誰そ彼


 コン、コンコン、と一拍置いてのノックを三回。それが、狛山ですよ、の合図。

「――失礼します」

 狛山は音を立てずに中に入り、こちらに背を向けている黒い影の視線の先を探った。男が見つめている窓の外には、なんの面白味もない藍色と夕焼け残りの赤色が混じった空が広がっている。
 ――ここはいつもそうだ。朝が来ることも、夜が来ることもない。そもそもその概念がないのだ。生も死も、ここには一切存在しない。

「……どうした」

 男の問う声は相変わらず冷たい。狛山は額に手を伸ばし、被っている黒いスポーツキャップのつばを下げ、深く帽子を被り直した。それにより狛山の表情がわかりづらくなったのだが、帽子を目深に被ることが狛山の常なので問題はない。

「報告します。あなたが前々から目をつけていた男児、山本陽介。あれが怪異にやられ、怪異の一部になりました」
「――そうか。それは非常に残念だ」

 男は肩を落としそう言ったが、しかし声音は全くその事実を悲観してはいなかった。まるで、こうなることがわかっていたかのように。
 狛山は静かにその後ろ姿を見つめ、男の言葉の続きを待った。

「生者……いや、人間とは脆く儚いものだな」
「ぇ、あ、はい。そうですね」

 窓から視線を外し、男がこちらを振り向いて言った。部屋の照明はついておらず、灯りと云えば外からの光だけ。男にかかった影が黒く深く揺らめいた。
 男が皮肉な笑みを張り付け、喉の奥で低く笑う。

「我々は人間でも幽霊でもない。生者でも亡者でも、怪異でもない。では我々は何者か。その答えは、“ない”。何者でもない我々が、何故理の均衡を保たねばならんのか。狛山」
「……それが為すべきこと、だからでしょうか」

 常々狛山は、男から「己の為すべきことをしろ」と聞かされていた。何者でもない彼らは、己の中にあるどこか漠然とした使命を全うすることでしか、その存在を維持できない。ある意味、生者よりも脆く儚い存在なのだ。

「そうだ。昨今の現世は非常に理解しがたい問題に苛まれている。怪異――つまり人間によって作り上げられたその虚構に、人間自体が被害に遭っている。話を作り、それを噂で広げ、あたかもその話が本物であるかのようにでっち上げる。そのせいで本物となった怪異は力をつけ、弱く隙だらけの人間を喰らっていく。被害に遭った人間は、持って生まれた寿命を全うすることなく、ただただ憐れに死んでいくのだ……。それがどんなに深刻な問題か、お前にわかるか」
「はい。現世の理を無視した怪異の存在によって、被害が現世だけでなく、ここ、常世にまで影響が及んでいること。生命維持のバランスが怪異によって崩されていること。……このままでは、全てのものが消滅してしまいます」

 狛山の答えに、そうだと男が満足げに頷いた。これが四方木だったら答えられずに説教コースだったな……。と同僚の阿呆面を頭に思い浮かべる。しかし緊張が悪い方向で緩みそうになったので、すぐに阿呆面を頭から追い出した。
 狛山は気を引き締めて、再び静かに男の言葉を待った。

「しかし我々では怪異に手を出すことが出来ない。それを生み出した人間でしか、怪異に対抗できないのだ。……これも深刻な問題の一つだな」

 男がため息交じりに言った。それを見て頷いた狛山は、男の言いたいことを続けて言った。

「だから力を持っている人間に接触して、怪異を倒してもらうんですね」
「ああ。……だがダメだ」
「え?」

 椅子に座った男が首を横に振った。机に肘をつき、組んだ手で口元を隠しているせいか、影がより一層濃くなった気がした。

「いくら力を持っていようとも、結局は怪異に裏をつかれやられてしまう。それではただ死人を増やしているだけだ。意味がない。我々はもっと怪異が恐れる、怪異の弱点を突く人間に出会わなければならない」
「……そんな人間、いるんですかね?」

 純粋な疑問が思わずといった形で口から出た。狛山のその言葉に、男がニヤリと口角を釣り上げる。

「以前交渉をしたんだが、付け入る隙もなく断られたよ」
「は……? ――え、断られたんですか!?」

 狛山が身を乗り出して驚いた。

「なかなか警戒心が強い子でな。電話で話をしたんだが、話の途中で切られた」
「そうですか……。ではまた探さなければいけませんね」
「いや……」

 首を横に振った男が、狛山を射抜くように見据えた。威圧感。狛山はそれを肌で感じ、目を見開いてゴクリと唾を呑みこんだ。

「彼には必ず協力してもらう。逃げ道を与えるつもりはない。利用できるものは全て利用させてもらう」

 そう言って目を細めた男に狛山はゾッとした。敵にしたくない、何度そう思ったことだろうか。意味もなく帽子のつばを触り、苦笑いで誤魔化した。

「電話の子、そんなにすごい力を持っている子なんですか?」
「目には目を、歯には歯を。怪異には怪異を、だな」
「はぁ……?」

 男に投げた問いは、しかし、正しい形では返ってこなかった。どういう意味だろうかとその真意を図りかねている狛山に、男が「西を呼べ」と低く言い放った。

「は……、え、西ですか?」
「そうだ。……二度も言わせるな。早く行け」

 男の冷たい声音に、狛山は慌てて西を呼びに部屋から出て行った。
 残った部屋には男が一人。男はため息をつき、椅子を回転させ背後の窓に目をやった。景色は先程と変わらず、なんの面白味もない藍色と夕焼け残りの赤色の空。
 それを暫く眺めていると、コンコン、コンコンと一拍置いてのノックが四回。これは西の合図だ。

「――失礼します」
「報告しろ」
「はい。後藤悟志ですが、やはり彼のリレイトは使えます。先日、怪異に襲われ死ぬ寸前だったクラスメート、鳴神アキラをいとも容易く助け出しました。あの怪異は結構たちが悪かった気がするんですけどね。あっという間でした。触れただけで相手の弱点を知ることが出来るなんて、本当恐ろしいもんですよ」

 西は大げさに肩を竦めた。男はそれを背後で感じ、フッと息を漏らす。

「思った通り、いや、それ以上だ。リレイトは十分怪異と渡り合える。……西、お前はこのまま彼の監視を続けろ。彼にはそろそろ、本格的に協力してもらうことになる。高瀬ハルキを餌にすれば簡単に釣れるだろう」
「りょーかいです!」

 任務続行のお達しに、西はニッと爽やかに笑った。次いで、思う。
 ――高瀬ハルキ。可哀想な人間だ。霊感さえなかったら、アレに気付くことも、殺されることもなかったのに。
 そして西はそっと目を伏せた。
 ――その点、後藤も可哀想だ。もしあいつが全ての真実を知り得たら、その時は……。

「西」

 そう考えたところで、男から声をかけられた。ハッとして顔を上げる。男は窓外の景色から視線を外し、椅子を回転させ西の方へ向き直っていた。
 鈍い光を放つ男の視線が、鋭く西を射抜く。

「余計なことを考えるな。己の為すべきことに集中しろ」

 所詮我々は何者でもない。生者に思いを馳せるだけ、無駄なことなのだ。
 西は男の言わんとすることを汲み取り、「了解です」と寂しげに笑みを浮かべた。