~2010 | ナノ




「あかん!遅刻や!」

 空は快晴、風も心地好い。目覚まし時計が壊れていなければなんて最高に良い気持ちな朝だった事だろう。
 俺、忍足侑士。会社員。ただいま絶賛遅刻中。まさか食パンくわえて走る日が来ようとは思ってもみなかった訳だが、まあ、実際走ってしまっている訳だから深くは考えない事にしよう。俺は会社勤めのいわゆるサラリーマンで、そこそこの会社で働いている。大阪から上京してきて引っ越しを繰り返して来たが今は何だかんだと会社の寮に落ち着いていた。うちの寮はなかなか広く設備も良い。同室の人間のせいでデメリットも少なくはないがそこらへんのマンションに暮らすよりも過ごしやすかった。
 そうだ、そもそも目覚まし時計が壊れたのは先日同室のアイツが蹴って地面に叩き付けたからではなかったか。壊した張本人は会社に泊まったのか俺が慌てて起きた時には既にベッドにはいなかった。アイツに限って早起きして出勤だなんて事はまず有り得ないので会社に泊まったのだろう。怠慢な性格をしている彼は仕事を良く溜め込む。
 ひとつ溜め息を吐いて腕時計を見ればいよいよやばい時間であった。走るスピードを上げて曲がり角を勢い良く曲がる。その時。

「おわ!」

「うわあ!」

 曲がり角を曲がった瞬間胸あたりに衝撃が走りあまりの突然の事に思わず後ろに倒れてしまった。おまけにパンも落としてしまう。耳に届いたのは自分の声と重なるようにして聞こえた若い少年の声だった。

「いってぇ!どこ見て走ってんだおっさん!」

 見れば目の前には背の小さい赤い髪を揺らすおかっぱの少年(ぱっと見とても愛らしい女の子のようだ)がアスファルトに尻餅を付き俺を睨んでいる。学生かとも思ったが少年はビジネススーツを着込んでいて少し違和感を覚えた。
 ちなみに俺はまだピチピチだ。少なからずおっさんと呼ばれる歳ではない(まあ、若い奴から見たら俺の歳でも十分おっさんに見えるんだろう)

「おっさんとか失礼やで、それにぶつかって来たんそっちやんか」

「俺は今急いでんだよ、だっせぇ眼鏡しやがって!」

「初対面相手に失礼なやっちゃなあ、おチビさんいくつやねん歳上はわきまえや」

「チビとか言うな!ちょっとでかいからって何様だっつーの!」

 キャンキャン叫んでどうやら気が立っているらしい少年はぶつかった衝撃で散乱した大量の資料やら何やらをかき集め強引に鞄に押し込んだ。

「クソクソ、時間無駄にロスした!気をつけろよおっさん!」

 そしてそう口悪く言い放つと足早にその場を去ってしまう。小さくなって行く背中を半ば唖然と眺めながら俺は内心何気なくムカムカと機嫌を損ねていたが何でかあの鮮やかな赤色の髪が揺れる様に心が少しざわついた気がした。
 背中が見えなくなり今遅刻中だったと我に帰るまで俺は土に汚れた食べ掛けの食パンの傍でただただ唖然と嵐のように去って行った少年の鮮やかさを頭に描いていた。



***



「よう、忍足、今日は珍しく遅いな」

「ま、間に合ったぁ……」

 会社に駆け込んでエレベーターに乗り自分のデスクに付いて漸く一息を吐く。デスクの上の時計を確認すれば上司の来る時間の本当にギリギリで、自然と深い溜め息が漏れた。そんな俺に首をかしげ横から同僚の宍戸が声を掛けて来るが返事をするのが何だか億劫だ。

「本当、珍しいよな、ジローは朝からいるし」

「あ!せや、ジローのせいで俺寝坊したんや!」

 一言文句ぐらい言ってやろうと、伏せていた顔を上げジローのデスクにへと目を向けたがしかしそこには大量の資料とお菓子類で溢れているデスクしか存在しなく肝心のジローの姿はどこにも見当たらなかった。聞けば給湯室に行ってしまったらしく、一夜漬けしたであろうにも関わらず寝ていないあたり確かに少し珍しいかも知れない。社会人としての自覚がやっと芽生えたのだろうか。
 そうこう宍戸と話しているうちに上司が出勤して来た。

「諸君おはよう」

 と彼特有の雰囲気でそう言った上司は普段ならあと一言二言で挨拶を済ますのだが今回は何でも、我が部署に新人が来るだかでいつもより長居していた。そういえばそんな噂も立っていたなぁとあまり関心のない俺は話を聞いているフリをしてデスクの上の、常に開きっぱなしである自分のノートパソコンに貼られた色とりどりの付箋を目にする。いつの間に貼られたのか昨日自分が帰るまではなかった筈の付箋がいくらかあって、内容が仕事のものもあれば女性社員からのお誘いまであった。

「あー!」

「!」

 指でそれらをいじくっていたら突如聞こえてきたのは何だか妙に聞き慣れない、しかしどこかで聞いた事のある叫び声で。俺は不覚にも相当驚き、思わず肩を盛大に揺らしてしまう。何事かと目を見開いて振り向けばそこには鮮やかな赤い色が揺れていた。

「お前、今朝のムカつくくそ眼鏡!」

「……な」

「お前達、知り合いか」

 くそ眼鏡との言われように事情の知らない宍戸は盛大に笑い上司には微妙な勘違いをされる。おいおい待てよ、まさかこんな少女漫画のような展開を体験する日が来るだなんて思ってもみなかった。
 そもそも、その容姿で社会人だなんて大して歳も変わらないのだろうか。この時期に新入社員だなんて事はないし、ここにいるという事は少なからず未成年ではないと判断して良いのだろうか。良く良く考えればジローだって同じようなものだったがこの時俺は嵐のように去った少年、いや、青年?と嵐のような再開をして多少なりとも動揺していた。

「お前ここの社員だったのかよ!お前のせいで初日でクビんなるところだったんだぜ!」

「俺に罪被せんなや。寝坊したんが悪いんやろ」

「いんやお前にぶつかりさえしなきゃ余裕でギリギリだった!」

「日本語むちゃくちゃやん」

 上司がいる事も忘れて朝の続きとばかりに俺達は口論してしまい結果知り合いと勘違いされてしまった俺は何でかこのキューティクル青年の世話役を任されてしまった。この会社は広く、仕事も様々な為誰か一人何かしら教えてあげないと何がなんだか分からない。まあ部署によって動く範囲は決められているからここの場合の世話役なんて会社の設備のちょっとした案内ぐらいなのだが。
 そして彼のデスクは俺の隣の隣だった。宍戸が間に入っていて何でか居心地が妙だった。

「では、行ってよし」

 上司のお決まりの決め台詞で朝の挨拶はやっとの事で終わる。さあ、仕事だ。と一回伸びをして隣をちらりと盗み見れば宍戸と彼が早くも打ち解け始めていた。宍戸越しに改めて良く彼を観察してみれば丁寧に切り揃えられたおかっぱ頭にはくっきりと天使の輪が作り出されていて、目はつり目でぱっちりと大きく、肌は白い。どきん、と胸が盛大に鳴った。あれ、と思いずいっと顔を二人の方へと豪快に寄せる。

「おわ!何だよ忍足」

「おしたり?」

「忍足侑士、よろしゅう」

「へぇ、変な名前だな」

 ズバッと容赦なく失礼な事を言って来たが今はそんな事よりも。

「なあ、身長なんぼ?」

 嫌味でも何でも純粋にただ知りたかっただけなのだが彼はその言葉を聞いた途端まるでヤカンの如く顔を真っ赤にさせ無防備に晒け出された俺の顔面を今度は猫の如く思いっきり引っ掻いた。あまりの痛さにちょっと泣いた。

「痛ぁああ!引っ掻いたぁあ!」

「死ね!」

「なんぼやねぇえん!」

「死ねぇ!」

 余程身長に触れられたくないのかその抵抗は凄まじく間に入っていた宍戸が堪えられずにとうとう仲裁に入る。

「落ち着け、仕事場だ」

 初日で怒鳴られたくねぇだろ?と宍戸が宥めると彼は息を荒くしながらも少し大人しくなった。

「何でそんなに身長が気に何だよ?」

「そうだ!確かに平均よりちっせぇのは自覚してるけどな、てめぇに馬鹿にされる筋合いはねぇ!」

「馬鹿になんてせぇへんよ!俺はただ身長が聞きたいだけや。聞いて笑おうなんて微塵にも思ってへんしやな」

「じゃあ何でだよ?」

「あんな、あんな、それがな」

 俺はいそいそと自身の付箋だらけのノートパソコンの電源をオンにする。ブウンと軽く音がして二人にディスプレイを見せた。二人は急に意気揚々とし始めた俺に怪訝そうに眉をしかめディスプレイを覗き見る。ぴしり、二人の動きか止まったが俺はお構いなしに嬉々として口を開いた。

「まいんちゃんにそっくりやねんお前!その切り揃えられた髪といい天使の輪といいつり目のくりくりお目々といいクリソツやねん。ここまで似てたら身長も気になるやろがい!まいんちゃんな158センチあんねん、なあ、お前は?」

「寄るな変態!嫌だあ!」

 彼は顔を思いっきりしかめ、半泣きで俺との間に宍戸を挟んだ。宍戸はと言うと仕事用のパソコンに何してんだと呆れながらも「確かに似てるかもな」と呟いている。なあ、なんぼ?としつこく食い下がる俺に対し彼は相当嫌悪感を抱いていたようで俺への印象は恐らく最悪中の最悪だ。だが俺の胸の高鳴りは治まる事を知らずむしろどきどきと早く波打っている。心なしかうるんだ瞳で真っ赤になった顔を宍戸の肩に隠しながら俺を睨み付ける仕草のままにポツリ呟いた「158」という彼の言葉に俺は更に胸を轟かせた。


 彼、一見少年に見える可愛い彼の名は岳人。向日岳人。後に俺のエンジェルとなるキューティクルな青年である。
 俺の恋は昔から、いわゆる“萌え”から始まるのだ。


「お昼一緒に食おうな!」

「誰が食うか馬鹿!」


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