねぇな。どこに持ち前の素直さ忘れてきたんだ」
「跡部の顔が嫌いになってからこうなったの」

言葉だけを聞くとまるで喧嘩をしているみたいだ。むしろ雰囲気は緩和して穏やかな朝の空気さえ感じているのに。
なぜか跡部とは昔から喧嘩にならなかった。言い合いはしても言い争いにはならない。
跡部はガサガサと袋から朝食を取り出してテーブルに並べた。きちんと二人分あるそれが、たとえどんな状態でも俺がこの跡部の家に帰ってくる事を見越しているかのようだった。(なにが、それとも俺がか?だ。白々しい。わかっているくせに)

たとえ跡部が女の匂いをつけて帰ってこようが、たとえそれが下の喫茶店が開店するほど遅い朝帰りだろうが、たとえそれが跡部と髪の長い女がホテルのなかに消えるのを目撃してしまったあとだろうが、たとえそれが今に始まった事じゃない事だろうが、跡部は俺がここに帰ってくる事を知っている。
ああこんなにも腹が立つのに跡部自体を嫌いになれないのは長い年月を一緒にいるいわゆる"情"というやつなのか、はたまた"愛"というやつなのか。
どっちにしろ苦しい事には変わりないので俺はやはりもっとブサイクな顔に生まれてくれればよかったのに、とそう思わざるを得ないのだ。お前みたいな男は顔さえよくなければ誰も執着しないのだ。だから俺を大切しろ。昔は確かにその顔も好きだったけれど。

「で、どうしたんだ」
「なにが」
「だから、酒以外にトイレで寝る理由がわからないって言ったろ」
「……跡部に俺は必要?」
「なんだ、そりゃ」
「……やっぱいい。……気分が悪かっただけ」
「どういうふうに」
「気持ち悪くて、目の前がぐらぐらして、吐き気が凄くて」
「……やっぱ二日酔いじゃねぇのか」
「あと息が苦しい」
「風邪か?」
「風邪だったら起きれてない」
「今は?」
「だいぶマシ。気持ち悪いけど」
「飯は食えるか?」
「いらない」
「食え」

寝たのではなく過呼吸で気を失ったというのは伝えなかった。気分が悪くなりひどい吐き気に襲われるのは今に始まった事ではないが過呼吸になったのは昨日の夜が初めてで、正直恐ろしかった。

「最近痩せただろ。食え」
「食っても吐くよ」
「なおさら食え。胃液だけだと辛いだろ。病院行ったのか?」
「内科?行くだけ無駄」

どうせよくてカウンセラー、最悪精神科送りだろ。
この症状の治し方なんてもうとっくに知っている。知ってるのに手を出さないのはやっぱりお前が綺麗な顔をしているせいだ。お前がくだらない情で俺と別れないから。

好きなら好きと言ってくれ。嫌いなら嫌いと言ってくれ。いつまでも曖昧なこの状態が俺の症状を悪化させている事には気づいてた。もう幾年も好きとは言われずそのくせ別れようともしない。跡部の心がわからない。離れたくないから跡部の気持ちを聞く度胸も自分から別れる度胸もない。
ずるずる、ずるずる、行き着いた先は呼吸困難。笑えない。
ああ昔は幸せだったなぁなんて、傷心。


とにかく、熱い紅茶を淹れてくる。

跡部は頑なに「いらない」と言う俺にそう言ってダイニングキッチンに姿を消した。早く治せよ、なんて言葉も残して。

早く治すにはこの症状を治す魔法の言葉を言えばいいのだ。きっととても簡単な事だろう。その言葉の先がどうであれこの中途半端な関係をきっぱりさせられる。けれど。

『跡部って俺の事、好き?』

そんな言葉、怖くて使えるはずないだろ。
察せよ、馬鹿。


情と愛と素直さと


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