~2010 | ナノ




 愛とは一体なんですか?人を愛する事に何か意味でもあるのですか?
 好きな人いるの?と聞いてみた。それは決してただの好奇心でだけじゃない。喉はカラカラに渇いてしまっていたし、声だって多少裏返ってしまっていた。決死の覚悟で問うた精一杯の一言だった。

「なんや、バレてるん思ってた」

 俺は世の中が嫌いだ。だって無駄にうるさいのだ。ネクタイをきちんと結べと唾を散らす先生も、人に優しくしなさいと言うとても難しい事を要求してくる大人も、くだらない事でギャーギャー騒がしいクラスメートも、クラクションとエンジン音が絶えず響く外の世界も、話し声が混じり合って最早これ以上ない程の雑音と化した音も全て全てがうるさ過ぎてこの世の全てが大嫌いだった。
 耳を塞いでもそれらの音は絶えず漏れてくる。とにかく音を遮断したくて力一杯耳を押さえつけた。それが今年の四月。

「そんなん、いるに決まっとるやろ」

 やっとの事で少しそんな世の中を好きになってきたこの頃。しかし目の前の忍足のその発言でまたも俺の世の中はそれはそれは酷く容易く真っ黒く暗転した。


  咀嚼(そしゃく)する音が嫌いだ





 腹が減った。だから食堂に行こうと忍足を誘ったのは確か自分だった。
 今日は母ちゃんが買い物し忘れたか何かで朝飯がおにぎり一つしかなくて、それなのにも関わらず珍しく朝練なんか参加しちゃったりしたが為に一限目から本当に腹を空かせていた。ギュルギュルとうるさい腹をたずさえて唐揚げ定食を頼んだは良いもののさてどうしようか。今一向に唐揚げが喉を通さない。
 原因は先ほどの忍足の言葉だ。好きな人いんのという問いにあっけからんと「いる」と返事をした忍足のせい。ああもう全てがどうでも良くなった。なんだよ、いるのかよ。がっかりだ。

「ここの学食相変わらず美味いなぁ」

「あ、そう」

 忍足は四月に氷帝に転入してきたばかりの関西人で、同じテニス部という事もあり良く話す仲になった。しかし一番仲が良いかというと、そうでもない。

「ジロー意外と鋭いからバレてる思ってたけど、やっぱり俺のポーカーフェイス半端ないな」

「へぇ」

「あれ、ちょっと、突っ込んでや」

 そっちから振ってきた話題やんかーと不貞腐れる素振りを見せながら忍足は天ぷらうどんの豪華なエビ天を頬張った。
 正直、見当はすぐに付いた。忍足が東京に越してきて一番初めに仲良くなったのは彼のダブルスの相方である岳人だから。まだ出会って短いけれど、その短い期間で忍足と幾度が会話をして少しだけ分かった事がある。彼の理想(好み)は岳人そのものだ。何故気付かなったのだろうか。ちょっと考えればもっと早くに容易く気付けてしまっただろうに。

「……ジローもいるやんな?」

「っ、は?」

「見てれば分かんで」

「うっそ」

 忍足の淡々と述べた言葉に俺は素で驚いた。隠していたつもりであったのにそんな簡単にバレてしまうあたり自分の態度はそんなに分かり易かったのだろうか。喉が更にカラカラに渇いていく。

「全然態度とか全部ちゃうもん」

 忍足は言う。

「でもな、実はまだちょっと分かってへんねん」

 そんな忍足に俺は今にも吐きそうで。
(吐くものなんておにぎりぐらいしかたくわえてはいないのだけれど)


「めっちゃ笑顔やねん。あいつといる時のジローは絶対に素で、全部の心の扉を開いてる。他の奴らとの態度とはあからさまに違う。一緒にいるだけでごっつ幸せそうや。それに引き替え俺へのジローの態度はその真逆で、笑わへんし笑ったとしても鼻で笑うとかそんなんばっかで素っ気へん。いつでも眠たそうで俺を見いひん。これも他の奴らとの態度とはあからさまに違う」

 忍足は饒舌かつ言葉巧みに言ってくる。関西人特有なのか何なのか話し方を知っているし人の心を掻き乱すのがえらく得意だ。そのくせ図星をついてくるからうっとうしい。

「最初嫌われてんかなー思って、でも幾度が会話して少しだけ分かった。ジローは世に言うツンツンや。嫌いな奴にはジローは一切干渉なしやろ。会話出来てるって事は俺ん事別に嫌いではあらへんねん、多分」

