~2010 | ナノ




 そういえば昨日、倉庫の掃除をしていたという使用人から酷く懐かしいものを手渡された。それは幼稚舎時代の卒業アルバムで、その時たまたま遊びに来ていたジローと笑いながら見入ったのを覚えている。
 長髪の宍戸を久方ぶりに目にしてすっかり懐かしい気持ちに満たされ、大して変わっていないと思っていたジローも実は相当成長している事に気付き密やかに驚愕した。そんな中で写真に映っていた俺はなんとも情けなく、ジローが寝ている横で顔をぐちゃぐちゃに濡らしながら泣いていた。

「そういえばこの頃の跡部って泣き虫さんだったよね」

 と、嫌味ったらしく可愛い風に言ったジローに否定出来ない悔しさを覚えたのは言うまでもない。


 あの頃は良く泣いていた。ところ構わず寝ていたジローを見て恐怖に近い感情を抱いていたのだ。揺すっても声を掛けても何をしても起きないジローに底知れぬ不安を感じてとりあえず一生懸命泣いていた。起きろ起きろ起きろと。
 それでもジローが目を覚ますのは保育士達が慌てふためいて騒ぎになった後で、自分が原因とも知らず当の本人は何事かと驚きながらそれでものんびりとした口調で「どうしたの」と言いやがるのだ。

 成長していくにつれそのどうしたら良いのか分からない感情や不安はなくなっていったが、今、久々にぶり返したその感情に俺の胸は悲鳴を上げていた。
 ギシギシと痛むのは心臓と頭で、ズキズキと痛むのは喉と鼻だ。ぐちゃぐちゃに潤っているのは涙腺が壊れた俺の瞳と冷えきった頬である。
 寝癖とは違うボサボサに乱れた頭とそこに絡まっている葉っぱや小枝を恐る恐る取り除いた。掠れたような小さな声は自分の嗚咽に掻き消されてしまいそうな程に儚くて、胸が安堵で潰れてしまいそうな程に酷く大きく軋んだ。そっと俺の後頭部に添えられた力の感じられない掌を握ってやれないのは、俺の掌がジローの胸元を力強く握っていて離せないからである。涙腺の壊れたぐちゃぐちゃの顔面を見せまいとジローの胸元に無意識に額を押し付ける俺は、情けない事に涙の止め方をとうの昔に忘れてしまっていた。


 事の起こりはたったの数分前にある。珍しい事に三年の教室で派手な喧嘩が勃発し、聞けば殴り合いにまで発展しているらしいじゃないか。それもジローの教室とあらば生徒会長でなくとも足を運ばざるを得ないというものだ。後付け以外の何物でもないが、今思うとその時から嫌な予感がしていたような気がする。
 問題になっている教室に野次馬を掻き分けて足を踏み入れると嫌な予感が的中したかのように、喧騒の中から小さな金髪を見つけた。原因は分からないがジローは自分よりも体格の良い男に胸ぐらを掴まれていて散乱とした机がガンガンとけたたましく鳴っている。見た瞬間から見覚えのある男だと思っていたらそいつは歴史ある柔道部の主将であったと今更ながら思い出した。片手で胸ぐらを掴んだだけでジローの足を浮かせてしまうような彼は、ジローにとってはなんとも分の悪い喧嘩相手である。
 ジローはなかなか温厚な部類だがキレると手が早い。珍しい事もあるもんだと呆れつつも止めに入ろうとした、その時だった。

 バリーンという一層大きな騒音が教室中に響き渡ったかと思うと忽然とジローが姿を消したのだ。一瞬何が起きたのが全く理解が出来なくて、チラリと見えたのは大柄な男の青ざめた横顔と割れたらしい窓ガラス、女子生徒の耳が裂けそうなぐらい悲痛な慟哭を聞いて、俺は事態をやっと理解する。ジローが、落ちた。
 急速に全身の血の気が引いてそのくせ嫌な汗が伝い、喉が裂けるんじゃないかってぐらい大きな声で叫ぶとジローが落ちたであろう中庭へと俺は一目散に駆け出した。

 三年の教室は教室棟の最上階、すなわち三階にある。落ちたら一溜まりもないどころの話ではない。血相を変えて中庭へと走って来た俺は息を整えるのも忘れ茂みの中を必死にジローの名前を叫びながら探した。そこで目に入ったのは茂みの中に無造作に投げ出されたジローの片足で、草木を掻き分けやっと見つけ出したジローはピクリとも動かず、腕には無数の切傷と適量の血。
 どんなに大声で名前を呼んでも、遠慮がちに揺すっても依然としてジローは目を開く事なくただただグッタリと横たわっていた。そんなジローを前に、幼い頃に良く味わっていたあの懐かしくも酷く恐ろしい感覚がぶわりと身体中を駆け巡る。それと共に次第に緩くなる涙腺は意思とは関係なく崩壊した。
 それは二度と目覚めないんじゃないかという、底知れぬ恐怖である。
 息をしていて、心臓が動いているのが俺の唯一を救いだった。しばらくそのまま泣きじゃくっていたら突如呼吸のリズムが変わったのが分かる。

「跡、部は……泣き虫さんだ」

「っ……」

 酷くか細い、蚊の鳴くような声でそう発したジローに泣きたくなる程の安堵を抱いた事は一生こいつには教えてやらない。

「痛っ、痛い…あんま頭押し付けな、で」

「だまって、ろ…!」

 どくんどくんと額に響いてくる心音は力強く確かなもので、ヒューヒューとした呼吸はまだ不安を生むけれどジローは生きていた。今まで生きて来た中でこれ程までに安堵した事はない。

 三階からは騒ぎを聞き付けたレギュラー達の声が聞こえてきた。彼らが血相を変えてここに辿り着く前に体内にある全ての涙を体外へと出しておかなければならない。止め方が分からないのだから出すしかないだろう、俺の涙を知っているのはジローだけで良いと思った。だから俺はジローのこの小さな胸を借りて一生分これでもかと泣いた。

 小さい頃はよく泣いていた。それは決まってジローの横での事だった。
 大きくなって初めて泣いた。それもやはり、ジローの横での事だった。
 今後また泣く事があればそれは一体誰を思っての涙なのだろうか。

 数分後到着が遅く感じた救急車でジローは病院へと運ばれ、大層な怪我を負ったものの命に別状はないと診断された。ちなみにジローを落とした男子生徒は岳人やらに散々戒められ、退学という話も飛び交ってはいたが聞けばジローの方に非があったらしく後日二人が謝罪し合う事でお互いに自宅謹慎で事がすんだ。
 必死に隠した赤い目元は樺地にだけ見事見破られ、こんな事はもう一生、こりごりだと思った。


跡部景吾の涙腺事情

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