短い刷毛が小さな丸い爪の上で、何度も何度も行ったり来たり。
曲がっては麺棒で形を整えて、それでもだめな時にはさっぱりと全部拭き取る。
そんな動作にかれこれ30分以上の時間を費やしている彼女に、俺は完全に放置されている。
床に座り込んでローテーブルにパステルカラーを並べる彼女の後ろで、ソファーに座って雑誌を読み耽る。
読み耽るなんて言っても、書いてある文字より、うんうん唸りながら作業をするなまえの方がずっと気になるから、内容なんてちっとも頭に入ってこない。


「やってあげようか?」


真剣な表情で刷毛を滑らすなまえは、十分過ぎるほど時間をかけて人差し指を飾って、一息ついたところでやっと首を横に振った。
いいの、と短く返ってきた返事は、どこか元気がない。
それを不思議に思いながら、足を組み替えて、あくまで雑誌を読むふりを続ける。
ちらり盗み見てみると、相変わらずちみちみと、丁寧過ぎるくらい丁寧に爪を彩るなまえの背中がいつもより少しだけ小さく見えた。

やっとのことで仕上げた左手を掲げても、なんだか納得いかない表情のまま。
曇りがちな瞳が伏せられたと思えば、小さな小さな溜め息が聴こえた。
短く切り揃えられた爪はお世辞にも美しいとは言いにくい。ましてその爪を飾ったのは、人よりだいぶ不器用な彼女。
なまえには悪いけど、俺は最初からこうなるって予測してたよ。


「あのさ、なまえ

「やっぱり上手く出来なかった」


俺の声を遮ってなまえが呟く。
わかってるなら代わりに俺が、と続けようとして口を開いてみたのだけれど、彼女の横顔がふにゃりと寂しそうに歪んで、思わず言葉を飲み込んだ。
抱えた膝に顔を埋めてなまえはうなだれる。


「今日ね、綺麗な爪の人を見たの
 きっと毎日時間かけて磨いてるんだな、レン、そういう人好きそうだな、って思ったら居ても立ってもいられなくなっちゃって
 不器用だから上手く出来ないってわかってたんだけど、ちょっと、悔しいな、」


ぽつりぽつり、まるで独り言を呟く様に言葉を零す彼女の背中は、さっきよりも、もっとずっと小さい。
でも、それを聴くまで感じていた呆れはどこかにいってしまって、今はもう、彼女が愛しいと思う事で精一杯だった。

たいして読む気もなかった雑誌をぽいと放り投げると、なまえと同じように床に座り込む。
髪の隙間から覗く可愛い耳に口付けて、驚くなまえの右手をそっと掬い上げる。


「君の言う通り、俺、そういうの好きかもしれない
 ただ、見るのだけじゃなくて、やってあげるのも好きだって、知っててほしいな」


緩んでしまいそうになる口元をなんとか引き締めて、左手を彩るポンパドールを手に取った。
これくらいなら慣れたもの。綺麗に保てると手順を踏んで、なまえの爪に色を重ねる。
ただただ黙って見詰めているだけのなまえに、こうするといいと時折声をかけながら。
丸い爪に可愛らしい色を乗せて、トップコートで蓋をする。
出来上がった右手を見てなまえが感心しているうちに、手早く左手の修整を済ませておこうか。


「そんなに悩まなくても、この短い爪の先まで、誰にも触らせたくないくらい愛しいと思ってるよ」


刷毛を小瓶に戻して、なまえに小さく笑いかける。
恥ずかしそうにありがとう、と返してくれた彼女の瞳には、薄く涙の膜が張っていて、また胸の奥がくすぐったくなった。
そんな顔、他の男の前でしないでね、僅かに呟いた声はなまえには届かない。



「まだ乾いてないからね、終わるまで俺に触っちゃダメだよ、」



なまえの両手をすり抜けて、柔らかな唇に口付ける。
啄むように何度も、何度も。
俺の服を掴もうと宙に彷徨う彼女の両手も、戸惑いがちに零れる吐息ひとつさえも、全部。

なまえの頬がその爪と同じ色に染まっても、離してあげられないかもしれない。


「俺がどれだけ君を愛しているか、わかるまで教えてあげる」


答えが返ってくる前に、その言葉ごと唇を奪ってしまおうか。

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