 なぁ、ジローは。一拍置いて目線をうどんから俺へと上げた忍足に俺は眉間に皺を寄せて目線を下げた。
 湯気がおさまりつつある定食付属の味噌汁は味が濃くてあまり好きではなかった。無駄に豪華なここの食事は確かに最高に美味い代物だけれど毎日食いたいかと言われるとあまり食いたくはない代物だった。腹に合わないのだ。何もかもが。
 忍足の言葉の続きを聞きたくなくて耳を塞ぐ。これはもはや俺の癖であり、ある種の発作である。手の隙間からスルリカランと落ちた箸なんてどうでも良い。とにかく遮断。外界からの孤立。自然と目も閉じていた。

「聞けや、ジローに聞きたい事やねん」

 なのに忍足はそんな俺を現実に引き戻そうとテーブル越しに俺の手首を掴んでは無理矢理耳から剥がし取る。負けじと俺が耳を覆おうとするものだから何だか妙な攻防戦みたいになった。そんな状況に嫌になりふと薄目を開けると、目の前に忍足の垂れ下がったネクタイが見えて、その先っちょが濃い味の味噌汁に浸かってしまっているのに気が付いた。

「忍足、うざい」

「う、え、すまん」

 そしたら急にスゥッと頭に上りかけていた熱が一気に引いて、馬鹿馬鹿しい、と冷静に低い声で否定の意を申した。忍足は素直に手のみならず身まで引く。しかしそれでも椅子に座り直した忍足は口を閉じようとはしなかった。なんてお喋りな事だろう。俺は閉口した。まるで何も聞いてませんとでも言うかのように。
 忍足の聞きたい事なんてろくな事じゃないに決まっている。

「ジローは俺と跡部」

 忍足は懲りない。それが彼の短所であり最大の長所でもある。

「一体、どっちが好きやねん」

 全くもって、うっとうしい極まりなかった。


「何言ってんの?」

「誤魔化しは無しにしようや。悪いけど確信してんねん」

「何を」

「ジローの好きな奴はどちらかやって」

「ふうん?」

 正直跡部という存在は別格に等しい。唯一、素で甘えられる存在であり、唯一、弱みだとか本心だとか俺の汚いところ含め全てを見せられる、さらけ出せる貴重な存在だからである。
 そんな跡部は言った。「理屈を求めるな、お前の悪い癖だ」と。「意味を求めるな、考え無しに行動するバカがお前だろ」と。
「恋だの愛だの考えるだけ無駄だバカが。考えたところでてめぇにゃ一生分かんねぇよ、諦めて諦めろ」
 的確なだけに腹が立つ。目から鱗なんてうまい言葉を作ったものだ。むう、と唇を尖らせた俺に跡部は呆れたように笑いながら「まあ、せいぜい足掻け」と彼なりのエールを俺に贈った。それはつい先日の話。

「忍足って言ったら、どうすんの……?」

 あくまで茶化すように言ってみた。頬杖をついて笑って、利き手ではテーブルに常備してある新しい箸を手に取り唐揚げをころころと弄ぶ。そんな俺に忍足は少しばかり目を瞬かせたあと参ったとでも言うようにふにゃりと笑って脱力したように椅子に全身を預ける。お、勝ったかな?と少し心に余裕が出来た。心を乱されるのは正直嫌いだ。

「そう来るかー、強敵やなぁ、ジロー」

「ふへへ、許可なしに踏み入って来るとか礼儀知らずだよ忍足」

「ジローが言うと怖いわぁ」

 はあ、と困ったような笑顔でため息を吐いた忍足は体勢を整えると味噌汁を飲んだ。忍足は薄味を好むからここの味噌汁は口に合わない筈なのだけれど。日本人のもったいない精神は素晴らしいと思う。(俺だったら残しちゃうよ)
 何とかうやむやに話を終わらせる事が出来た事に俺はすっかり安心して油断してしまっていた。冷めてしまった唐揚げをお箸で摘まんで口に放り込む。まだ気分は復活した訳ではないし心の中は憂鬱だが腹が減っているのも確かで、無理矢理口の中で唐揚げを噛み締めた。

「まあ、どうすんの?言われても」

「ふん?」

「俺は」

「……っ!」

 性懲りもなくまた口を開いた忍足に俺は瞬間的に意思よりも早く耳を押さえた。今日の忍足はダメだ。しかし耳を閉じたら自分の咀嚼する音がいやに響いて耳を閉じてまで遮断出来ない音、そして微かに漏れてくる声の存在に俺はこの世の全てが早く終わってしまえば良いのにと心の底から強く思った。


 ――忍足と俺が出会ったのは今年の四月。全ての音を毛嫌いして中庭あたりで耳を塞いでいた俺に転入して来たばかりの忍足が声を掛けて来た事が俺達の始まり。忍足の声は安心出来る心地よい低音だった。ただその安心感に俺はなついているだけなのかも知れない。閉鎖的になって弱っていた俺を優しく宥めてくれた忍足に俺はただなついているだけなのかも知れない。恋じゃないのかも知れない。
ついほんのさっきした落胆は失恋というものだと思う。だが正直頭が回らない今、良く分からない。
 けれど。

 ――味噌汁に沈むネクタイを見た時、染みになると瞬間的に思った。クリーニング屋の次男だから?と問われたら首を横に振るだろう。自慢じゃないが家業の手伝いなんて店番ぐらいしかした事がないし興味も薄い為知識なんて微塵もない。味噌汁が染みになって残るのかなんて知らない。ただ、あ。と思ったから。だから忍足と自分との身体の距離を離した。
(その行動と心理はどういった意味をもたらすのか)

 忍足、嫌いになりたいぐらい俺は君が好きだよ。

「ジローの気持ちには答えられへんけどな。例えそうでも」

 にこりと笑った忍足のその言葉は耳を塞いでいた筈なのにはっきりと俺の耳に届いた。

「ジローの想い人は跡部やろ。九割方そう思っての質問やってん。意地悪したわ、堪忍な、ジロー」

 ごちそうさまと手を合わせた忍足に悪意などある筈もなく。
 湧いて出るのは辛さと嫌気と自己嫌悪を呼ぶふざけた感情だ。
 無理矢理唐揚げを喉の奥へと押し込んでグシャリと髪を強く握った。無意識のそれは堪えろという自己への警告だ。乾いた笑みを浮かべて自分を誤魔化してみても、口角は下がるのを望んでいる。
 あれだけ腹を空かしていると言っていたのにも関わらず唐揚げは手付かずで俯いている俺に忍足が怪訝に思うのは当然で、忍足は様子をうかがうような声色で俺の名を小さく呼んだ。
 構わないで良い。俺は今自分の感情と戦うのに必死なのだ。
 勢い良く息を吸ったらうまく喉を通らなかった。煩わしい、気が散ってしまう。そんな心理状態の中必死に震える唇を抑えて俺が発した言葉。自分のコントロールがきかないのはいつになっても慣れない。跡部曰く感情の垂れ流し。いわゆる、暴走だ。

「嫉妬は恋と姉妹である。天使と悪魔が、兄弟であるように」

「……はあ?」

「ブーフレール」

 恋と嫉妬は同じ場所に存在している。

「いや、分からへん」

「偉人」

「なんで主語のみやねん」

 天使と悪魔が同じ位置に存在しているのと同じように、嫉妬と恋は仲良く手を繋いでそこに立っている。
 どこかで聞いた良く知りもしない人の有名な言葉。特にへぇともおおとも思わなかったその言葉が何故か今は不意に頭に貼り付いていて離れない。口から滑るように言葉が流れてくる、まるで洪水みたいに。

「だからつまり恋と嫉妬は仲良く手繋いでるって事、多分」

「ああ、やっとなんとなく言いたい事は分かった。けど、なんで急にその話や。意味分からん」

「……意味なんてない。頭に出てきたから言っただけ」

「ジロー?」

 “人を愛する事に意味なんて一切ないのだ。だからこそ人は人を愛するのである。”ついほんの先日に跡部が本から抜擢した台詞であるそれを、時間を経て俺の頭はやっと理解した。

「嫉妬とか、うざ……」

 口角を無理矢理上げて言った台詞は許可なく勝手に流れ出た生温い液体に見事に飲み込まれ、親友にくだらない妬みを向けた自分がますます嫌いになる。
 はらはらと落ちる滴は今まで溜め込んで我慢して来た全ての辛さだ。

 ガタン、という椅子から立ち上がる音がどこか遠くで鳴った気がした。


「ジロ……泣いて……んう!?」

 命短し人よ恋せよ。愛は人間の所有物である。
(どういったものを恋というのか俺にはまだ良く分からないけれど今のこの自分の気持ちを恋というのなら、それをこれからの人生もずっとしていけだなんて誰が言ったか知らないが俺達人類というやつはなかなか酷な事を言うじゃないか)

 天ぷら食った後の人間にキスはするものじゃないな。暴走した末にやっと冷静さを取り戻し最初に思った事なんてせいぜいそれぐらいだ。



支離滅裂
咀嚼する音が嫌いだ:flickers.
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -